今回、波蘭(ポーランド)に来るまで、美術館の様子が皆目わからず、新しくつくられたモダンアートの美術館ではないかとか、いろいろな憶測が飛び交っていたのだが、ヴィッティさんに案内されて到着した美術館はドイツ風のクラシックでがっしりとした建物。町の広場からもひときわ目立つ。すぐそばには、劇場、大学などもある。
美術館の創立は1929年で、K市が波蘭領に編入されたシレジア地方の行政の中心だった時期にあたる。創立時は、美術館専用の建物はなく、行政関係の建物の一部が美術館として利用されていたという。その後36年に、美術館専用の建物の建設がはじまる。しかし39年にナチスが波蘭に侵攻すると、美術館は波蘭の自治の象徴とみなされ、破壊されてしまう。破壊を免れた収蔵品は、元々ドイツ領だった近隣のB市の美術館に移された。美術館が再開されたのは共産主義政権末期の84年で、それまでのホテルを改装して美術館にしたという。
重い扉を押してこの複雑な歴史をもつ美術館の展示室に案内されると、エントランスで、まず最初に、私が書いた文章の要約が目に飛び込んできた。事前に、展覧会で配布するパンフレット用の解説は書いてわたしていたものの、その文章がこんな風に使われるとはまったく知らされていなかったので、とても驚いたし、正直に言ってとてもうれしかった(ただし波蘭語に翻訳されているので、内容は私にもさっぱりわからない)。
一方、今回の展覧会は輸送が大変で、日本からそれほど多くの展示物を運んでいないので、展示のチェック自体はそれほど困難ではない。友人と相談したうえ、メインとなる作品の位置変更をお願いし、あとは波蘭側スタッフの現場での判断にすべてまかせることにした。
続いてB市の第二会場に移動。ここは、上にも少し書いたように、第二世界大戦終了時までドイツ領で、K市と行政や文化の中心を競い合った古い都市だ。ただし戦後はK市にその地位を奪い返され、現在はかなりさびれた印象だ。展覧会の第二会場となったギャラリーは、元々裕福なユダヤ人の住居だった建物を改装したものとのことで、あちこちに住居の面影が残っている。宅内に建物ができた当時に設置された古いエレベーターが残っているのも、元の居住者の富裕ぶりを物語っている。場所も、B市の中心に位置する広場の一画という好立地だ。メインの展示室は、広場の側が大きなガラス窓になっているのでとても明るい一方で、外景が見えるという展示会場としてはちょっと変わった雰囲気だ。
ただし展示の準備は美術館にくらべるとかなり遅れており、明日のオープニングに間に合わせるためには、今晩かなりがんばらなくてはいけないという感じだ。遅れを取り戻そうとスタッフが一生懸命動き回っているので、こちらの展示も、細部は現場スタッフにまかせることにして、私と友人は、大まかな状態だけをチェック。明日のオープニング前にもう一度訪問して、そのときに細かい指示を出すということで互いの了解が成立した。
とりあえず現場のチェックが終わったので、急いでK市に戻る。ホテルで休憩しているところに、先日クラクフを案内してもらったリシャールさんが到着した。再会の挨拶をすますかすまさないかのタイミングで、今度は波蘭の新聞社からの取材だ。
最初、通訳を介しての取材にとまどっていた友人も、しだいにリシャールさんと波長がかみ合ってくる。一方新聞社側も事前に友人の経歴をしっかり調べてきたようで、かなり細かいことをきいてくる。ただし実際の作品をまだみていないために、どうこたえたらいいかとまどう的はずれの質問もあったが、最後は和気藹々と取材が終わった。いずれにしても、新聞社側が今回の展覧会から異国情緒以外の何かをくみ取ろうとしている真摯な態度が、ひしと伝わってくる。
取材を済まして安心していると、今度は、市の文化センターで波蘭人の写真家の個展がはじまったので、それに行こうとヴィッティさんからの提案。拒む理由は何もない。
われわれが到着したとき、会場はさまざまな人たちですでにかなりにぎわっていたが、私と友人は、どちらからともなく、午前中にK市を一緒に回ったフランス人グループを見つけ、「やあ、これは奇遇」と再会の挨拶。明日は友人の展覧会の初日だからぜひ見に来て欲しいと、異国でできた新しい友人たちをオープニングに招待。
一方、会場には、リシャールさんの通訳仲間という波蘭人のポールさんがいて、リシャールさんを介してわれわれに親しく話しかけてくる。ポールさんはシニックな毒舌家で、曰く「芸術家は好き勝手に何でも言う権利があるんだから、会見とかがあるんだったら、何でも言って相手を煙に巻いた方がいいですよ。ジャーナリストなんて適当にあしらいなさい。バカはしょせんバカなんだから」とか、言いたい放題だ。ともかく、このポールさんをも、明日はぜひオープニングに来て欲しいと誘う。
ところで、われわれが展覧会をみているあいだ、ヴィッティさんは、まだ作業を続けているB市のギャラリーのスタッフをずっと気遣っていたのだが、だいぶ遅くなったのでともかく食事にしましょうと夕食の提案。場所は例によってヴィッティさんにおまかせすると、今回は、ロシア料理のレストランに案内してくれた。移動の途中、町のあちこちに明日からはじまる友人の展覧会のポスターが貼ってあるのが目につき、友人は大喜び。
さておもしろいことに、ヴィッティさんに案内されて入ったレストランは、別のグループの打ち上げ会場と重なっており、われわれは例のフランス人グループとまたしても再会した。1日に三度も会えば、もうすっかり友達だ。フランス人たちは、れわれの席の方が話がはずむと打ち上げのグループを離脱してわれわれに合流。そのせいで会話は、言葉も内容も、いろいろなものがごったまぜになってしまったが、みんなアルコールが入っているので、このごたまぜの会話がとても楽しい。滅茶苦茶いろいろなことを話して、千鳥足でホテルに戻った。
美術館の創立は1929年で、K市が波蘭領に編入されたシレジア地方の行政の中心だった時期にあたる。創立時は、美術館専用の建物はなく、行政関係の建物の一部が美術館として利用されていたという。その後36年に、美術館専用の建物の建設がはじまる。しかし39年にナチスが波蘭に侵攻すると、美術館は波蘭の自治の象徴とみなされ、破壊されてしまう。破壊を免れた収蔵品は、元々ドイツ領だった近隣のB市の美術館に移された。美術館が再開されたのは共産主義政権末期の84年で、それまでのホテルを改装して美術館にしたという。
重い扉を押してこの複雑な歴史をもつ美術館の展示室に案内されると、エントランスで、まず最初に、私が書いた文章の要約が目に飛び込んできた。事前に、展覧会で配布するパンフレット用の解説は書いてわたしていたものの、その文章がこんな風に使われるとはまったく知らされていなかったので、とても驚いたし、正直に言ってとてもうれしかった(ただし波蘭語に翻訳されているので、内容は私にもさっぱりわからない)。
一方、今回の展覧会は輸送が大変で、日本からそれほど多くの展示物を運んでいないので、展示のチェック自体はそれほど困難ではない。友人と相談したうえ、メインとなる作品の位置変更をお願いし、あとは波蘭側スタッフの現場での判断にすべてまかせることにした。
続いてB市の第二会場に移動。ここは、上にも少し書いたように、第二世界大戦終了時までドイツ領で、K市と行政や文化の中心を競い合った古い都市だ。ただし戦後はK市にその地位を奪い返され、現在はかなりさびれた印象だ。展覧会の第二会場となったギャラリーは、元々裕福なユダヤ人の住居だった建物を改装したものとのことで、あちこちに住居の面影が残っている。宅内に建物ができた当時に設置された古いエレベーターが残っているのも、元の居住者の富裕ぶりを物語っている。場所も、B市の中心に位置する広場の一画という好立地だ。メインの展示室は、広場の側が大きなガラス窓になっているのでとても明るい一方で、外景が見えるという展示会場としてはちょっと変わった雰囲気だ。
ただし展示の準備は美術館にくらべるとかなり遅れており、明日のオープニングに間に合わせるためには、今晩かなりがんばらなくてはいけないという感じだ。遅れを取り戻そうとスタッフが一生懸命動き回っているので、こちらの展示も、細部は現場スタッフにまかせることにして、私と友人は、大まかな状態だけをチェック。明日のオープニング前にもう一度訪問して、そのときに細かい指示を出すということで互いの了解が成立した。
とりあえず現場のチェックが終わったので、急いでK市に戻る。ホテルで休憩しているところに、先日クラクフを案内してもらったリシャールさんが到着した。再会の挨拶をすますかすまさないかのタイミングで、今度は波蘭の新聞社からの取材だ。
最初、通訳を介しての取材にとまどっていた友人も、しだいにリシャールさんと波長がかみ合ってくる。一方新聞社側も事前に友人の経歴をしっかり調べてきたようで、かなり細かいことをきいてくる。ただし実際の作品をまだみていないために、どうこたえたらいいかとまどう的はずれの質問もあったが、最後は和気藹々と取材が終わった。いずれにしても、新聞社側が今回の展覧会から異国情緒以外の何かをくみ取ろうとしている真摯な態度が、ひしと伝わってくる。
取材を済まして安心していると、今度は、市の文化センターで波蘭人の写真家の個展がはじまったので、それに行こうとヴィッティさんからの提案。拒む理由は何もない。
われわれが到着したとき、会場はさまざまな人たちですでにかなりにぎわっていたが、私と友人は、どちらからともなく、午前中にK市を一緒に回ったフランス人グループを見つけ、「やあ、これは奇遇」と再会の挨拶。明日は友人の展覧会の初日だからぜひ見に来て欲しいと、異国でできた新しい友人たちをオープニングに招待。
一方、会場には、リシャールさんの通訳仲間という波蘭人のポールさんがいて、リシャールさんを介してわれわれに親しく話しかけてくる。ポールさんはシニックな毒舌家で、曰く「芸術家は好き勝手に何でも言う権利があるんだから、会見とかがあるんだったら、何でも言って相手を煙に巻いた方がいいですよ。ジャーナリストなんて適当にあしらいなさい。バカはしょせんバカなんだから」とか、言いたい放題だ。ともかく、このポールさんをも、明日はぜひオープニングに来て欲しいと誘う。
ところで、われわれが展覧会をみているあいだ、ヴィッティさんは、まだ作業を続けているB市のギャラリーのスタッフをずっと気遣っていたのだが、だいぶ遅くなったのでともかく食事にしましょうと夕食の提案。場所は例によってヴィッティさんにおまかせすると、今回は、ロシア料理のレストランに案内してくれた。移動の途中、町のあちこちに明日からはじまる友人の展覧会のポスターが貼ってあるのが目につき、友人は大喜び。
さておもしろいことに、ヴィッティさんに案内されて入ったレストランは、別のグループの打ち上げ会場と重なっており、われわれは例のフランス人グループとまたしても再会した。1日に三度も会えば、もうすっかり友達だ。フランス人たちは、れわれの席の方が話がはずむと打ち上げのグループを離脱してわれわれに合流。そのせいで会話は、言葉も内容も、いろいろなものがごったまぜになってしまったが、みんなアルコールが入っているので、このごたまぜの会話がとても楽しい。滅茶苦茶いろいろなことを話して、千鳥足でホテルに戻った。