映画と本の『たんぽぽ館』

映画と本を味わう『たんぽぽ館』。新旧ジャンルを問わず。さて、今日は何をいただきましょうか? 

野のなななのか

2014年05月20日 | 映画(な行)
“祈りの言霊”が漂う



* * * * * * * * * *

初めてこの題名を目にした時に、
この言葉はどこで区切るのか? 早口言葉?
と面食らったものですが、
何の事はない「なななのか」は七・七日で四十九日のことでした。


我が北海道の芦別市が舞台。
といっても、道外の方には位置がピンと来ないかもしれませんが、
北海道の中央部にあるかつて炭鉱で栄えた町です。
本作の上映館シアターキノではたまにある、補助椅子も出る盛況でした。
館長さんの事前アナウンス。
「芦別の方が大勢映っていらっしゃいますが、
気がついても他の方の迷惑になりますので『あ、○○さんだ!!』などと声を上げませんように。」
そこでどっと受けていたりするのも、地元ならではですねえ・・・。
多分実際にそんなことが何回かあったのだとお察しします。



さてしかし、本編が始まったところで
すぐにこの世界に引きこまれてしまいました。
物語はまず一人の老人の死から始まります。
元病院長鈴木光男(品川徹)92歳。
急に自宅で倒れ、息を引き取っていました。
その日の朝まで元気だったわけですから、まあ、大往生ですね。

そして、この郷里芦別に親族たちが帰ってきます。
そんな中に一人、謎の女、清水信子(常盤貴子)の姿も。
お通夜、告別式、初七日、・・・そして四十九日。
家族たちの様々なやり取りの中で、
この老人の人生に大きな影響を及ぼした戦争体験が明らかになっていきます。



冒頭から引き込まれてしまうのは、
本作の途切れないセリフ回しのためでしょうか。
一人のセリフの語尾と次の人のセリフの第一声が重なりあうようにして、
途切れなく会話が続いていきます。
まるでほんの少しでも言葉の空白ができることを恐れるかのように。
だけれども、息せき切っているふうでも、たたみ掛けるふうでもない、
というこの不思議な感覚。
映画によっては、極端にセリフを押さえ、間を多くとって、
映像に語らせる作品もありますよね。
そういうものから本作は対極にあります。
この途切れなさは、そうか、お経に似ているのです。
流れるように連なっている“祈りの言霊”が、
ずっとその辺に漂っているかのようです。


四十九日までは、亡くなった人の霊がまだこの世にとどまっているといいます。
だから本作では亡くなった光男老人が、映像のあちこちに姿を現すのです。
家族たちの会話に加わったり、ある時は若い時の姿であったりして。
それはまるで生者と死者が時空を超え交流しているかのようでもある。




最後まで謎なのが、この清水信子と山中綾野(安達祐実)の関係なのですが・・・。
生と死は繋がっている。
本作のテーマを最も強く具現しているこの二人なのです。



光男老人が亡くなったのは3月11日。14時46分。
あの震災の年ではありませんが、この数字が本作のキーワード。
北海道に生まれながら私もよくわかっていなかった、
昭和20年の9月5まで続いたというソ連との戦争の話が解き明かされていくのですが、
それもひとつのエピソードであり、
戦争のみならず震災など、これまでに亡くなったすべての人にむけての
『祈り』の映画なのだと思います。


パスカルズの音楽は、はじめ正直言って少し田舎臭いと思ったのです・・・。
けれど、次第にこれしかない!!と思えてきました。
これが流暢に洗練されたオーケストラではダメだし、
ポップスやロックはもちろん違う。
さだまさしも、ここはダメ。
葬列のように野を歩みながら、音楽をかき鳴らし、
それが陰々滅々のレクイエムでないところがいいじゃないですか。
つまり死は生へと繋がることでもあるのだから・・・。



何しろインパクトの強い作品で、
しばらくその余韻にぼーっとしてしまった、私には近年まれな作品。

「野のなななのか」
2014年/日本/171分
監督・脚本:大林宣彦
原作:長谷川孝治
出演:品川徹、常盤貴子、村田雄浩、松重豊、寺島咲、安達祐実

祈り度★★★★★
満足度★★★★★