GBrを見ていたら、ゲイ&レズビアン・パレードを批判している若者がいました。
なかなか口にしにくいことを直球ストレートに表現してくれているので、みんなでmixiにて、それについて考えてみました。 以下は、僕以外の発言は誰の発言か分からないように加工しつつ、趣旨ははずさないようにしたものです。
まず元ネタを提供してくれたのは、RTNというブログをやってる大学生です。
わたしの初期意見:
あんまり古色蒼然たることいってるんで、本当に大学生なの?って思ったが、子どもって親に反発する結果、おじいちゃんおばあちゃんに似てしまうっていうそういう現象なのかしら?
若者Aの反応:
こーゆー考えって古色蒼然たることなの~?どうして懐かしいものなの~?
僕の場合、そもそも歴史的な変遷を知らないので、 あぁこういうことも考えたなって思うだけですね。何も感じない。
この人、きっと単に何も知らないまま色々書いてるんでしょ~?
僕と同じでw スタンスは違えど、なんか同じ匂いがするもん(笑)
おばはんBの反応:
こ、この子凄いわね~!!
もう口が開きっぱなしで、ちんこ放り込まれてもベロも動きません。
自分の知らないことは、この世に無いも同じなのね。
なぜそういうこと(パレード、差別など)をするのか、についての当事者の心理については調べたくはないのね。
アタシは未知の生物について知りたくなっちゃう方なんだけど。
(女装とか。取り込まれる危険性もある。女装とか。ww)
そして調べた上で、自分の意見との区別(差別ではない)はするけど。 断定と決めつけこそが差別を生むと思う。
わたしの歴史解説:
ほらほら。 やっぱり若者はそういうことを知らない(笑)。
ぼくたちが「同性愛解放運動(笑)」をはじめたころ、「結婚はしなければならない。結婚してこそ一人前だ」とかゲイバーで堂々と説教を垂れられたりしたわけです。いまの40代以上の人にはそういう意識の人が少なからずいたのですね。社会の中でゲイである自分を肯定するツールなどどこにもなく、「結婚してこそ一人前」というモチーフは社会の中でいまよりもずっと強固にあったわけで、そういう人たちはそこに乗る以外に社会の中で立ち回る術などないと観念していた。
そこで伏見憲明さんが『プライベート・ゲイ・ライフ』を出版したり、大木裕之さんが『遊泳禁止』を作って映画賞をとったり、橋口亮輔さんが『二十歳の微熱』を作ったりするようになってくる。一方でアカーが「府中青年の家裁判」を起こしてゲイの権利を公的に主張しはじめた。
ゲイである自分を前面に出してモノ作りをするような人たちが出現してくると同時に、一般のゲイもひょっとするとゲイということを肯定して生きていけるのかもしれない・・・と感じるようになってきます。それが90年前後あたり。
ぼくらはそのころちょうど大学生くらいで、今では考えられないほど花も恥らうお年頃でしたので、一方で強がって「ゲイ・リブ」を考えている振りをしたりする一方で、ゲイ・パレードでは通りを歩いたりはできず、ゲイの映画を映画館でやっていても「ひょっとして学校の奴と出会って疑われたりしたらいやだから」とかいって見にいけなかったり、でもやっぱり勇気を出してこっそり行って見たり・・・・・・と両側を振れながら青春時代をすごすわけです。
でもやっぱり自分がゲイだということを表明して嘘偽りなく過ごす方が潔いな、という感覚になってくる。そんなころに「BADI」が創刊されたりする。最初は「強い男のハイパーマガジン」だったんだけど、そのうち「ゲイライフ」という文字が刻まれるようになる。「ゲイ」が「ライフ=人生」になりうるという天変地異がこんなところにはっきりと活字になっているわけです。
でも、上の世代の人たちと交流してみると既婚者は多いし、なんかバレるってことに対してビクビクしていて自己肯定できているように見えない。で、「結婚はしろ」とか説教される。「やっぱりこんなオヤジたちと僕らは違うんだ。ぼくらはぼくらの解放的な人生を送るんだ」という反発を惹起するわけですね。
そうして、そのつど振れながらもだんだん女装したり(笑)、ゲイとして通りを歩いたりするようになっていったんだよね。
当時はそりゃあ今とは比較にならないほど開放感があったし、パワーもあった。ゲイナイトにいって「世界にはこんなにゲイがいたのか!」って東京のごく一部が集まっているだけなのに、なぜかそんな感動の仕方をして(恥)、密かに涙を流してみたり、それでちょっと暗いあたりにいったら手が伸びてきたりしてウヒョウヒョだったわけですね。あ~、そんなころがあったよな。その程度のことでビンビンだったんだよ(恥)。そうやってこっちはゲイとして生きることに覚悟を決めつつあった。
そういう動きをみた、「結婚しろオヤジ」たちは、このままでは自分たちの結婚生活が脅かされると感じたのか、そういう解放的な方向性を疎ましがる輩が大挙して出現するようになった。オカマの敵はオカマ。
ちょっと目立っているゲイを見ると「ああいうのがゲイの代表じゃない」「ゲイの現実を分かってない奴がああやって社会を乱すんだ」というようなことを平然と言うようになってくる。週末のゲイバー、出張先でのハッテンだけが彼らのゲイライフ。あとは妻子もあり、「普通に」生きている。「パレードとかをやって、しかもなんか汚い女装までしてゲイを貶めて何が楽しいんだ?」汚い女装っていうのは間違ってないわけですが、そうやってゲイが目立つ行動をすること自体を敵視するようになっていくんですよね。そういうゲイである自分のゲイネスを受け入れられない状態をinternalized homophobiaといいます。
名古屋なんかでは、ゲイバーにいってそういう「internalized homophobia」に出くわすチャンスはおそらく96~97年くらいまで平気であった。お店に行って、なぜか社会の中でひっそりと暮らしていらっしゃる隠れホモのみなさまのご機嫌を損ねないように、パレードだの、ゲイ映画だのの話は自己規制をしないとどこから何を言われるか分からない面倒な状況だったわけです。「アタシ客なのに、なんでそんな腹の据わらない連中に気を使わなきゃいけないわけ!?き~~~っ」ってなる(^^;;
そのころの記憶があるばっかりに、週末ハッテンしているだけなためにHIV関係の情報に触れることもなく、何も知らないまま生でバコバコやってるオヤジたちがいくら感染しようが、あんまり同情する気になれないという感情を、ぼくなんかはどこかでひきずっているというのはあります。向こうが心を入れ替えて、「今後はエイズ撲滅のために自ら先頭に立って尽力いたします」くらい言えば許してやろうかと思う、って程度。
表面上、そういう時代のぼくたちを呪縛してきたオヤジたちの発言とこの子の発言はウリ2つなんだよね。
というわけで、日本の同性愛解放史でした。
若者Aの応答:
コレを書いた人って、上の世代が築いたものの上にちゃんと生きてるんでしょうね。
現在の世界しか知らないのでしょう。 そういう意味では、この人の存在自体が、上の世代の働きがどれだけ大きかったのかっていう証拠そのものだと思います。
ある意味先祖がえりなんでしょうが、地盤は全く違いますよね。
結婚したオヤジは、ホントに結婚しなきゃならない時代を生きてきていて、目立ってはいけなかった、そうでないとやっていけなかった世界を実体験してらしたわけでしょう。だから「目だつな」という。
でも、今の人はそんなもん何も知らない。
生きようと思えばゲイでやっていける。
団結して存在を主張しなくても、世の中みんながうっすらと認知している「なんとなく多様性」の時代では、「ゲイですがなにか?」でまかり通る。
そうなると、動機づけがなくなってしまうんじゃない? 「昔は大変だったんだろう」ぐらいは考えても、実際どうだったのか自ら知ろうという気まで起きないし、必要ない。 (僕自身その一人だと思う。)
「これ以上主張してどうなるのかしら?」「もう満足。」という無害なスタンスなのでしょう。
でも、ちょっと行動力がある人というか言わずにいられない人の場合、いつのまにか「目立つな!」という攻撃的なスタンスとすりかわってしまうのかも。
あと、上の「日本ゲイ史」にもあるように(笑)ホモの主張ってパレードにしても女装にしても、なぜかどーーしても面白いから、余計と攻撃的スタンスの人間を生み出しやすいのかも…(笑)
先生~どうしてホモの主張は面白くなるんですか~?
サガだから仕方ないんですか~?(笑)
わたしの回答:
サガというより業です(笑)。
いやそうじゃなくて、ゲイというのは見た目ではわからない。世界規模の差別問題で見た目ではわからないのって同性愛くらいなものなんだよね。 民族差別にしろ女性差別にしろ見た目でわかる。 見た目でわからない人の集団が粛々と市中を歩いていてもなんなのかわからない。
それをアピールする手段としてドラァグやら裸踊りやらのゲイカルチャーを採用していったということが一番目。
二番目にはやっぱりオカマとかオトコオンナとかいっていじめられたりしてきた経験のある人が多いのですが、そういう人たちに「そのままでいいのよ」というメッセージを発することができ、翻って自分を癒すことにもなった。
折しもゲイブームなるものが勃興してゲイカルチャーが「カッコいいもの」であり、クラブなど時代の最先端だと思われたので自覚的無意識的に(つまり利用したり乗せられたりしながら)ゲイであることを主張していったわけです。
当時としては対社会的、対ゲイ的、対自分的に効果的な戦略だったわけです。
ところが娘の心性を「克服」して泣く泣くマンコにチンコ突っ込んでガキ作っちゃう連中や「女の腐ったのみてぇなのとはちげーよ!」と思っていらっしゃるオカマからすると、克服したはずの女性性を「オネエ」だの「ドラァグ」だの言って称揚されるのは我慢ならないことだったのですね。
こっちとしては自分を落として自分をサゲて皆様のお楽しみのためやってるっつーのによー!
ともかく、野郎系こそあるべき姿な人たちにしてみると気持ち悪い。
性愛のファンタジーと当時のゲイたちが採用した方針が合致しなかったわけです。
でもやっぱりゲイとしていきていく選択肢を提示されるとそちらを選んじゃう。30代以下のゲイでは未婚率があがっているはずです。
そのときにやっぱり自我の問題にぶちあたり、ついでに情報に乗り遅れた分周囲にHIV陽性者の出現する割合も多い。じゃあ・・・ということではじまったのがNLGRやなんかです。
そうやって青春の取り戻し、生き直しの作業をしているわけですね。
そういうところにもかつてのゲイカルチャーが浸潤していくのは当たり前のことです。
カルチャーとしては昔「アタシ、オカマよ!オカマでなにがわるいの」という反動形成のほうが押し出しが強いに決まっているからです。
このあたりを念頭においてQJrのぼせたちの座談会を読むとイメージわくと思うよ。
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というわけで、いろいろ考えてみたわけです。
そういうわけで、オカマがオカマである以上、それを気に入らない人というのは出現するわけです。ゲイの差別がいくらなくなっても、性愛のファンタジーがそこには入り込みますので、どうしたって乗れない人は出現するわけですね。
性愛のファンタジーが入り込むこと自体はしかたのないことだし、差別とは言えません。
差別というのは、あるカテゴリーに属する人々を、根拠なく貶めることです。
ですから、ブサイクな人を「ブサイクだな」というのは、失礼ではありますが、差別ではない。そうでなければ、だれとでも分け隔てなくエッチしたり付き合ったりできる人間以外は差別をしていることになります。いまのところ差別をする人間が地球上に60億人ほどおられます。
差別をなくそうと思って活動している人が、そんなものまでなくそうとなど(普通は)考えていないわけです。ゲイであるというだけでどんなに仕事ができてもすぐさま解雇されるとか、ゲイだというだけで自分の欲望をかなえることが著しく阻害されるとか、そういう状況を改善しようというわけですね。現状としては、日本では法制度など社会制度の面を除けば、それ自体はかなり達成されつつあります。
ではパレードはなんのためにやるのか? 主眼はゲイ・コミュニティをエンパワーメントしたいということになろうかと思います。
「金の卵」じゃないけれど、未来の労働力としての位置付けをすれば、「公共財」になるわけです。そうなれば、所得転移をする大義名分が立つ。
将来的に税金や社会保障の負担をどれくらいすると期待されるのかという期待値がでてくれば、子どもを社会が面倒を見る程度が分かってくるような気がします。そんなに払えない人もいるだろうし、遥かに高額の税金を払う人もいるだろうけど、とりあえず平均的なところで期待値を出してみるしかないんじゃないかな?
そもそも教育ってものすごくお金がかかるわけだけど、公教育の場ではかなりの部分が公費負担になっている。それは、親の所得格差によって、子どもの教育水準に格差が生まれないようにするという意味で、子どもの将来の自由を拡大する方向なので悪いことではないと思います。悪いことではないが、教育という公的サービスを活用すればその時点でかなりの所得転移が行われていることにはなりますね。
このへんは少子化の問題でいろんな人がいろんなことをいってるんじゃないかという気がします。不勉強でよく知りませんが・・・。
コテガワさんへのレスについてなのですが、
おそらく一番答えてほしいことについての言及が、俺のレスにはないんじゃないかなぁとおもいます。
多分、きっちり答えようとすると、軽く2~3本くらい論文が書けそうな…
恥ずかしながら、なかなか文章にまとめるのが難しくて。
それこそ、顔をあわせて酒でも飲みながら話せば早いんですけどね(結構いい肴になると思うんで)。
>玉野さん
>基本的人権の尊重の立場で考えると、法律をおかしたり、直接の危害を加えないかぎり、お互いの自由は最大限尊重されるべきなので問題ありません。
俺も、この主張はわかりますが、やはり自由にはある程度の規制が必要かもしれないとも思います。
というのも、今現在小学生の女の子の殺人事件の報道がされてますが、ちょっと異常だと感じませんか?
殺された被害者のプライバシーよりも、憲法で保障されている言論の自由の方が優先されているように俺は感じます。
優先されているというのは言い過ぎにしても、被害者をはじめ、一市民の声なんて社会には届きません。
それに対して情報の発信力のあるマスコミなどは憲法をかさにきて、やりたい放題。
被害者がマスコミに対して『勘弁して』なんて声明を出さなければいけないほど追い詰めているなんて、ぞっとします。
俺は憲法で保障されている自由と言うのは、一定のルール(モラル・常識)があり、その上でのものだと思っています。
欧米型の憲法(特に米)というのは、共通する社会的な規範がないからそうせざるを得ない為に作られたものだと思います。
俺の中で日本の憲法に関しては、ちょっと国状が違うと思うので、『憲法に書かれてるから』なんて声を大にしていうのは『違うんじゃないの?』なんて思います。
憲法の原案を作った人たちでさえ、『日本にそぐわない』なんていってるくらいですから(ソース失念)。
でも、憲法があるからには、それは守らなきゃいけないし、現在の日本の文化に照らし合わせて解釈が必要とも思います。
>子育てはたいへんなことですので、ある程度補助があるのはいいだろうと思うんですが、基本的にはそれは個人が負うべきことだとうとぼくは思います。
俺もそう思います。
で、『子供が生まれたら30万円支給』なんていうのを、生まない人に対する『差別』と捕らえるか。
『学校給食に対する公費補助』なのも『差別』なのか
また、どこからが『差別』なのか。
そもそもこのことに関して『差別』はないのか。
『差別』が存在するのかという事と、存在するのならどこからかという事。
この辺が難しいですよね。
どんどん脱線しているけど、こんなのもアリですか?
子どもを産む/産まない、結婚をする/しないといった自由を最優先するのか、産む/産まないで格差をつけるのか?
子育てはたいへんなことですので、ある程度補助があるのはいいだろうと思うんですが、基本的にはそれは個人が負うべきことだとうとぼくは思います。
労働力の供給、年金負担などについては、個別に精緻な議論が必要なところだと思います。正直ぼくの手には負えません。
ぼくのブログのような影響力のあまりないところでもよろしければ、心行くまで議論していただいて結構ですよ。
中途半端に終わるのも消化不良でしょうし・・・。
ある程度まとまってきたら、また、記事にしてアップしてもいいですよ。
基本的人権の尊重の立場で考えると、法律をおかしたり、直接の危害を加えないかぎり、お互いの自由は最大限尊重されるべきなので問題ありません。
が、「公共の福祉」というか、道行く人々が不快にならない程度に楽しめるようなパフォーマンスにすべきだろうなとは思います。
パレードでフロートを出すみなさんは、こういう意見があるということをキモに命じていただきたいとぼくも思います。
私のコメントに対するレス理解しました。
返信したいのですが、これ以上話しが進むと文章量が膨大になります。
また、話が本題(パレードの是非)から大きくずれているので、勝手ながらこのへんで終わらせていただきます。
次回また何かありましたらよろしくお願いします。
そのときは、できれば直接お話ししたいです。
>玉野さん
今回話を進めていくにつれて、自身の議論の展開の稚拙さがわかりました。
いい勉強になりました。
玉野さんのブログでいろいろと失礼しました。
どうもです。
>このような過程を踏まえたうえで、どうしてこれらを別問題にするのか、その根拠をお願いします。
申し訳ないのですが、話がかみ合っていないようですね。
俺は『差別があって当然だ』なんて思っていませんよ。
それにあなたの言っている差別の概念が俺にはおそらく理解できないような気がします(推測)。
俺の中では『区別』なものが、コテガワさんの中で『差別』に分類されているような気がします。
『共通項がある→同じ』というのは少々乱暴ではないのでしょうかということです。
>質の高い労働力は、数に勝るでしょう。
勿論質の高い労働力は必要ですが、その前に数が重要です。
中国のような野蛮な国が国際的に大きな声を上げられるのも、人口が多いからじゃないでしょうか。
>私たちは国に貢献するために生まれてきたのでしょうか?
『子ヅクリ』に関しては置いといて、
少なくとも国に『貢献するためだけ』ではないですが、
『貢献しないといけない』と思います。
権利の主張をするのなら、義務も当然です。
どこの国の常識でも、国のために程度の差はあれ、貢献しないなんていうのは聴いたことがありません。
『税金払っているから義務を果たしている』というのは、ナシですよ。
>国のためにならない者たちを不利な立場に置く事は許されることではありません
そうであればいいと、俺も思います。
>「今ある労働力(人)を有効に利用する」という政策がどのようにしてこの発想になるのかよくわからないので、よろしければ説明お願いします。
それ自体が悪いのじゃなくて、
根本的な解決策になりえないということで、
当座を乗り切るだけにしかならないからです。
人口が減少の危機にあるどんな国でも、『今ある労働力を有効に活用』することを柱に、対応をしている国があるのでしょうか。
同じく公共事業も景気回復のカンフル剤になるのかもしれないけれど、それだけじゃ根本的に解決しない、そういうことです。
>質問内容にきつい(きつく感じる)表現がありますが、メールなので、その点ご理解ください。
こちらこそ、人様のブログなので、端的にまとめようと荒っぽいところが目立ちますが、ご容赦ください。
玉野さんへ
連投、迷惑な場合はおっしゃって下さい。
公共の福祉という観点も忘れてはいけないと思います。
民主主義=権利の主張なんて思っている人(玉野さんがとかじゃなく、一般論として)は、他者がどんな思いをするのかなんて、『法律に違反してないから問題ない』の一言で片付けちゃうようなきらいがあるように思います。
基本的人権の尊重の立場で考えると、それでいいの?
なんて思ってしまいます。
俺はもっと他人に対して配慮する、
自分の基本的人権と同じように、
他人の基本的人権にも配慮する、
そんな社会がいいなぁと思っています。
>パレードよりも有効な表現方法があるなら、その方法を提示するほかはないと思います。それがパレード以上に有効だと多くのゲイに思われるならば協力者も現れるかもしれません。
俺も本当にそう思います。
もちろん「反対するんだったら対案を出せ」なんて言われたら「自分で考えろ!」と答えますが、
少なくともこちらからいい案があったら提案するのが『オトナの対応』だと思っています。
>すみませんが、それは本質的な問題ではなく、個別の事柄です。
ゲイが差別される要因として、子どもをつくる行為をしない、ということであるのであれば、子どもを産めない女性もその要因を持っています。そう考えると二つとも「子どもを生産しない」という要因をはらんでいるわけで、別問題というわけにはいかないと思います。
このような過程を踏まえたうえで、どうしてこれらを別問題にするのか、その根拠をお願いします。
>5年、10年じゃなく、100年単位で考えたときも、同じことが言えるでしょうか。
私は、100年単位で考えた上でこの発言をしているつもりです。
質の高い労働力は、数に勝るでしょう。というより、地球規模で省エネを勧めていかないといけない時代になってきているのではないかと思います。
そもそも、なぜ日本の発展のために無理に子どもを増やさなければいけないのでしょうか?
私たちは国に貢献するために生まれてきたのでしょうか?
私たちは、自分自身のために人生をまっとうしてはいけないのでしょうか?
りょうさんの「国のため」という考えも理解できますが、だからといって、国のためにならない者たちを不利な立場に置く事は許されることではありません。
>発想の根幹が、『景気対策には公共事業』というのと同じように俺には思えます。
「今ある労働力(人)を有効に利用する」という政策がどのようにしてこの発想になるのかよくわからないので、よろしければ説明お願いします。
質問内容にきつい(きつく感じる)表現がありますが、メールなので、その点ご理解ください。
>玉野さん
Mannyさんの発言に対する玉野さんの対応の仕方について、その理由が理解できました。
http://blog.livedoor.jp/tamano_syndicate/archives/31089277.html
そういうわけで、意思のあるところ、どんなに嫌がってもパレードは行われてしまうのです。民主主義を貫くかぎり、それを抑止する方法はありません。
どんなに気に入らない人がいようとも、パレードを行ってもいいわけです。現状としてはパレードをすると3000人程度の人が集まるわけで、それ以上にゲイ&レズビアン・コミュニティをエンパワーする方法というのは、ぼくには考え付きません。
パレードよりも有効な表現方法があるなら、その方法を提示するほかはないと思います。それがパレード以上に有効だと多くのゲイに思われるならば協力者も現れるかもしれません。
>そういう本質的な嫌悪感情のようなものがあるのかどうか?
俺も、どの次元で嫌悪感情があるのかということに非常に興味(好奇心レベルで)あります。
もちろん俺が挙げたことに起因する事もあるでしょうし、ただ少数派の人間をたたいているだけの事もあるでしょうね。
>「代表者云々」については、もう15年も前から繰り返されてきた主張で、正直うんざりするのですが、言い続けないと勘違いする方は後を絶たないようです。
すみませんが、正直、何についての事なのか、わかりません。
が、言い続けないと勘違いするっていうのは、正直どうかと思います。
『何か』について継続して主張するのであれば、当然『何か』によって起こることについても、ケアしていくべきなのではないでしょうか。
(話の主題が分からないので、『あげ足とり』になってたらごめんなさい)
>ゲイ・パレードを歩いている人がだれもゲイを代表などしていない。
俺もそう思いますが、はたして何人の方が同じように思うでしょうか。
『俺はそんなつもりじゃない』と言っても、判断するのは周りの人間です。
>それから「結果の平等」についても、だれも「ノンケの婚姻率と同等の婚姻率となるような社会政策を取るべきだ」とは思っていません。同性婚については、同性愛者も異性愛者で同様なチャンスを得られるようになるといいなあ~、というくらいだと思います。
玉野さんの主張に関することではありません。
(というより、失礼ながら、玉野さんの主張自体を知りません)
誤解を招いたようですみません。
俺はやっぱりパレードをやって欲しくはありません。
だからといって、パレード叩きなんていうのも、やる気はありません。
何かを訴え続けていくのなら、もっと他の方法をとって欲しいと思います。
>コテガワさん
>それでは、子どもを生むことが出来ない女性も同様に差別されるべきと思うのでしょうか。
すみませんが、それは本質的な問題ではなく、個別の事柄です。
また、差別されるべきとは俺も思っていません。
>子どもをたくさんつくることによって国を豊かにしようという発想は、時代錯誤な感じがします(国は勧めていますが)。今この国にある資源(労働力)をいかにうまく使うことによって国の発展を促していくという考えのほうが、得策かと。
5年、10年じゃなく、100年単位で考えたときも、同じことが言えるでしょうか。
発想の根幹が、『景気対策には公共事業』というのと同じように俺には思えます。
>婚姻制と同様のパートナーとの権利さえ保障される制度が整えられるなら。
俺はコレが問題だと思っています。
この『保障される』(相続権など)というのを『婚姻制』と俺は捕らえています。
で、このことに俺は反対です。
なんだか、パレードから離れてしまって、申し訳ないと思っています。
生殖可能性をとって差別を肯定しうるかという問題については、肯定はできない。心理学的にはひょっとすると人間はどこかでそういう生殖の不可能性に対して危惧を抱いてしまうのかもしれないな、というのは仮説としては成立すると思います。ただ、これは実証が大変難しい。
社会的な問題系としては、そういう考えは、おっしゃるようにさまざまな差別を一挙に肯定することになるので、許されないことだろうと思います。
DP法、婚姻法については、別途していけばいいと思います。今回は話題が広がり過ぎないように、反パレード勢力といまどきの大学生の問題について考えてみたいと思います。
僕の判断としては、たとえばMannyさんの発言を一つ一つ取り出してそれについてコメントをするというようなことをしても、生産性のある対話は不可能だろうという判断をしたということなんですよ。
戦略として別の方策をとった。
それが直接の対話を回避しているように見えるかもしれません。が、若者Aさんが素直に自分の感受性にしたがって質問をしてくれているお陰で、ぼくの記事内では対話が成立している。そういう自分の立場を捨てなくても対話が成立するようなコミュニケーションのありかたがあるんですよ、ということが伝わればいいなあと思いました。
ちょっとメタな伝え方で分かりにくいかもしれませんが・・・10年前どうだったかというようなこととか若者が知っているはずがない。まだ毛も生えていなくて、お人形でおままごとをしていたころです。でも、ちょっとした想像力があれば、先行世代が何を感じていたのかそれを聞きだすのは難しくない。その上で、やはり先行世代の生き方に違和感があるのであれば、自分たちの生き方を自分たちで作っていくしかないのです。
『QJr vol.1』で「ポスト・マッキー世代のリアリティ」という座談会があります。これはたいへんよくできた内容で、極めて頭脳優秀な若者たちが自分たちのリアリティと、ぼくたち30代以上の人間のリアリティの違いを分析しています。そこでは、先行世代と非常な違和感があるというよりは、ライフコースのモデルとして活用しようという姿勢が語られている。そういう姿勢は、ときには「ただ乗り論」を先行世代から惹起するけれども、彼らのリアリティについて先行世代にたいするそれほどまでの違和感はない。つまり下の世代から見たときに、わたしたちのやっていることは変な方向には見えないんだなという安心感を与えるものでもあるわけです。
Mannyさんのような意見が、今の大学生の間で多数派を占めているのか、極めて異例の少数派なのかわかりませんが、「ポスト・マッキー世代」座談会で語られているものとは、違う感受性が出てきている感じは受けるわけです。ポストマッキー世代も、彼から見ると、同じ穴のムジナでしょう。
玉野さんの記事に対するコメントに対してのレスなんですが、私も思うところがあったので、少し書かせてください。
>りょうさん
>おそらく、偏見等の根底にあるものは、無意識に種の危機を感じ取るからだと思います(100%じゃないのでしょうが)。
>そもそも同性愛というのは、子孫を残さないので社会を衰退させるものだと思っています。
りょうさんは基本的に、同性愛行為というもが生産的な活動ではないという理由で、許されるべき行為ではないと思われているみたいですね。
それでは、子どもを生むことが出来ない女性も同様に差別されるべきと思うのでしょうか。
子どもをたくさんつくることによって国を豊かにしようという発想は、時代錯誤な感じがします(国は勧めていますが)。今この国にある資源(労働力)をいかにうまく使うことによって国の発展を促していくという考えのほうが、得策かと。
この議論も、し尽くされた感はありますが、気になったので一応書かせていただきました。
>俺の中での『平等』は『結果の平等』ではなく『チャンスの平等』だからです。
この記事にたいするレスは玉野さんと全く同意見です。
まさしくチャンスの平等を求めているのに他ならないと思います。
そういいながらも、私は婚姻制度はどうでもいいんです・・。婚姻制と同様のパートナーとの権利さえ保障される制度が整えられるなら。
つづいて、バックトラックのウホ!さんに対して
>ウホ!さん
>Manny氏も玉野氏も、意見を表明するだけで、相手を説得しようとか、理解しようとか、対話しようとかは思ってないようで。
確かにこの印象はうけます。
ただ、この議論に対して中立の立場であることをあらかじめ示したうえで、相手への説得を訴えられても、あまり伝わってきません。
もちろん、中立の立場を否定するつもりはありません。ですが、議論についてよくわかっていない人間(ご自身で最初に書いていました)に、「まあまあ、お互いの話を聞いてください」といわれるのには、釈然としないものがありました。
繰り返しいいますが、中立の立場の否定ではありません。
で、私が思うに確かに対話をしようかという雰囲気では全くない気がします(笑)
でも、対話は本当に難しいことだと思います。文字では絶対にまともな議論は出来ないし、実際に会うことなんて困難の極みです。
いきなりの長文、失礼しました。
「代表者云々」については、もう15年も前から繰り返されてきた主張で、正直うんざりするのですが、言い続けないと勘違いする方は後を絶たないようです。
ゲイ・パレードを歩いている人がだれもゲイを代表などしていない。
自分の立場を表明することがその立場を代表することであり、その立場内での意見対立がある場合には、許されないことなのだとすると、現実には意見対立がないということはありえないので人はあらゆる立場を表明して活動することができなくなります。
「わたしは教師として○○と思う」
「わたしはHIV陽性者の立場から○○と思う」
「わたしは女性として○○と思う」
そういったアイデンティティを主張することが不可能になるのです。
でも、おっしゃるとおり「イタイ」方々もいらっしゃるようで、やるなら「芸」としてのクオリティの向上を考えるべき時期にきているのかもしれませんね。
それから「結果の平等」についても、だれも「ノンケの婚姻率と同等の婚姻率となるような社会政策を取るべきだ」とは思っていません。同性婚については、同性愛者も異性愛者で同様なチャンスを得られるようになるといいなあ~、というくらいだと思います。
理由は、『生物として、一番重要な種の保存に貢献』しないからというもので、それは、制度や社会の問題とは違うと思います。
おそらく、偏見等の根底にあるものは、無意識に種の危機を感じ取るからだと思います(100%じゃないのでしょうが)。
なので俺は、ある程度の色眼鏡で見られるのは仕方がないと思っています。
もちろんそれが理由で『会社をクビ』なんていうのは言語道断だと思いますが。
パレードに関して、俺の率直な意見としては、『かなりイタい』モノだと思っています。
もちろんやるのは勝手ですが、ただでさえ肩身が狭い現状で、あんな奇抜なパレードをやって、『私達はゲイの代表よ』なんてプラカードもって立たれると、『お前らは俺の代表じゃない。勝手にパレードするな!』なんて言いたくなっちゃいます。
俺は同性婚に反対です。
そもそも同性愛というのは、子孫を残さないので社会を衰退させるものだと思っています。
現状が豊かなのでそんなに問題がないのですが、法的に同性婚を認めたら、それを社会全体で後押しする事になりかねないと思うからです。
同性婚を認める制度に賛成のゲイがいろいろなブログなどを見ていると多いように感じます。
また、そのようなところでは同様に『平等』などをうたっていることが多いように思います。
俺はそれを見るたびに『矛盾』を感じます。
俺の中での『平等』は『結果の平等』ではなく『チャンスの平等』だからです。
もういい加減に『結果の平等』を追い求めるのはやめにしたほうがいいのでは…なんて思っています。
話がずれましたが、最後に
Q.ではパレードはなんのためにやるのか?
A.なんか盛り上がりたいだけじゃないの?理屈は後付け!
そんな気がします。