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日本映画への復讐~『親切なクムジャさん』(パク・チャヌク監督)

2005年11月22日 06時04分33秒 | 携帯より

 パク・チャヌク監督の復讐三部作の最後を飾る映画である。彼らしい残忍な描写もあり、美しい映像表現もあり評判は上々なようだ。

 だが、物語としてはほとんど荒唐無稽なまでにありえないショットがちらほら混入している。そうした部分を分析することで、一体彼が誰に対して「復讐」をしようとしたのかが見えてくるだろう。

以下、ネタバレあり。

 

 

 

 近代法治国家において、犯罪を集中的に処理するのはもっぱら国家の役割である。個人が報復などしてはならない。犯罪を犯した被告人は裁判の結果、有罪か無罪か、有罪であれば刑がどの程度かといったことが決まる。そしてその刑を執り行うのは国家権力である。

 ところが、この映画で親切なクムジャさんは、一貫して復讐への国家の介入を拒絶する。復讐は個人で行わなければならない。いくら映画といえども、近代国家のイデオロギーからはかけ離れている。個人で復讐をするために彼女は冤罪を被って長い懲役刑を食らうことになる。そうした無理のある設定からくるドラマの不整合を嘆く人も多いだろう。

 親切なクムジャさんは、刑務所内で自分の腎臓を分け与えるほどの善人振りを発揮する。もちろん善人は、誰に対しても善人ではありえず、イジメをする女囚にたいしては遥かに重い報復をするシーンをやがて目にするだろう。彼女は、すでに国家が復讐を代行中の女囚に対して恨みが発生した場合には、その復讐を代行することもあるわけだ。

 彼女が刑務所から出てくるシーンから映画は始まる。

 刑務所の扉が開くと、数人の女囚が開放感たっぷりに出てきては、肉親や恋人と抱き合っている。

 このようなシーンを見せられると、リュミエールが始めて映画として撮影した『工場の出口』を思い出さずにはいられない。また、学校の門から出てくる大量の子どもたちを撮影し続けた小津安二郎の名前も同時に思い出すことになる。

 わたしたちは、この映画がフランス映画か日本映画を意識しいてるのだろうという憶測をめぐらしながら映画に見入ることになる。

 この映画はやがて本来切り返しショット--ほとんどの映画が会話シーンを撮影するには盲目的にそれ以外の方法がないと信じきっている--で撮られるべきシーンが、180度のパン撮影になってるのを目の当たりにする。そう、それはほとんど小津だけに許された会話シーンの撮影方法だ。

 彼女が出所後に働いているケーキ屋は「ナルセ」と名づけられ、それが成瀬巳喜男に由来することはパク監督自身が告白している通りである。そのケーキ店の店主は日本で修行をしたことが明らかにされもするだろう。

 クムジャさんは着々と復讐の準備をする。その間に彼女のアイラインが赤いことを指摘する声を何度も聞くことになる。

 ついに真犯人を捕らえ、復讐をするシークエンスに入ってくると、落涙を禁じえないシーンにたびたび遭遇する。

 真犯人は実は何人もの子どもを殺しながら捜査線上に浮かび上がらなかった人物である。このこと自体が不可解な設定である。つねに失踪する子どもが出る塾に籍を置きながら、「自分のクラスの子どもに手を出さなかった」というだけの理由で捜査線上に浮かび上がらないなどとは考えにくい。

 かくして集められた親たちは、山間の廃校になった小学校の椅子に座ることになる。

 唐突に復讐の幅が拡大するのには訳がある。どうしても複数人の復讐者が存在しなければ復讐は貫徹しないのだ。

 復讐に来た親たちは、小学校の椅子に座って同じ方向を向いている。そうしなければ、彼らの憎しみに満ちた表情を一気に捉えることは、映画には不可能だからである。彼らが円陣を組んで、コソコソ相談をしていては、憎しみの表情が群れをなして画面に登場することはありえない。映画はこうして殺人の相談をするという究極に厳しい状況にも、公明正大さを要求するのである。

 考えてみれば、こうした映画の限界に最も敏感であった監督が小津安二郎であった。

 続くシーンでも、順番に殺人をするのを待つ間、これから犯人になる親たちは全員廊下の壁を背にしてこちらを向いているだろう。そこでは刑事が復讐の仕方を指南しもする。国家権力すらも、個人的な復讐に協力的なのである。

 そうして一巡して、復讐が完了したあかつきには、さらに信じられないことに、殺人現場で記念撮影が行われもする。

 記念撮影が何を意味するのかというのは、再び三度小津安二郎を参照項に挙げなければ理解不可能である。小津安二郎の映画において、記念撮影のあとには、死別が待っている。しかしそうなれば順番が逆転している。真犯人はすでに殺されてしまっているのである。そのことに思いを寄せるとき、落涙を禁じえないシーンとなる。

 さてこのあと復讐を果たした親たちは、クムジャさんが製作した犯人の血のケーキを食べる。カニバリズムは、死者を生者と一体化させることで魂を永遠のものとするために行うものである。復讐を果たした相手を美しいケーキにしたてあげて食べてしまうことをどう考えるのか。いくつかのブログを見る限り、外見からグロテスクな想像をするほかないようだ。だが、これは弔いの儀式にほかならないことが見えてくる。

 パク・チャヌク監督は、小津安二郎を参照項に挙げながら、日本映画というすでに死んでいるものに対する復讐を企てたのである。しかしそこには当然、甘美な死者との戯れしか浮かび上がってこない。犯人を殺した後で死別の象徴である記念撮影をしたのはそのためだ。

 日本人すら忘れ去っている映画的な記憶に止めを刺すべく、復讐を企てることが、とりもなおさずオマージュであり、弔いにしかならないことにもこの監督は敏感なのである。

 

 小津安二郎の映画を重視する日本人などすでにいない。それは「ドラマティックな展開を欠いた退屈な映画」でしかないのだ。その程度に頽廃した日本人の知性や荒廃した感性と決別をして、パク・チャヌク監督は独自の道を歩み出さなければならない。『オールド・ボーイ』では日本のコミックに対する「復讐」を企てたが、それはまさに「復讐」であった。わたしたちは日本のコミックが韓国で使われ挙句の果てにカンヌ映画祭でグランプリを獲得するのを、アホ面を下げて喜んだものだ。だが、今度の日本への「復讐」は、復讐などするまでもなく死んでいる。真犯人は子孫を作ることなどできなかったのだ。なるほど日本人も忘れた日本映画に対する復讐となれば、国家を徹底して拒否するしかなかろう。国家は目に見える日本しか相手にしてくれない。日本の亡霊と戦いつつ、それに復讐しつつ、それがオマージュにしかならないという現実。パク・チャヌク監督が直面した映画史的な困難そのものが理解されない時代。彼は映画が映画であることをやめ、巨大スクリーンに映し出されるテレビドラマと化した時代の困難を孤独に引き受けるほかないのだ。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
小津と成瀬 (kossy)
2005-11-22 08:23:13
読みごたえありますね~

すっかり楽しんでしまいました。

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はじめまして (ノラネコ)
2005-11-22 12:28:46
TBありがとうございます。

なかなか面白い分析でした。
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なんかそう見えましたが・・・。 (玉野真路)
2005-11-22 13:29:25
これは僕自身が弔いを済ませていないことと、時代が小津や成瀬を弔わずして忘却しようとしていることのギャップに対するいらだちのようなものがにじみ出ています。ひさびさに日本映画が日本映画だったころの映画たちがなにをしてくれていたのかを見せ付けられた気がします。



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お世話になってます&お願い (ひろ(ひろぱげ))
2005-12-13 20:56:03
いつもお世話になっています。

先日はTBやコメントありがとうございました。

「クムジャさん」の記事、トラックバックがダブって行ってしまったようで、お手数ですが一件削除してくださいませ。



小津、成瀬・・・・恥ずかしながら殆ど見ていないんです。

韓国はじめ、海外の映画に飛びついて喜ぶ前に、まず日本映画の素晴らしさを再確認する必要を感じました。
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