闇に響くノクターン

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スーフィズム探求①ーその中にはその中にあるところのものがある

2009-02-26 00:50:13 | イスラーム理解のために
言葉と陶酔にはどのような関係があるのだろう。エクスタシーに達した言葉とはどのような言葉なのであろうか。ひとは言葉だけで陶酔に達することができるのであろうか。
『天地人』から話題は大きく飛ぶが、そんな関心から、ペルシアの詩人ルーミー(1207年~73年)が折にふれて語った言葉をその弟子たちがまとめた『ルーミー語録』(井筒俊彦訳、中央公論社、なお原題は「フィーヒ・マー・フィーヒ」で「その中にはその中にあるところのものがある」という意味)を読みはじめた。

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ルーミーは現在のアフガニスタン東部の町バルフに生まれ、モンゴル侵攻の脅威から小アジアのセルジュク・トルコ領に逃れ、この地でサマーウという音楽と踊りによる修行(かすかな記憶によれば、この音楽と踊りによる修行は『エロイカより愛をこめて』(青池保子)のトルコ編に出てくる)を開始し、同時にさまざまな機会に詩を書き、ひとびとに自分の思想を語ったイスラーム神秘主義(スーフィズム)の詩人だ。「象徴的物語、逸話、クルアーン注釈などの混在のうちに浮び上がる天上的世界の詩的表現として、13世紀イスラーム世界を代表するペルシア語の思想作品」(『岩波イスラーム辞典』)をものしている。

これではあまりにも漠然としているので、『語録』の訳者解説からルーミーの表現と思想の特徴を引用しておこう。
「常人には容易に窺い見ることのできない深遠な神秘主義的実在体験の底から、美しい形象が止めどなく湧き出してくる。それらの形象は互いに衝撞し合い、縺れ合いながら一種独特のリズムの起伏に乗って言葉に転成する。様々な段階と次元における実在体験を美しい詩的形象に移すことのできる天才的詩人はペルシャには幾らでもいる。だが、ルーミーの詩のリズムだけは誰にも真似のできない特異なものと言われている。彼の詩を名手が朗誦する時、聴く人は恍惚感に誘い込まれる。深い瞑想の境位において人の意識を包むあの不思議な陶酔の世界がそこに開示される。本書の一節でルーミーが自分で言っているように、それはもうルーミーの言葉ではない。言葉がどこからともなく現われて、どこかへ流れてゆくのだ。そしてこの言葉の流れには一種の名状しがたいリズムがある。このリズムの起伏と屈曲は神秘家の瞑想的意識の起伏と屈曲である。ルーミーにおける詩と神秘主義の融合とは、およそこのような性質のものである。神秘主義的体験の内容を詩的言語によって表現し描写したというようなことではそれはない。詩的体験がすなわち神秘主義的体験だというのである。ここでは言葉そのものが酔っている。表現された意味に陶酔があるだけでなしに、意味を離れて、言葉の流れそのものに陶酔があり、言葉がそれ自体で神秘主義的陶酔なのである。これがルーミーのポエジーの真髄だと私は思う。」(井筒俊彦氏)

前置きばかり長くなったが、『語録』のなかから、興味深い言葉を抜き出しておこう。ただしこちらは「詩」ではなく、あくまでも折にふれての言葉なので、陶酔的というよりかなり平明だ。

「言葉はほんのうわべごとだ。本当に或る人間を或る人間に引き寄せるものは二人の間にある適合性であって、言葉ではない。たとい預言者が無数の奇蹟を行い、聖者が無数の聖徴を見せたところで、それを見る人と預言者なり聖者なりの間に適合性の要素がなかったら、なんの効果もありはしない。それを見た人の心を矢も楯もたまらず沸騰させるものは、まさにその適合性なのである。」(『ルーミー語録』~談話其の2)

「元来、言葉というものは、言葉に頼らなくては理解できない人のためにあるものだ。言葉がなくとも理解できる人にとって、言葉の必要がどこにあろう。実は天も地も、分る人にとっては全て言葉なのではなかろうか。」(談話其の6)

このあたり、ルーミーがなぜ言語表現を否定して音楽と踊りによる修行を推奨したかという経緯を垣間見ることができるのではないだろうか。しかし次の言葉は大胆だ。

「一切のことは、神の見地からすれば善であり完全である。ただ我々にとって善くないというだけのこと。姦淫と貞節も、祈らぬことも祈ることも、無信仰も信仰も、偶像崇拝も一神崇拝も、神の見地からすればことごとく善である。」(談話其の7)

しかしなぜ、「姦淫と貞節も、祈らぬことも祈ることも、無信仰も信仰も、偶像崇拝も一神崇拝も、神の見地からすれば善」なのか。ルーミーに言わせれば、そうした行為はすべて「理性」に基づくものでしかなく、神の見地は、「理性」とは隔絶しているからだ。ゆえに「言葉はほんのうわべごと」とされるのであろう。しかし次の「うわべごと」は一瞬「うわべごと」を超えてしまう。それは「言葉そのものが酔っている」(井筒氏)からであろう。

「かのもの(神を指す)を、理性はどんなに力んでみたところで捉えることはできない。とはいえ、理性はどうしても力まずにはいられないのだ。力まなくなれば理性はもう理性ではない。常に、夜となく昼となく、対象を捉えようと努力して思い悩み、それで昂奮し落ち着けないのが理性の本性である。その対象がとうてい捉えられるものではなく、認識できるはずのものではないと分っていても、そうなのである。理性は譬えば蛾のようなもの。理性が恋い焦がれる相手は蝋燭のようなもの。蛾が燈焔にまっしぐらに飛び込んでゆけば、必ず燃え焦げて死んでしまう。わが身が火に焦げる。その苦しみがいかに辛くとも、蛾は蝋燭に飛び込まずにはいられない。それが蛾というものだ。もし蛾のような生き物がほかにあって、蝋燭の光を見るともう矢も楯もたまらず、その光の中に身を投げてしまうなら、その生き物は(本性上)蛾であるというほかはない。また、もし蛾が蝋燭の光目がけて突入しても、燃えてしまわないようなら、それは蝋燭ではない。この譬えを以てすれば、もし神の誘いに対しても平然と動ずることなく、全然奮発することもないような人間は人間ではない。また人間が神を認識できるとすれば、そんなものは神ではない。どうしても(神を認識しようとする)努力をやめられずに、煌々たる神の光のまわりを、堪えがたい不安に駆られてぐるぐる廻っている落ち着かぬ存在、それが人間というものだ。そういう人間を焼き焦がし、無と化してしまうもの、しかも理性にはどうしても捉えられないもの、それが神というものだ。」(同上~談話其の9)

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読み出したばかりで、『語録』全体についてはまだなにも言えないが、ルーミーの世界に少しでも近づくことができるよう、CD棚からシマー・ビナーの歌う『ペルシアの古典音楽』(Nimbus Records)を取りだして、BGMとして流している。
なお、『ルーミー語録』の一部は、以下のページで読むことが可能↓。
http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/rumi_gor.html