みどり市議会議員 宮崎 武

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岡上景能公顕彰祭 平成24年度

2012年12月03日 | Weblog

本日、公の326年目の命日にあたります。

毎年公の銅像前で行われています。が、数年前から何故かこの日は、寒さや雨などの状況に左右されていますので、銅像東側の「ふれあい学習館」で行うようになりました。

本日も、郷土開拓の英雄「岡上景能公」慰霊のために多くの関係者が集い、献花をいたしました。

そもそものお話しで、何で岡登用水の名称が岡上じゃないのか?とか「かげよし」公の影能だったり景能だったりするのかといった素朴な疑問に対して私も以前は何でかな?と思っていましたが。今回も、そういった歴史的背景なども簡単に説明がありましたので、献花をされた方々も納得していたようです。

この件に関しては、毎年私が書いている12月3日のブログをご覧いただいている方はご存知かと思いますが、正式なお名前は「岡上次郎兵衛景能」のようです。

岡上家は,豊臣秀吉に滅ぼされた「北条氏」の家臣団に所属をしていたようで公の祖父である景親{かげちか}の代に鉱山開発で有名な大久保石見守長安に属したようです。

ですので、足尾銅山奉行になった折にも公は大きな実績「約5倍の産出量」を出したようです。

では何故、岡上を岡登用水にしたかについては、結果死罪を幕府から命ぜられた事により、当時の方々が、はばかった事が起因のようです。

同じく、景能を影能と読むことについてもやはり前出のような事情がありました。

ただ今回の切腹をさせられた幕府側の原因については、「数々の負金あるのみならず、配下に対しての指揮よろしからず」といった文言については、当時は、お金にまつわる不正は世論が許さないといった厳しい環境にあったがために、着せられた濡れ衣のようです。

この後、10年余りで起こった「赤穂義士」の件でも、吉良上野介の不正「あったかどうかは明確ではありません」に関することも、世間の流れを一挙に変える大きな策であってようです。

今回の事で感ずるのは、柳沢吉保という幕府の側用人、大老格であった方の言動も左右されている部分もあるようですので、公は、大変な時代に生まれ合わせてしまったのかもしれません。

ともかく、60才ほどで326年前の本日、切腹をし岡上家は断絶となったようです。