MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

村上春樹とJ.D.サリンジャー

2019-03-31 00:56:12 | Weblog

 ということで村上春樹訳によるJ.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読み、ついでにその翻訳の顛末が書かれた村上春樹と柴田元幸の『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書 2003.7.20)も読んでみたのだが、どうも村上の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の評価がよく分からない。「しかしこの本をほめるのって、なかなかむずかしいですね。あれこれ文句をつけるのは簡単なんだけど。でもそれにもかかわらず、だれがなんと言おうと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というのははっきりとした力を持った、素晴らしい小説なんです。」(p.182)という村上のまとめの言葉は分裂気質気味で何を言っているのかよく分からないのである。村上は本心としては『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の良さが分からず面白いとも思っていなくても、自分の小説よりも売れている世界的ベストセラーで翻訳もする都合上、認めざるを得なかったのではないだろうか。
 そもそも村上は野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』を高校2年生の時に一度読んで以来(p.19)、翻訳するにあたっても読み返していないというのである(p.23)。もちろん翻訳のみならず、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』には多くの研究書が書かれており、例えば、柴田は竹内康浩の『「ライ麦畑でつかまえて」についてもう何も言いたくない』(荒地出版社 1998.3.13)を取り上げて「要するに、触って子どものイノセンスを守りたいと思っている状態から、触るような触らないような、ただ見守っていればいいんだという高みまで達しているところに肯定的な変化を見ているわけです。」(p.159)という意見を紹介するのだが、村上は「説としてはおもしろいですね。でも僕は、ホールデンはそこまでは学習していないと思いますよ。というか、彼が考える『イノセンスを守る』ということ自体が、実際的には定義不可能なことですよね。ただのイメージみたいなものです。」(p.159)と答えてしまっている。しかし問題なのは主人公のホールデンがどのように考えているかではなく、著者のサリンジャーがどのように書いているかなのであって、村上は話をすり替えているのである。定義が不可能なことにイメージを駆使して挑むことが小説の役割ではなかったか?(因みに竹内康浩は2005年に上梓した『ライ麦畑のミステリー』で『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を取り上げている。)
 しかし「『キャッチャー』は文芸批評家が言うところの『構造的に完成された小説』ではないし、」(p.220)と書いているところを見ると、村上は文芸批評家たちが書いたものを読んでいないわけではないらしい。「いや、この小説はむしろその構造の欠点のゆえに、構造性をある部分で拒絶するがゆえに、その捨て身とも言える無防備さのゆえに、読者の心に食い込んでくるのだ、と言い切ってしまうことも可能であるかもしれない。」(p.220)と村上は書いているが、これはむしろ逆で、何度も読み直しながらこの「構造的に完成された小説」の「構造」の深遠をたどっていくべきなのであり、構造を構築しきれない欠点だらけの小説ならば日々量産されているのは近所の書店に行ってみればすぐに分かる。


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