小谷野敦の『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝』(新潮新書)を読んでいたら、初っ端で「上げ底された明治の偉人」として福沢諭吉が取り上げられている。
「『学問のすすめ』も『西国立志篇』も、いわば自己啓発書のはしりである。特に前者は、徳川時代は身分制度があったけれど、これからは誰でも努力次第で立身出世できるということを言ったもので、それが『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり』という有名な冒頭部なのである。だが出世のためには、これからは学問をせよ、ということである。何のことはない、近代社会ではたいていの人が知っていることである。それで今日にいたるまで、みないい大学へ行こうと勉強しているわけである。ところが福沢も、当時はまだ個人の先天的能力差ということまで考え及ばなかったか、それを書いておかなかったから、能力のない者まで無理して勉強して大学へ行き、そのためにABCから教える大学ができるという惨状を生み出したのだから、今でもやたら出ている『誰でも勉強ができるようになる』とか『お父さんがこうすれば子供は東大へ行ける』式の罪深い本のはじまりと言えるかもしれない。」(p.16-17)
この文章に違和感を覚えた理由は、その前に橋本治の『福沢諭吉の『学問のすゝめ』』(幻冬舎)を読んでいたからである。
橋本は「『学問のすゝめ』が当時最大級の啓蒙書で、福沢諭吉自身が『近代最大の啓蒙思想家』である」(p.126)、「近代になったばかりの日本に登場した『学問のすゝめ』は、『近代に向かう日本人が学問をするための前提』を説いた本で、『これからの日本はこうなるから、こういうことを知っておけば大丈夫』というようなことを語る、ノウハウ本ではないのです。」(p.201)と解釈しており、小谷野が『学問のすすめ』を「自己啓発書のはしり」と見なしていることに違和感を持ったのである。
橋本は「『啓蒙』に似たような言葉で『啓発』があります。『蒙』は『バカ』ですが、『発』は『弓を射ること』で、つまりは『当たってなにかが生まれる』です。『啓』は『開く』で『発』は『当たり』ですから、『開いて分かった』です。『啓発』は『すぐ分かる』の人で、バカじゃなくてもОKです。それで、『自己啓発本』と言って、『自己啓蒙本』とは言わないのでしょう。自分を『バカ』という前提に立たせるのは、いやなもんなんでしょうね。」(p.139)と、「啓蒙」と「啓発」の違いを的確に示している。
橋本はキリスト教が禁じられ、徳川幕府がなくなり、かと言って明治維新政府は出来たばかりで議会がまだない明治5年の日本において「『学問のすゝめ』は明快には教えません。ある所まで『分かった』と思っても、その次のつながり方がよく分からないから、考えざるをえないのです。『むずかしい文章』ではなく、『分かりやすい文章』であるからこそ『あれ、なんか分からないな?』が見えて来て、考えざるをえなくなるのです。そうさせるのが、『蒙を啓く』の啓蒙です。それを意図的にやったのか、それとも結果として、『読者に考えさせる』になったのか、私には分かりません。でも、福沢諭吉の『学問のすゝめ』が啓蒙の本になっていることだけは確かです。」(p.149)と捉えるのである。
不思議なことは『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝』は2016年10月20日に出版されているのであるが、『福沢諭吉の『学問のすゝめ』』は2016年6月10日に出版されていることで、さらに同書で小谷野は平賀源内の項で「その頃、『江戸ブーム』で、田中優子が、平賀源内と言っていて、『ユリイカ』でも特集を組んだのだが、そこで橋本治が、源内なんて全然面白くない、と書いていて、わが意を得たりの感があったし、源内特集なのにそんなことを書いてしまう橋本が、かっこいい、と思ったものだ。」(p.171)と書いており、橋本治を知らないわけではないのに、何故小谷野は橋本の著書を無視してしまうのか理解出来ないのである。
あるいはただたんに橋本の著書の存在をたまたま知らなかったとしたら、同じ東京大学を卒業した者でもそれぞれが持つ読解力にはピンからキリまであるということを自ら証明してしまったのかもしれず、結果的に小谷野の『本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝』こそ「罪深い本」になっていないのだろうか?
もっとも、両書共にたいして売れていないという悲しい現実はあるのだが、「ポスト真実」と言われる風潮の中で、橋本のように細かく論を練っていくよりも小谷野のような「感情論」の方がウケはいいのかもしれないが、どちらが信用できるかとなると言わずもがなであろう。