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闇に響くノクターン

いっしょにノクターンを聴いてみませんか。どこまで続くかわからない暗闇のなかで…。

二度会う人は三度会う

2010-10-27 00:04:26 | 東欧滞在記
今回、波蘭(ポーランド)に来るまで、美術館の様子が皆目わからず、新しくつくられたモダンアートの美術館ではないかとか、いろいろな憶測が飛び交っていたのだが、ヴィッティさんに案内されて到着した美術館はドイツ風のクラシックでがっしりとした建物。町の広場からもひときわ目立つ。すぐそばには、劇場、大学などもある。
美術館の創立は1929年で、K市が波蘭領に編入されたシレジア地方の行政の中心だった時期にあたる。創立時は、美術館専用の建物はなく、行政関係の建物の一部が美術館として利用されていたという。その後36年に、美術館専用の建物の建設がはじまる。しかし39年にナチスが波蘭に侵攻すると、美術館は波蘭の自治の象徴とみなされ、破壊されてしまう。破壊を免れた収蔵品は、元々ドイツ領だった近隣のB市の美術館に移された。美術館が再開されたのは共産主義政権末期の84年で、それまでのホテルを改装して美術館にしたという。
重い扉を押してこの複雑な歴史をもつ美術館の展示室に案内されると、エントランスで、まず最初に、私が書いた文章の要約が目に飛び込んできた。事前に、展覧会で配布するパンフレット用の解説は書いてわたしていたものの、その文章がこんな風に使われるとはまったく知らされていなかったので、とても驚いたし、正直に言ってとてもうれしかった(ただし波蘭語に翻訳されているので、内容は私にもさっぱりわからない)。
一方、今回の展覧会は輸送が大変で、日本からそれほど多くの展示物を運んでいないので、展示のチェック自体はそれほど困難ではない。友人と相談したうえ、メインとなる作品の位置変更をお願いし、あとは波蘭側スタッフの現場での判断にすべてまかせることにした。
続いてB市の第二会場に移動。ここは、上にも少し書いたように、第二世界大戦終了時までドイツ領で、K市と行政や文化の中心を競い合った古い都市だ。ただし戦後はK市にその地位を奪い返され、現在はかなりさびれた印象だ。展覧会の第二会場となったギャラリーは、元々裕福なユダヤ人の住居だった建物を改装したものとのことで、あちこちに住居の面影が残っている。宅内に建物ができた当時に設置された古いエレベーターが残っているのも、元の居住者の富裕ぶりを物語っている。場所も、B市の中心に位置する広場の一画という好立地だ。メインの展示室は、広場の側が大きなガラス窓になっているのでとても明るい一方で、外景が見えるという展示会場としてはちょっと変わった雰囲気だ。
ただし展示の準備は美術館にくらべるとかなり遅れており、明日のオープニングに間に合わせるためには、今晩かなりがんばらなくてはいけないという感じだ。遅れを取り戻そうとスタッフが一生懸命動き回っているので、こちらの展示も、細部は現場スタッフにまかせることにして、私と友人は、大まかな状態だけをチェック。明日のオープニング前にもう一度訪問して、そのときに細かい指示を出すということで互いの了解が成立した。
とりあえず現場のチェックが終わったので、急いでK市に戻る。ホテルで休憩しているところに、先日クラクフを案内してもらったリシャールさんが到着した。再会の挨拶をすますかすまさないかのタイミングで、今度は波蘭の新聞社からの取材だ。
最初、通訳を介しての取材にとまどっていた友人も、しだいにリシャールさんと波長がかみ合ってくる。一方新聞社側も事前に友人の経歴をしっかり調べてきたようで、かなり細かいことをきいてくる。ただし実際の作品をまだみていないために、どうこたえたらいいかとまどう的はずれの質問もあったが、最後は和気藹々と取材が終わった。いずれにしても、新聞社側が今回の展覧会から異国情緒以外の何かをくみ取ろうとしている真摯な態度が、ひしと伝わってくる。
取材を済まして安心していると、今度は、市の文化センターで波蘭人の写真家の個展がはじまったので、それに行こうとヴィッティさんからの提案。拒む理由は何もない。
われわれが到着したとき、会場はさまざまな人たちですでにかなりにぎわっていたが、私と友人は、どちらからともなく、午前中にK市を一緒に回ったフランス人グループを見つけ、「やあ、これは奇遇」と再会の挨拶。明日は友人の展覧会の初日だからぜひ見に来て欲しいと、異国でできた新しい友人たちをオープニングに招待。
一方、会場には、リシャールさんの通訳仲間という波蘭人のポールさんがいて、リシャールさんを介してわれわれに親しく話しかけてくる。ポールさんはシニックな毒舌家で、曰く「芸術家は好き勝手に何でも言う権利があるんだから、会見とかがあるんだったら、何でも言って相手を煙に巻いた方がいいですよ。ジャーナリストなんて適当にあしらいなさい。バカはしょせんバカなんだから」とか、言いたい放題だ。ともかく、このポールさんをも、明日はぜひオープニングに来て欲しいと誘う。
ところで、われわれが展覧会をみているあいだ、ヴィッティさんは、まだ作業を続けているB市のギャラリーのスタッフをずっと気遣っていたのだが、だいぶ遅くなったのでともかく食事にしましょうと夕食の提案。場所は例によってヴィッティさんにおまかせすると、今回は、ロシア料理のレストランに案内してくれた。移動の途中、町のあちこちに明日からはじまる友人の展覧会のポスターが貼ってあるのが目につき、友人は大喜び。
さておもしろいことに、ヴィッティさんに案内されて入ったレストランは、別のグループの打ち上げ会場と重なっており、われわれは例のフランス人グループとまたしても再会した。1日に三度も会えば、もうすっかり友達だ。フランス人たちは、れわれの席の方が話がはずむと打ち上げのグループを離脱してわれわれに合流。そのせいで会話は、言葉も内容も、いろいろなものがごったまぜになってしまったが、みんなアルコールが入っているので、このごたまぜの会話がとても楽しい。滅茶苦茶いろいろなことを話して、千鳥足でホテルに戻った。

ポーランドの1920年代

2010-10-24 21:30:49 | 東欧滞在記
30日、今日はいよいよ美術館に行き、展示をチェックすることになっている。
疲れているせいでこれまでよりはぐっすり眠れるが、それでも早朝に目を覚まし、前日アウシュヴィッツで購入した絵はがきを取り出して、中○新一さんや大学時代からの友人宛てに印象を記す。アウシュヴィッツの印象は、あまりにも重いので、誰にでもというわけにはいかない。
8時に友人を誘って朝食。ホテルのレストランでの朝食もだいぶ慣れてきたので、この日はア・ラ・カルトのメニューから、気になっていた「ウィーン風卵」とカプチーノ・コーヒーを頼む。ウィーン風卵というのは、簡単にいうと、ガラスの器のなかで半熟にした卵にバターと香辛料をのせたものだったが、けっこういける。これはその後帰国するまで、私の朝の定番となった。
朝食後は、ホテルの周囲を散歩して時間を過ごす。戻ってから急いで着替え。今日は美術館に行くので少しこざっぱりした身なりにしようとちょっと悩んだが、20年ほど前にMくんにもらったペイズリー柄のシャツを着ていくことにした。

前日、「ワルシャワ、クラクフ、アウシュヴィッツと、波蘭(ポーランド)の町の印象は、毎日驚きの連続で、日ごとに違う波蘭の姿が見える」とヴィッティさんらに話したところ、「明日の午前中、今度はK市をまわるミニ・ツアーを予定しているので、ぜひK市の新たな印象も<発見>して欲しい」という。ただし、このツアーもガイドはフランス語で、フランス人グループと一緒だという。またしてもフランス語のガイドというのはつらいが、せっかくの好意なので、楽しみに迎えを待った。
10時30分頃にミニ・ツアー出発。いっしょにK市内を見学したフランス人グループを簡単に紹介すると、K市は現在、友人の展覧会をすすめているだけでなく、さまざまなアート・フェスティバルを開催中なのだが、その一環で招聘したフランスの建築家たちだ。彼らに、1920年代に建造された建物を具体的に見てもらうのがツアーの狙いという。1920年代というと、第一次世界大戦終了後間もない時期で、この時期、戦後処理の一環としてK市はブロツワフなど他のシレジアの都市から分離されて新しく誕生した波蘭共和国に編入され、それまでのドイツ文化とは異なる新たな文化の確立を模索していた。われわれが滞在しているホテルをはじめ、市の中心部はドイツの面影を強く残しているのだが、少し離れた地域には1920年代に建築された建物がかなり残っており、それらからその時代の雰囲気を伺うことができるというのだ。
まず最初にみたのは兵士のための教会。ヨーロッパの教会は、独立した建造物として広場の中心にある(もしくは教会を中心にして広場が形成される)のが一般的だが、この教会は、となりの建造物から繋がっていて、独立した建造物になっていないことがもっとも大きな建築学上の特徴だという(具体的な建築を前にしての解説なので、このあたりは私でもなんとか理解できる)。建築自体も、装飾がほとんどなく、直線だけで構成したいわゆるモダンなスタイルだ。
続いて住居に使われた一般の建物を次々に案内してもらったが、いずれも直線的な構成で、古い建造物に見られる外に張りだしたテラスや装飾がないのがまず大きな特徴。そして建物の角は柱や外壁で直角になっているのではなく、大半が、角の部分をカーブさせて二つの面が明確にわかれるのを回避し、直線的な構造からくる固い印象を緩和している。またそのカーブしたコーナーには、やはり大半の建物が大きなガラス窓を配置して、外観上も内側からも、明るさを強調している。一方、建物の外壁には一見したところなんの装飾もないのだが、くぼんだ窓框の内側などのちょっと目につきにくい部分に、細かい装飾を入れ、機能一点張りの建築ではないということをさりげなく主張している。
さらに、一部の建物は、窓枠などを大胆なアンシンメトリーに配置している。
そうした建物の代表例として、特別のはからいで、現在某国の領事館として使われている建物に案内され、その内部装飾も一部見せてもらった。

建物見学の後、フランス人グループと別れて展覧会の主催団体の事務所に案内され、ここでヴィッティさんと落ち合っていよいよ美術館に移動。だがその前に昼食をしなくてはと言われて、今度はハンガリー料理のレストランに連れていってもらった。ただしわれわれはまだそれほど食欲がない。スープとサラダくらいでいいといったところ、名物だからといって、金属の器に入れてそのまま直火で下から暖める濃厚なスープを選んでくれた。飲み物は、私は水にしたが、友人はこれもすすめられるまま、甘いトカイ・ワインを試している。その後、一度は乗りたいとおもっていた市街電車で美術館前の広場まで移動。

     ☆     ☆     ☆

現在小ブログに書いている記事にもとづき、11月13日(土)と11月20日(土)に、渋谷の某ギャラリーでちょっとしたお話をすることになりました。会費\2,000で1ドリンク付き、開始時間は両日とも19:15です。この会では、もちろん波蘭の画像も公開します。新宿のタックスノットに案内のチラシを置いてきましたので、ご興味のある方は、タックスノットで詳細をご確認頂くか、メール(tenebres@mail.goo.ne.jp)で私に直接ご連絡ください。

アウシュヴィッツを見て回る

2010-10-22 00:50:30 | 東欧滞在記
29日、夜中に目が覚める時差ボケはなかなか解消しない。日本に宛てて、昨日の続きのハガキを書く。昨日、ホテルでK市の地図を入手してあるので、朝食後、その地図をたよりに郵便局にハガキを出しに行く。小雨混じりの天気で、この日は波蘭(ポーランド)に来てからもっとも寒い。
郵便局の建物は、ホテルの近くにすぐに見つかった。重い木戸を押してなかに入る。なかは簡素というか質実剛健なつくり。ただし外国語による案内はなにもない。受付をざっと見回してハガキ類の受付とおぼしき窓口に行き、ガイドブックで覚えた「日本へ」という表現を口に出してともかくハガキを出す。昨日のクラクフの郵便馬車の受付とは異なり、ここK市の郵便局窓口の女性は、外国語にはすこしも対応できないという感じだ。ただしお金の計算はしっかりしている様子なので、高額紙幣を崩すには、郵便局はもってこいだ。郵便局から戻って一休みしているうちに、アウシュヴィッツ見学の時間となった。

時間どおりにいつものプジョーが迎えに来る。手順説明のため主催団体の若者ジャックさんも一緒に来て、アウシュヴィッツに行くと、現地にはすでにガイドを手配してあるので、そのガイドと一緒にアウシュヴィッツを見学して、時間になったらまたプジョーで戻ってきて欲しいという。ただしである。そのガイドはフランス人向けのガイドなので、フランス人グループにまじって一緒にアウシュヴィッツを回って欲しいという。う~む、これでほんとに大丈夫なんだろうか。気が重いがともかくK市を出発。
K市からアウシュヴィッツまでの道は途中まで昨日のクラクフ行きと一緒。最後にその道から離れて、30分ほどのドライブでアウシュヴィッツに着く。しかし、目的地に近づくというのにすこしも浮いた気分にならない。近づけば近づくほど気が重くなる場所、それがアウシュヴィッツだ。車を降りると、受付のサービスセンターのそばの柳の大木が目につくが、その枝が静かに揺れているのも悲しみをそそる。
さて、サービスセンターには、世界各国から次々に見学者が到着しものすごく混雑している。その人たちが、それぞれの言葉ができるガイドに連れられて収容所見学のミニ・ツァーにたっていく。待つことしばし。フランス語のガイドの女性がやってきて、われわれと一緒にアウシュヴィッツを回る同行者とも顔合わせ。聞けば彼らはベルギーからやってきた若者の2人組で、われわれのチームは4人だけの小編成。ガイドには、「われわれは日本からやってきた。ほんらい自分たちだけで見学しようとおもっていたら、波蘭の人たちが好意であなたを紹介してくれた。われわれはフランス語がそれほどできるわけではないのであなたの説明がほとんど理解できないと思う。しかしわれわれはそれでもすこしも気にしないので、あなたはわれわれを意識せず、ふだんのとおりガイドして欲しい」と挨拶した。
実際、収容所のなかは、いろいろな情報誌やガイドブックに書いてあるとおりの内容なので、言葉が理解できなくてもだいたいの展示は理解できる。それでも、ちょっとけげんな顔をしていると、ガイドがゆっくり丁寧に説明してくれる。こうしてわれわれは、殺された人たちの顔写真の列、死者からはぎとった毛髪で編んだ織物、眼鏡の山、カバンの山、ガスの材料とその空き缶の山、反抗者の公開処刑場そしてガス室などを次々に見て歩いた。友人も、こわばった顔をしながら展示を見ている。しかし展示のあまりの悲惨さに、写真をとるのがはばかられる。ポーランド語や英語のガイドの一行と違い、われわれは小編成なので、小回りをきかせていろいろなものを見学できたのではないかとおもう。アウシュヴィッツを一とおり見学した後、バスで近隣のビルケナウの収容所跡に向かう。このビルケナウは、アウシュヴィッツを上回る規模の広大な収容所で、その敷地の中央に立ったとき、この空間が見渡す限り収容所であったという事実に身震いを禁じることができなかった。
アウシュヴィッツがどういう場所でどのような残虐な行為が行われていたかは、いろいろなところに記され、また探せばその記録映像も見ることができる。しかしこの空間の広がりとそのことがもつ恐ろしさは、おそらく実際にこの空間に立ってみなければ感じることができないだろう。歩けば歩くほど体が震えるのは、冷たい雨が降っているせいばかりではない。ガイドは最後に、「残念なことに、今も世界のどこかで野蛮な行為が続いているが、それとここで行われたことの違いは、ここの蛮行は計算された蛮行だったということだ」と語って案内を終えた。私は「正直に言って、今日のあなたの説明を半分ほどしか理解できなかかったが、今日に関しては、すべての説明を理解できないことを幸せだと感じた」と感想を伝えた。
ビルケナウの見学を終えると外には約束どおりプジョーが待っている。われわれは無言でプジョーに乗り込んでK市に戻った。

     ☆     ☆      ☆

ホテルに戻ったわれわれがどういう気持ちになっているかは、ヴィッティさんも十分に察してしる。しばらく気持ちを整理するための時間をつくってくれたうえで、気散じを兼ねて、ヴンダバールというミュンヘン料理の店に誘ってくれた。

クラクフのユダヤ・レストラン

2010-10-17 22:44:19 | 東欧滞在記
ヴァヴェル城からゆっくり10分ほど歩くと、そこはクラクフの中央市場広場。その北東に目指す聖マリア教会がある。
この教会は1222年の創建で、正式名称は被昇天のマリア教会。没後にキリストの母として天に迎えられるマリアを祝している。内陣に多く使われているコバルト・ブルーの彩色と金彩が天を象徴しているという。ステンドグラスの効果もあって、祭壇はまばゆいばかりの美しさだ。現在も宗教的な儀式や富裕な市民の結婚式などに使われているとのことだったので、はじめ写真撮影がはばかられたのだが、内陣のあまりの美しさと、リシャールさんの薦めもあって、入り口に戻って撮影料を払いあちこちを写真に納めることにした。
大きな教会だけに時間をかけて建てられたり修復されたりしているのだが、そのなかで私が注目したのは、主祭壇横の、19世紀に描かれたというマリアの昇天を祝う天使たちの像。雲に乗った複数の天使たちが手に手にさまざまな楽器をもちマリアを祝福しているのだが、その構図が宇治の平○院鳳凰堂の空中供養菩薩像にそっくりだ。その感想をリシャールさんに告げると、「マリア教会に来てそんなことを言ったのはあなたがはじめてだが、言われてみると確かに似ているかもしれない。比較的新しい時代のものなので、もしかしたら平○院鳳凰堂の影響が何かあるのかもしれない」と首をひねっている。こちらはこちらで、クラクフで平○院の話をして、すぐにそれに相づちが打てる波蘭(ポーランド)人にすっかり感心。

聖マリア教会を出たところで、リシャールさんから昼食の提案。すぐ近くにおいしいレストランを知っているのでそこに行こうと薦められるのを断り、私は、ガイドブックに載っているア○エルという店に行くことを強硬に主張。最初難色を示したリシャールさんも、それほどまでに言うならばタクシーで行けなくはないので、ア○エルに行ってみようと同意し、教会裏でタクシーをひろう。
ア○エルはユダヤ料理のレストラン。ユダヤ料理のレストラン自体はパリのユダヤ人地区でも見かけたことがあり興味があったのだが、どんな店かわからないので案内できないとガイドに拒否されて行くことができずにいたもの。波蘭は治安も安定しているので、クラクフに行ったら、他のレストランではなく絶対これにしようと事前に固く決めて、友達をも説得していたのだ。
タクシーはすぐにレストランのある一画についたが、いざ着いてみると、リシャールさんはこの地域の事情にも非常に詳しい。曰く、この地域は戦前のユダヤ人のゲットーがあった一帯で、ナチスによって徹底的に迫害され、元々の居住者はほぼ100%虐殺され、戦後の共産党時代もこの一帯は無人の地域だったという。また、ポランスキーがこの近くの出身であるだけでなく、スピルバーグが『シンドラーのリスト』を撮影する際にも、戦前のゲットーのイメージを残しているというのでこの一帯がロケ地として利用されたという。一通り説明を聞いてからレストランに入る。
レストランに入るとリシャールさんはさらに大活躍。店と交渉してきちんと席を確保してくれただけでなく、何を頼んだらいいかさっぱりわからないわれわれに、この店のおすすめはズバリこれだと、おいしいものをサジェストしてくれる。
まずスープだが、牛肉とハチミツとシナモンのはいったスープがここでしか味わうことのできないもので、濃厚な味だが試す価値があるというので、みんなでそれを選ぶ(16ズウォチ)。
メインは魚、鳥、獣肉の何にするかときかれて迷ったが、この店でしか食べれないものということで、結局、鵞鳥の足のチェリー・ソースを選んだ(48ズウォチ)。それにサラダを1皿とって、鵞鳥とサラダは3人でシェア。飲み物は例によって地ビール。
さてスープだが、確かにこれまで一度も味わったことのない不思議な味で、やや甘いがスパイシーで非常においしい。続いて出てきた鵞鳥の料理も、チェリー・ソースの甘酸っぱさとうまくマッチしている。われわれは、はじめての食感をすっかり堪能した。
少し落ち着いて店内を見回すと、狭い店のなかには、旧約聖書に題材をとったものなど、ユダヤ絵画やユダヤ関係のグッズがところ狭しとならべてある。
来客もひっきりなしで、すぐさっきまで英語が飛び交っていたかとおもうと、いつの間にか隣はドイツ人になっている。世界各地のユダヤ人や一般観光客が、この店を目指してやって来るのだろう。そんなことに感心していると、また新しい客がやって来て、ギャルソンが今度はフランス語で接客している。それに励まされて、店内を撮影していいかとフランス語で訪ねると、どうぞどうぞと言うので、観光客の特権で、遠慮なくパチパチ写真をとらせてもらった。
おいしい食事とビールが手伝って、リシャールさんとの会話もスムーズで、今回の友人の展覧会の大きなテーマとして、われわれは、戦後の日本社会における人間存在の希薄化の問題を、波蘭の人々に伝えたいとおもっていると説明した。
またせっかくの機会なので、波蘭語のなかの難しい発音をどうすればいいかも教えてもらった。
同じく言葉の問題では、日本語の「おはよう、こんにちは」にあたる表現が波蘭語では「ジェーン・ドーブルィ」なのだが、このなかの「ジェーン」は、フランス語の「ボンジュール」の「ジュール」と語根を同じくしていること、また「ありがとう」にあたる「ジェンクィエン」は、英語の「サンクス」、ドイツ語の「ダンケ」と語根を同じくしていることを教えてもらった。
そうこうしている間にあっという間に時間がたち、いつの間にかK市に戻る時間が迫ってきた。タクシーで市場広場に戻り、朝ホテルで書いた絵はがきを日本に出したいのだが近くに郵便局はないかと言うと、広場の端に留めてある馬車が郵便馬車なので、それから郵便を出せばいいと教えてくれる。われわれは、郵便馬車からはがきを出すということにまた感激。
そののち広場中央の古い織物会館内の土産物店を簡単に見て、待っていてくれたプジョーに乗り込んでクラクフを後にした。

K市に戻るとヴィッティさんがホテル・ロビーで待っていて、クラクフはどうだったか、さっそくその印象を聞いてくる。われわれはもちろん、「ほんとうに、大変すばらしかった」応じる。「それはとてもよかった。では、一息入れたら夕食にしよう」と、間髪を入れずに食事のお誘い。「すべてお任せします」とこたえて、とりあえず部屋に戻る。
8時過ぎに、ヴィッティさん、ルイさん、ジャックさんに加え、もう一人、髭のジャックさんを交えて、今度はタチアナというカジュアル・レストランへ。昨日の経験にこりて、われわれはごくごく軽いものを選んでもらって、ビールで乾杯。クラクフの話、リシャールさんの話など、仕入れたばかりのネタをいろいろと披露した。
われわれが大満足だったことにヴィッティさんたちもとても喜んでくれて、「では、明日はアウシュヴィッツ見学をアレンジしてあるので、今日と同じくらいの時間にホテルで待っていて欲しい」と、新たに明日の予定の提案。展覧会の様子が気にならないではなかったが、主催者がすすめるのだからと喜んでそれにしたがうことにし、明日の予定を再確認してお開きになった。

     ☆     ☆     ☆

【ア○エルのサイト】
http://www.ariel.ceti.pl/

象の家、犀の家

2010-10-16 12:56:26 | 東欧滞在記
9月28日。やはり午前3時くらいに目が覚める。もう一度目をつぶってみたり、あきらめて本を取り出してみたり、無駄な努力。ホテルの部屋に絵はがきが備え付けてあったので、実家とカレシモドキに宛てて、ぶじ到着したと近況を記す。
この日も小雨交じりで外は寒いが、夜明けを待ってK市内を散策。ただし地図がないので自分がどこにいるかもさっぱりわからないし、駅や美術館がどこにあるかもわからない。ホテルのまわりを少しうろうろして散策を終えた。
8時になって、友達を誘って朝食。日本にいたときにネットで調べたところ、このホテルの朝食は非常によかったと滞在客が絶賛していたので期待大。食堂は5階まで吹き抜けで非常にゆったりとしたつくり。天井もガラス張りになっていて、そのことが開放感をさらに大きくしている。食事はビュッフェ・スタイルだが、野菜、肉、チーズなどが豊富にならべられ、いずれも非常においしい。野菜では、キュウリのみずみずしさがとりわけすばらしい。
前日約束したとおり10時過ぎに、プジョーがわれわれを迎えに来る。わざわざ傘を2本もってきてくれた親切にも感動。運転手さんは英語がほとんどできないので、ともかくすすめられるままに車に乗り込み、クラクフまで気楽なドライブ。K市からクラクフまでは約1時間ほどだが、昨日のワルシャワからK市までと同様、途中に山や丘はまったくなく、どこまで行っても平坦な道が続く。

クラクフは、16世紀末まで波蘭(ポーランド)の首都だった古い都市。第二次世界大戦の戦禍を受けなかったので、旧市街は、古い街並みがそのまま残っている。
クラクフが首都だった当時の波蘭は、リトアニアと連合して、東ヨーロッパ中央で繁栄を謳歌していた。遷都後ではあるが、神聖ローマ帝国がオスマン・トルコに攻撃されたとき、参戦してウィーンをトルコの包囲から解放した勇猛ぶりは、ヨーロッパ史のなかで非常に有名。それとは逆に、18世紀になると王権が弱体化し、当時ひたすら領土拡大を目指していたロシア、プロイセン、オーストリアの餌食となって国土を分割され、ついには国家が消滅してしまったこともまた有名。波蘭問題は、18世紀ヨーロッパ世界の最大の政治問題の一つであり、ふだん18世紀の社会思想をいろいろと勉強している私にとっても、非常に興味深い国だ。ちなみに、当時のフランス国王ルイ15世は、波蘭の大貴族で1704年~09年にスウェーデンの支持で一時的に国王に推戴されたスタニスワフ・レシチニスキの娘マリア・レシチニスカ(フランス風に発音するとマリー・レグザンスカ)を王妃に迎えており、フランスも波蘭と縁が深い。

閑話休題。
鉄道でクラクフに着く場合、旧市街北端の城門・バルバカンをとおって市内に入るのがお決まりのコースのようだが、われわれはヴィスワ川をわたって南側からクラクフ旧市街に入り、まずは旧王宮ヴァヴェル城前に車を止める。ここでガイドと落ち合い、運転手とガイドのあいだで待ち合わせの時間を決めた後、いよいよクラクフ観光に出発。
ガイドをつとめてくれたリシャールさんは、ヨーロッパでも最古の大学の一つヤギェウォ大学の大学院生と説明されていたが、直接話を聞いてみると、もう40代で、自分の研究を続けるために大学に残っているのだという。専攻は言語学で、波蘭語、日本語だけでなくヨーロッパの主要言語のほとんどに堪能で、10カ国語ができるという。大学生活を続けるために、クラクフを訪れる日本人観光客のガイドや日本を訪れる波蘭人観光客のガイドを行っているとのことで、日本語ができるだけでなく、日本の事情にも非常にくわしい。ガイドとしてもとてもすばらしく、歴代の王の事跡、ヴァヴェル城の建築上の特徴、展示物それぞれの重要なポイントなどを余すところなく説明してくれる。
われわれは、さっそく王宮の建物をそのまま利用した博物館に入ったが、展示物のなかで圧倒的なのは、壁を飾るタペストリーの数々。波蘭国王の富を誇示するかのように、ヨーロッパのなかでも貴重なものとされるネーデルラント産のタペストリーが、ところ狭しと掛けられている。国王の謁見の間が、玉座とともに残されているのもみもの。
そうしたなかで私は、リシャールさんによるヨーロッパにおける家具の歴史の説明をとりわけ興味深くきいた。曰く、王侯の居城でもイスやテーブルなどと異なり箪笥が家具として入りこんだ歴史は比較的浅く、ヴァヴェル城では、その初期の簡素なものから装飾が施された華美なものまで、さまざまなタイプの箪笥が見られるという。
博識なリシャールさんの説明を聞いていると、王宮内の博物館見物だけでも1日かかりそうだが、惜しみつつそれを割愛して頂いて、続けて、歴代の王が戴冠式を行った城内の大聖堂を見物し、ヴァヴェル城をあとにした。
リシャールさんが次に目指すのは聖マリア教会。そこに至る道すがら、古い来歴をもつ教会が次々と姿をあらわすが、時間の制限があるので、残念ながらその見学も断念せざるを得ない。
おもしろいのは、ヴァヴェル城から聖マリア教会に至る通りの光景で、リシャールさんは、14世紀に開かれたというクラクフでもっとも古い通りを選んだのだが、その通りに残る古い建物の正面扉の上のレリーフにわれわれの注意を促す。それらの大半は、象、犀などの動物の図柄なのだが、通りに面した家にまだ番地がなかった時代、各家は目印のために正面にレリーフを刻み、それによって「象の家」「犀の家」などと呼ばれていたのだという。
ちなみに、波蘭も13世紀にモンゴルの侵入を受けており、クラクフをはじめとする都市が本格的に建てられ始めるのはモンゴル侵入以降。したがって14世紀の建造物や構築物は、現存する最古の建造物群ということになる(ただし、それ以前のもので例外的に残っているものは一部あるが、13世紀以前の建造物は木造が多く、それも残存しない原因の一つになっているという)。

ポーランドの大平原を列車で移動

2010-10-12 13:25:14 | 東欧滞在記
波蘭(ポーランド)国内を列車で移動するというのは、ヨーロッパ映画に出てくる列車のコンパートメントを一度味わってみたいという私の強い希望で実現したのだが、なにせ日本からもってきた大きなスーツケースを引きずっているので、映画のように格好よくというわけにはいかない。車内片側の通路をゴトゴトと移動し、ようやく目指すコンパートメントを探し出した。6人席の同室者は、ビジネスマン風の男性、遊び人風の若い男性、有閑マダム風の女性の3人だったが(残る1つは空席)、突然の東洋人の闖入にみなびっくりした様子だった。ただしこの3人は波蘭人のなかではインテリらしく、幸いなことに英語が通じる。最初に、「われわれは日本からの旅行者だが、ヨーロッパを列車で旅するのははじめてなので、非礼があったら許して欲しい。また車内ルールなどで気づいたことがあったらいろいろと教えて欲しい」と頼むと、快くそれに応じてくれた。
まずスーツケースだが、これは大きすぎてどうしてもコンパートメント内に入れることができない。困っていると、無理に入れずにそのまま通路に置いておけばいいと教えてくれた。
また乗車してからしばらくするとワゴンを引いた男性がやってきたが、この飲み物は乗客への無料のサービスだから、のどがかわいているなら好きなものをもらえばいいと教えてくれた。
それ以外は、(それなりに興味津々なのだろうが)こちらが話しかけない限り無関心を装って、こちらの領域に侵入してくることはない。おかげでこちらもすっかりくつろいで、窓の外を見る余裕がでてきた。

ワルシャワを出ると、K市まで途中大きな町はほとんどなく、外の景色は行けども行けども平野が続いている。幾つか森はあるのだが、日本のように山の中が開発されずに森になっているのではなく、平野の真ん中にこんもりとした森が点在している。また森が切れると今度は牧場があったりして、牛の放牧もあちらこちらに見受けられる。北国なので採れる農産物は限られているのだろうが、その点を除けば、ポーランドはかなり豊かな農業国という印象だ。

ワルシャワからの途中停車(やはり5分ほど)は1駅のみ、2時間30分ほどの乗車で、午後5時少し前にめざすK市に着いた。同室の女性もK市で下車で、「私も一緒に降りるから、私と同じようにすれば下車は大丈夫」とわれわれを誘導してくれる。列車はゆっくりとK駅に停車する。駅はそれほど大きくなく、ホームも薄汚れている。
日本的な感覚で言うと、このホームで主催者の出迎えがあってしかるべきだと思うのだが、それらしき人の姿は見えない。風習が違うのだからそんなものかとおもいながら出口へ向かう階段を下っていくと、階段の途中でようやく、日本でも会っているルイさん(以下、人名は仮名)と主催団体勤務の若者ジャックさんに遭遇した。後から考えてみると、波蘭では列車がホームのどの位置に停まるかわからないので、すべての乗客が降りてくる階段で待つのが一番確実な出迎え方ということなのだろう。
駅の外にはプジョーが待たせてあって、スーツケースをそれに積み込み、まずはホテルに直行。ホテルの外観はウェブで何度も見ているのだが、実際の建物をみると、それとまったく同じクラシックで瀟洒なつくりだ。部屋に入ってさっそくスーツケースをあけ、日本から持参した上善如水をルイさんとジャックさんにわたす。そのうえで午後7時頃にロビーで再会することを約して、二人は引き上げた。
午後7時、ルイさん、ジャックさんのコンビに主催団体の会計係ヴィッティさんが加わり、まずは歓迎の小宴。われわれが泊まっているホテルよりも隣のホテルの方が気楽だというので、隣のホテルに移動し会食。
着席してまず展覧会オープニングの案内状を見せてもらったが、美術館の尽力で日本大使館の後援がとれている。これには友達も大喜び。こちらからは、「事務所でみなさんでお召し上がりください」と日本茶のティーバッグと和菓子をわたす。
続いて、飲み物でも食べ物でもなんでも好きなものをどうぞという薦めに応じて、固いパンをくり抜いた器に盛った波蘭名物のキノコのクリーム・スープとピエロギを注文する。飲み物はビール。波蘭はワインの産出国ではないのでワインは基本的に輸入物であまりいいものがない。これに対し、ビールは地ビールがとてもおいしいので、以後、食事の飲み物はたいていビールでとおした。
ピエロギはキャベツや肉などを小麦粉の皮でくるんだ一種の餃子とガイドブックに説明してあるが、餃子のつもりで食べると、皮が厚くてかなりモソモソしている。またサイズも大きい。疲れも手伝って、1個食べたらすっかり満腹になってしまった。
あとは食べながら歓談だが、事前打ち合わせのためにルイさんが東京に来たとき、波蘭に行ったら古都クラクフをぜひ訪ねて見たいと言ったのを覚えていてくれて、明日はすでにクラクフ観光の用意がしてあるという。
また、「せっかくの機会なので、クラクフ以外にも行きたい場所があったら遠慮なく言って欲しい」と言うので、「われわれは展覧会の準備のために来たので、もちろん展覧会関連のスケジュールを組んでもらってもいっこうにかまわない。でももし可能であれば、その合間でいいからアウシュヴィッツとヴロツワフにも行ってみたい。そういう空き時間をつくってもらえればとてもうれしい」と希望を伝える。「検討してみましょう」とヴィッティさん。全体として、まずは互いの自己紹介のための軽い会話がメインで、こちらの疲労に配慮して会食は早めに終了。「明日の午前10時にホテルまで車を差し向けるので、それに乗ってクラクフに行って欲しい。現地には日本語ができるガイドを手配済みで、かつそのガイドにはオープニングの時のささまざまな通訳も頼んであるので、伝えたいことがあったら明日そのガイドによく伝えておいて欲しい」という。至れり尽くせりの配慮だ。

ワルシャワの駅で右往左往

2010-10-10 23:03:51 | 東欧滞在記
27日の朝。
人間の性(さが)とは不思議なもので、前日あれだけ遅くまで起きていて疲れているというのに午前3時(日本時間の午前11時)には目が覚め、もう眠れない。覚悟していたとはいえ、時差ボケだ。しかたがないので、ガイドブックを読んだり、日本から持ち込んだ本を読んだりするが、神経が高ぶっているので落ち着いて本を読む気にならない。少し明るくなるまで、ぼおっとして時間を過ごす。
午前6時、部屋を出て、ホテル内のネットルームからインターネットにアクセスする。日本語のページはすべて文字化けしていて、まったく読むことができない。またツール・バーなどはすべて波蘭(ポーランド)語表記なので、これもまったく使えない。数年前パリのネットカフェに入ったときは、日本語のページが文字化けするということはなかったので、それと比べると波蘭のネット環境はだいぶ遅れているようだ。
午前7時、友達も眠れてないことはわかっているので部屋をノックすると、案の定しっかり起きている。早朝の散歩に誘ってみたが、しばらく横になっていたいというので、10時にホテルのロビーで待ち合わせることにして。まずは一人でワルシャワ散歩に出かける。天候はあいにくの小雨まじりで、気温もやや肌寒いが、せっかくのワルシャワ滞在で時間をむだにするという法はない。
まず、ワルシャワ中央駅の地下街にある両替所(カントール)でユーロを波蘭通貨のズウォチにかえる。続いて、市内移動のための電車の切符購入を試みたが、早朝のためあいているのは自販機ばかりでうまくゆかない。
ちなみに、ワルシャワ中央駅の地下街は、降りてすぐ、まずマクドナルドの大きなショップが目につくが、それ以外の店は小さな商店が多く、全体的に薄汚れている。犯罪が多いのか、警官の姿も目につく。地下街全体は、昔の上野駅の地下道のような雰囲気だ。
市街電車をあきらめて、次にタクシー乗り場に向かう。運転手に知っているあらゆる言葉でワジェンキ公園のショパン像を見たいと告げるる。うまくいくか不安はあったが、そこはプロ、すぐに「OK」と始動。10分かかるかかからないかで、「あれがそうだよ」と、目的のショパン像の前まで到着した。ここまでの料金は15ズウォチ。初乗りは6ズウォチ。ただしポーランドでのタクシーの乗り方と料金体系は最後の最後までよくわからなかった。
小雨交じりの早朝のため、ワジェンキ公園には人気がまったくなく、誰にもじゃまされることなくショパン像と対面。周囲の赤いバラと小さなリスが印象的だ。とはいえ、ここにはそれ以上見るものはなく、しかもベンチが濡れていて座れないので、早々に退散。公園横の通りを繁華街に向けて北上。
ところでこの公園、植物園も併設されていて、ともかく非常に美しい。日本の公園に比べると、刈り込みすぎないで樹木がうっそうと茂っているのも目に快い。季節柄、栗の実が公園中にボロボロとこぼれ落ちている。また通りの反対側は各国の大使館や公館などの瀟洒な建物が続いていて、昨夜見たワルシャワの中心部とは表情がまったく違う。
しばらく歩くと公園も終わり、高級ショップや古本屋があったので、そのショウウィンドウを観察。歩き疲れたところで、つごうよくシェラトン・ホテルがあり、ホテル前にタクシーが止まっていたので、これで繁華街に移動。適当なところで降ろしてもらったが、これで、昨晩新世界通りとおもって入り込んだのは新世界通りの1本手前の別の通りだということがわかった。
とりたてて目的もなくぶらぶらと歩いているうちにだいぶ時間もたったので、いったん、友達が待つホテルに戻ることにする。そこで今度はブリストル・ホテルの前でタクシーを拾ったのだが、15ズウォチ見当のところを35ズウォチ要求された。少し前にも書いたが、なぜこんなに料金が違うのかは皆目わからない。ただしこのタクシーはベンツで、車内もピカピカだ。
ホテルのロビーで友達と落ち合い、スーツケースをクロークに預けて、ワルシャワ見物のやりなおし。あいにく月曜日はショパン博物館をはじめ大半の博物館、美術館の定休日なので、見物といってもワルシャワの街並みを見るしかない。今度は朝と方向を変えて、ワルシャワ旧市街の北端にある城門・バルバカンに直行。
このバルバカンとそのすぐ南に広がる旧市街の建物群は、まるでおとぎの国にまよい込んだようなすばらしさで、ちょっと言葉では表現できない(画像がアップできないのが非常に残念)。これを見るだけでもはるばるワルシャワに来たかいがある。ただしこれらの建物の大半は、ナチスによって意図的に破壊され、戦後に再建されたものだという。外国の都市を、私はパリしか知らず、パリには、すべての街並みが一つのトーンで整然と統一された美しさがあるのだが、それとは違ってこのワルシャワ旧市街の建物は、一軒一軒が茶色、黄色、ピンク、グリーンなどの異なった彩色が施されている。それでもその彩色がすべて控え目なので、さまざまな色をつかってもけしてケバケバしくはならず、逆にメルヘンの世界のような印象がするのだ。
旧市街の美しさを小路の奥まで堪能した後、昼食。迷っていたら、旧市街の市場広場に面したバ○リシェクという店の前で、若者たちが「こちらへ、こちらへ」と手招きしている。そこはゲイの性、若者たちにつられて、ともかくその店へ入る。店のおすすめ品はウィンナー・シュニッツェル(ウィーン風仔牛のカツレツ)で、それにランチ・ビールがセットされて15ズウォチ(500円程度)。この店もとても安い。待つことしばし。出てきたカツレツは信じられないほど大きくびっくりしたが、さらに驚いたことには、仔牛の薄切りだというのに肉が固くて、とても食べられない。そんなにおなかがすいていたわけではないので、大きすぎて食べきれないと、すぐにその店を出た。
それから古い繁華街であるクラクフ郊外通りをぶらぶらと南下し、大統領官邸のすぐ先にガイドブックに載っているバ○ィダというカフェを見つけて、口直しにそこに入る。
バ○ィダの店頭では黒人のギャルソンが客を仕切っていて、あやしげな中年の東洋人が入ってきたという警戒するような気配を感じたが、すかさず、「コーヒーとケーキを頂きたい」とフランス語で話しかけると態度がころっと変わる。「どんなケーキでもご希望のものをお持ちしますので、なんでも仰せ付けください」という感じだ。そこで私はラズベリーのタルトを、友人はカスタード・クリームたっぷりのミルフィーユを頼んで、しばしワルシャワの「小パリ」を堪能した。要するにこの店は、大統領官邸のすぐそばという好位置で、スノッブな雰囲気をただよわせているのが自慢ということなのだろう。もしかすると、パティシエもパリ仕込みで、店にパリの雰囲気を漂わせるため、パリで知り合った黒人のギャルソンを引き抜いて連れてきたのかもしれない。やや甘すぎる感がしなくはないが、ここのケーキはそこそこおいしい(日本にはおいしいケーキ屋が多いので、ケーキに関してはどうしても採点が辛くなる)。しかし店の雰囲気はとても気に入った。ちなみに、ケーキは1個10ズウォチほどで、カプチーノ・コーヒーが12ズウォチなので、波蘭の物価水準からすると非常に高い。
バ○ィダを後にして、クラクフ郊外通りをもう少し歩いてから、またタクシーを拾ってホテルに戻る。いよいよ目指すK市に移動だ。

さて荷物をひきずって中央駅に来たはいいが、ここでかなり戸惑う。友達は、こんなことで無事列車に乗れるのだろうかとかなり不安げだ。
駅のアナウンスの意味が何もわからないことはさておき、われわれの戸惑いの第1点は、駅に改札がなく、ホームにも駅員の姿が見えないこと。時刻表を見て、ホームの見当はつけたのだが、それがほんとうに正しいのか、確認のしようがまったくない。ホームで待っている人には、もちろん言葉がほとんど通じない。次に、チケットを見てもわれわれが何号車に乗るのかよくわからない。おまけに、ホームには何号車がどの位置に止まるかといった目印が何もない。これまた、誰にきいてもさっぱり要領を得ない。
不安のなかでしばらく列車を待つ。もしこれが間違いだったらどうしよう、乗り遅れたらどうしようと、友達の不安はつのるばかり。そうこうするうちに特急列車が入線してきた。
ようやくのことで乗務員をつかまえて、われわれの乗り込む列車はどの車両かときくと、ホームの反対側のはずれだというので、スーツケースを引きずりながら、大あわてでその車両まで移動。息せき切って乗り込んで、これでようやく安心と一息つくが、今度は列車がなかなか発車しない。
要するに、波蘭の特急列車というのは、指定席制で乗る車両はあらかじめ決められているのだが、どの車両が駅のどの位置に止まるかはわからず、列車が到着してから、みんな大あわてで自分が乗る車両を探すようになっているのだ。このため、列車に乗り込むのは一苦労だが、そこは良くしたもので、駅でのこうした混乱を見越して、停車時間も5分~10分とそれなりに長いというわけだ。
やれやれ。こうなればあとはともかくK市を目指すのみ。

     ☆     ☆     ☆

【バ○ィダのサイト】
http://www.batida.com.pl/pl/

寒々としたワルシャワの大通り

2010-10-08 23:46:26 | 東欧滞在記
アエロフロート機は、予定より約30分ほど遅れて現地時間の午後7時過ぎにようやくモスクワを離陸した。ワルシャワまでのフライトは2時間。モスクワとワルシャワの時差も2時間。おもしろいことに表面上は0時間のフライトで午後7時過ぎにワルシャワのショパン空港に到着した。それからスーツケースが出てくるのを待つのに20~30分。ワルシャワでは、うまくいったら到着直後にショパン博物館に行きたかったのだが(9月中の博物館の開館時間は午後9時まで)、この時点で博物館行きはほぼ断念しなくてはならなくなった。
それでも、重いスーツケースを引っ張って空港ロビーに出たとき、約束通り、「闇太郎様」という大きなプレートを持った人が出迎えてくれたのには本当に安心した。結局、出迎えの人はホテル専属のタクシーの運転手で、展覧会の主催者がホテルへの予約と一緒に出迎えを手配してくれていたのだ。ショパン空港からワルシャワ中心部までは約30分。午後8時過ぎに、宿泊先のホリデイ・インに到着した。
ワルシャワのホリデイ・インは、良くもなければ悪くもないという感じの普通のホテルで、それでも必要最低限の設備はきちんと整っている。また日本のホテルに比べると部屋が広く、浴槽も広々としている。ただし、これは波蘭(ポーランド)のすべてのホテルがそうだったのだが、洗面台の位置が私には少し高すぎて使いづらい。また立地は、ショッピング・モールをはさんでワルシャワ中央駅に隣接しており、波蘭国内の移動の便も申し分ない。
チェックインを済ませると、スーツケースを部屋に置いて、われわれはただちに夜のワルシャワ散策に出かけることにした。
ワルシャワ中央駅は、南北に延びるマルシャウコフスカ通りと東西に延びるイェロゾリムスキェ通りの2本の大通りの交差点にあり、ガイドブックによれば、そのうちイェロゾリムスキェ通りを東のヴィスワ川にむかって進むと、新世界通りという、東京の銀座にあたるような繁華街にぶつかるとある。
そこでガイドブックに書いてある通りイェロゾリムスキェ通りを直進して、最初にぶつかった大きめの通りを左に曲がったのだが、これが一国最大の繁華街とは思えないものさびしさだ。ちなみに、イェロゾリムスキェ通り自体も、通りに面した大きなビルが改築中だったり空き地になっていたりして、全体に寒々としたすさんだ感じがする。気軽な気持ちでぷらぷら散歩しながら、「廃墟みたいでやけに寒々としてるけど、もしかするとこんな感じの方が途方もない、いいアートが生まれてくるのかもしれないね」などと、どちらからともなく友達と話をした。
ところで、新世界通りと思って入り込んだ通りは、先に行けば行くほど暗くなるばかりなので結局途中で引き返すことにして、われわれは、イェロゾリムスキェ通りで見つけたス○ィンクスという名の、通りに張りだしたテラス形式のレストランに入ることにした。ちなみにこの店、通りに張りだしたテラスの部分は、そのままでは寒いのでストーブを炊いて暖めている。他人のことはあまり言えないが、ストーブを炊いてまで、見栄でテラスで食事をするというのがなんとも愉快だ。
さて、観光客用に英語が添えてあるメニューを見ても何かなんだかよくわからないのだが(この店は、英語がかなり通じる)、さほど食欲があるわけではなし、われわれは店のおすすめ品とおぼしきサラダを1皿とグラスビールをとることにした。このビール、小グラスを注文したのだが、それでも日本の中ジョッキほどのサイズで、しかも価格は200円ほど(7ズウォチ、1ズウォチは30円強)しかしない。またサラダは600円ほど(20ズウォチ) で、それが日本感覚で言うと大皿のような器に盛りつけてあって量が非常に多い。
ところで波蘭に着いてわれわれが最初に食したこのサラダ、さまざまなキノコ、チキン、アボガドや赤ピーマンなどをさっと炒めてレタスに載せただけの非常にシンプルな料理なのだが、素材が新鮮なのでとてもおいしい。炒めた具材と冷たいレタスを合わせた食感も最高だ。そんな単純なことでわれわれはいっぺんで波蘭が気に入ってしまった。
隣のテーブルに座っていた南アフリカから来た観光客たちとも、いつの間にか仲良くなっていた。
そうこうしているうちに午後10時近くなり、さすがに起きている限界に近づいてきたので、まずはそのままホテルに戻ることにした。日本時間にすれば27日の午前6時。長い長い一日だった。

     ☆     ☆     ☆

【ス○ィンクスのサイト】
http://www.sphinx.pl/

モスクワ空港でのすったもんだ

2010-10-06 23:52:10 | 東欧滞在記
9月26日12時、成田空港出発。久しぶりの海外旅行、しかも今回はこれまでいったことのない波蘭(ポーランド)なので、どんなことになるか楽しみだ。

     ☆     ☆     ☆

日本から波蘭までは直行の飛行機便がなく、フランクフルト、ウィーンなどの近隣の空港でかならず一度乗り接がなくてはならない。今回展覧会の主催者が選んだのはアエロフロートなので、行きも帰りもモスクワで乗り接ぎである。短時間で通過するだけだが、このモスクワがどんなところにも期待かある。
ちなみに、私と友人は乗り接いでワルシャワに向かうのだが、波蘭に行くのは少数派で、大半の人は、乗り接ぎでパリへ向かうようだ。また、モスクワで降りる人も多い。このためか成田空港の待合室の光景も、パリへの直行便などと比べるとOLや女学生などが少なく、海外旅行独特の華やぎはあまり感じられない。どちらかと言えば、「北へ帰る人の群れはみんな無口で~」といった地味な雰囲気だ。
さてモスクワのシェレメチェヴォ空港の到着時間は、現地時間の17時過ぎ。東京とモスクワには6時間の時差があるので、それをプラスすると約11時間のフライトだ。機内食は2度出たが、いずれもけっこうおいしく食べられる。またジュースもおいしい。
と、順調だったのはここまでで、シェレメチェヴォ空港では、入国チェックの厳しさとその非効率性にまったくあきれさせられた。
乗り接ぎ客の入国チェック場所は、みんな一斉に降りたのですぐにわかったが、ここではベルトをはずし、靴もぬいでのチェックが必須だ。テロリストへの警戒がかなり厳しい様子。
そこから今度は乗り接ぎ用の別ターミナルまでバスで移動するのだが、エアバスの乗客よりもバスの定員が圧倒的に少ないので、全員が乗り切れず、すったもんだをしながらここでかなり待たされる。乗降客のなかに中国系とおぼしき人が多いのは、旧共産圏のなごりか。ともかく、われわれも含めて旅費を安くあげようとしている雰囲気の人が多い。
さて、さんざん待たされたあげく次のバスに乗ったはいいが、このバス、なぜか途中でストップしたようでターミナルまでなかなか到着しない。乗客の一人が抗議してドアを開けると、実はすでにそこがターミナルの入り口で、要するに、こちらが降りる意思表示をしないと、バスの乗務員も空港の係員も誰もドアをあけず、このために乗客が迷惑を被ることには全員まったく無関心だ。
モスクワとワルシャワの乗り接ぎ時間は約1時間半でほんらい余裕があるはずだったのだが、入国チェックとターミナルの移動で余計な時間がかかり、この時点で乗り接ぎまであまり時間がなくなってきた。
ともあれ、乗り接ぎターミナルに着いたので今度はスムーズに行くかと思いきや、ターミナルの入り口が滅茶苦茶に込んでいて乗り接ぎゲートに進ませてもらえない。乗降客の様子から判断すると、ともかくこの入り口でなにか非効率的な作業が進行中で、そのためバスで送り込まれた客がゲートに向かえず、入り口で右往左往しているのだ。
そうこうしているうちに、ワルシャワ行きの飛行機の搭乗時間が迫り、友人は気が気ではない様子。だがこちらのせいで遅れているのではないので空港側がなんとかするだろうとみていると、そのうち「ワルシャワ行きの人はこちらへ」という誘導がはじまった。そこで混雑を尻目に別のドアからターミナル内にはいると、驚き、桃の木、山椒の木!そこでもう一度入国審査をしており、乗降客がまたベルトやら靴やらを脱がされている。ただでさえ審査が厳重で面倒なのに、それを二度もやるのでは時間がかかるはずだ。再度の入国審査中に飛行機の出発時間はとっくに過ぎてしまったが、空港側の手落ちなので、担当者がつききりで全員の入国審査が終わるのを待って、ターミナルのはじの方にあるゲートまで乗客を誘導する。すったもんだのあげく、30分ほど遅れて飛行機はようやくモスクワを出発したのだった。

ポーランドから帰る

2010-10-05 23:46:20 | 東欧滞在記
本日、波蘭(ポーランド)からぶじ帰国した。
今回の波蘭訪問は、すでに何度か書いているように友人の展覧会のオープニングに立ち会うことが大きな目的だったのだが、展覧会の会場となったK市だけでなく、波蘭の古都クラクフ、アウシュヴィッツ(波蘭名=オシフィエンチム)、シレジア地方最大の都市ヴロツワフも見物することができた。その様子は、これからじっくりと紹介していきたい。
ところで波蘭に行くまで、展覧会の主会場となるシ○ジアの美術館がどのような性格の美術館なのかよくわからなかったのだが、行ってみると、K市でも有数のクラシックな建物に入った本格的な美術館だった。行ってみるまで、新しいビルにはいったモダンアートの美術館だとか、いろいろな噂が飛びかっていたのだ。
またわれわれが滞在したMホテルも重厚な建物で、元々はK市の鉄道の駅が目の前にあり、市内でも最高の好立地だったのだそうだ。
ワルシャワなどと異なりK市は第二次世界大戦の被害をほとんど受けていないようなので、市の中心部には、プロイセン支配の時代をしのばせる重厚な建物もかなり残されている。
さて展覧会には、10月1日のオープニングから、予想以上に大勢の人がおしかけ、主催者が用意していた小冊子が2日でなくなってしまったそうだ。そのため、ほんらいであればわれわれはそれをもらえるはずだったのだが、増刷してから日本に送ると、しばしお預けになってしまった。
また作品を展示しただけでなく、インタビューとディスカッションも行われ、「Gazeta」という新聞では、現在開催中のショパン・コンクールの記事をおさえて、アート特集のトップ面で報道された。放送局のインタビューもとても熱心なもので、主催者側が、時間がないので5~10分程度に抑えて欲しいと要求したにもかかわらず、結局1時間近くいろいろなことをきかれた。
展覧会は今月いっぱい開催されるので、今後どのように話題がひろがっていくか、とても楽しみだ。