ケンのブログ

日々の雑感や日記

フィラデルフィア管弦楽団演奏会 ヤニック ネゼ セガン 京都コンサートホール 2019年11月3日

2019年11月06日 | 音楽
昨日は京都コンサートホールにフィラデルフィア管弦楽団演奏会を聴きに行った。指揮はヤニック・ネゼ セガン

最初に演奏されたのはピアノ ハオチェン チャンさんで
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番ハ短調 作品18

第一楽章
冒頭付近の演奏でセロのピチカートが重くて鋭かった。それを聴いて、ああうまいオーケストラが演奏しているんなという気持ちが込み上げてきた。弦楽器の音色は全体にダークで濃いと感じた。

第二楽章
冒頭のほりの深い弦楽合奏を聴いてチャイコフスキーの交響曲第五番の第二楽章ホルンのメロディが出る前の弦楽合奏に似ていると思った。今までそんなこと思ったことなかったけれど生演奏を聴くと演奏のニュアンスからいろんなことが連想できていいなと思う。クラリネットがアフリカ系のプレーヤーこの楽章の哀愁に満ちたがロマンチックな旋律を音を十分に保ってとても心を込めて演奏していた。なんだか見ていて泣きそうになった。

第三楽章
音楽がリズミカルなところ広大なところで指揮者がひろい肩幅とあつい胸板を使ってオーケストラのメンバーや聴衆をとても引き付ける動作をしていた。ときどきオーケストラの前の方の奏者と指揮者が微笑みを交わしていて、なんかあふれる人間味でオーケストラの魅力を引き出す指揮者なんだなと思った。とても引き込まれる演奏だった。

ハオチェン チャンさんがアンコールにブラームスの間奏曲作品118-2を演奏した。
ピアニストがアンコールを演奏する間、指揮者は指揮台に腰かけてその演奏を聴いたいた。結果、指揮者とオーケストラのメンバーと聴衆のみんながピアノの演奏に耳を傾けることになった。ほんとうに指揮台に腰かけてピアノの演奏に耳を傾ける指揮者の雰囲気が優しくて心ひかれるものがあった。

僕のくせで協奏曲が演奏されるときはソリストの演奏よりもオーケストラの演奏に目と耳がいってしまうのだけれど、ピアノももちろんピンと音に張りがあってダイナミックレンジが大きく素晴らしい演奏だった。

20分の休憩をはさんで次に演奏されたのが
ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」
プログラムに調性がホ短調と書いてあるのを見てブラームスの交響曲第4番と同じ調性かと思った。たまたま知ってたからそう思っただけだけれど。

第一楽章
音色がダークでなんかちょっとドライな感じもすると思った。
この曲は木管が活躍するんだなと生演奏を聴くといっそうそう思う。
細かい音を早く奏でるときはちょっと音がバラける感じになることもあるけど
別にそれも特色のひとつという風に思える。
旋律はどの楽器も美しく歌っている。

第二楽章
金管の前奏に続いてイングリッシュホルンが家路のメロディ。
この楽章はしみじみとした旋律が多い。
ただ、僕は音楽を学んだことがないのに言う資格のないことだとは思うけれど
これだけ美しいメロディだったらもっとセンチメンタルに聴こえるようにオーケストレーションすればよりいっそう感動するのにと思ったもする。そうはならない素朴さがドヴォルザークの魅力だとは思うけれど。
ラフマニノフの直後に聞くからよけいにそう思うのかもしれない。
ラフマニノフはしみじみタイプの旋律の聴かせ方がことのほかうまいと思うので、、。

第三楽章
音楽が楽しいダンスになったとき本当に楽しい村人の躍りの音楽のように
聴こえる。
こういう楽しい雰囲気を醸し出すのがとても得意な指揮者であるようだ。

第四楽章も同じく楽しい旋律、リズムが出てくるところでは本当にとことん楽しかった。指揮者が楽しい雰囲気を出すのがとてもうまいと思った。曲の最後クラリネットが音を思いっきりテヌートしていた。思い入れたっぷりのクラリネット奏者でとても印象に残った。

コーダにさしかかるあたりで客席をちょっと見渡したらみんな固唾をのむような感じで演奏にききいっている。ほんとうに名曲の名演奏は人の心をひきつけてやまないのだなと思った。

ヨーロッパのオケと比べると本当にいろんな人種の方がいるなと思う。音楽はみんな人類共通の言葉だと言うことを改めて認識する。

指揮者の肩幅が広くて胸板があつい。それだからこそできる表現が随所にあって
やはり体格がいいということは指揮者にとって大きな財産だなということも感じた。

厚い胸板とひろい肩幅から伸びる腕を広げて音楽を高いところへ持ち上げようとしている指揮者の姿勢を見ているとやはりなにか惚れ惚れとしてしまうのもがあるなと感じたことは事実だった。
とてもヒューマンなものを感じさせてくれる指揮者でよかった。
十分に満足できる演奏会だった。今年これまで聴いたなかで一番かも。 


夜目遠目笠の内

2019年11月06日 | 日記
ラジオを聴いていたら阪大の先生がファッションについていろいろ研究しているという話題になった。例えば白より黒を着た方が細く見えるというのは客観的なデータで証明できるらしい。「○○さんもう毎日喪服着たらいいんです」とパーソナリティが言った。「そうですね。もうそうしますわ」とアシスタントの女性が言った。
まあ、そうは言っても毎日黒ではあきるがなと僕は思った。

「アイシャドウをぬると目が10%大きく見えるそうです」とパーソナリティが言った。「それはそうやろうな」とアシスタントが言った。確かにそうかもしれないと僕は思った。

「化粧をした女性は遠くから見るときが最も美しく見えるそうです。そうは言ってもこれは昔から夜目遠目笠の内と言ってもう江戸時代からわかっていたことですな」とパーソナリティは言った。「そうや、直射日光にさらされた自分の顔を見るともう愕然とするわ」とアシスタントは言った。

年齢より若く見えるといつも思っていた女性の顔に窓から直射日光が当たったときこの人こんなに年なんかと一瞬思ったことがあることを僕は思い出した。いやあ怖いなと思う。

夜目、遠目、笠の内とは女性は夜見たとき、遠くから見たとき、笠の内で見たときがひときわ美しく見えることを言う。

会社である女性に「やっぱり女性は夜目、遠目、笠の内で、遠くから見ると○○さんはきれい」と僕はある女性に言ったことがある。そのときその方はとても喜んでくださった。

しかし、次の日になってその女性は僕の方につかつかと歩いてきていった。「調べたら、夜目、遠目、笠の内ってどんなおかちめんこでも、夜目遠目笠の内やったらきれいに見えるいう意味やんか。私はおかちめんこやの?」と。そんなん知らんがなと僕は思った。


にわかに寒くなり

2019年11月05日 | 日記
昨日はこの秋初めてブルゾンを着た。
気温が低くなってきたといっても僕は動くとすぐに暑くなるのでそとに出るときはTシャツの上に長袖のカッターシャツ、念のためブルゾンも持って出ていたけれどとうとうそのブルゾンを昨日着た。自宅最寄り駅前の桜の葉も半分近く紅葉になっている。

今日も昨日に引き続き寒い日になった。新聞にも冬の便りが載るようになった。数日前札幌のサッポロファクトリーのクリスマスツリーが公開になったと出ていた。大きいクリスマスツリーで最初写真を見たときには本場ヨーロッパのクリスマスツリーかと思った。札幌はやっぱり北国なんだなと思う。


大学入試民間試験見送り

2019年11月02日 | 日記
大学共通テストの成績と合わせて民間の試験を合否判定に使う計画が見送りになったと新聞に出ていた。長い間入試関係のニュースに接してきたけれどこんなに大きな失態は見たことがない。日本の教育行政史上最大の失態といっても過言でないくらいだと思う。受験機会の公平性の担保のためというようなことが新聞に書いてあるけれど問題はそんなものではないと思う。

入試を安易に民間に委ねることは危険なこととかねてから思ってきた。入試の合否判定に利用される試験を作る民間の会社はそれが民間の会社である限り、もうそれを絶好の機会にしてお金もうけをたくらむことは目に見えている。

お金もうけ、資本主義経済で民間の会社なのだもの、お金もうけするチャンスがきたらするのが当たり前だと思う。

試験を実施する民間の会社の御墨付きの問題集、御墨付きの音声教材、そんなものが市場に出て本屋さんの受験のコーナーに並ぶのは必至の状況であるような気がしていた。

僕はそういうの考えるのが苦手だからそんなに思い付かないけれど入試の判定に使われる問題を作成している会社という権威を利用してできることがその他にもたくさんあることと思う。

そんな状況でまた新たな不祥事がでてこないかと気になって仕方がなかった。

もうそういうこと考えるのがいやだからここ1、2年は入試がどうなっても結局はなるようにしかならないんだからと思いこの入試関連のニュースはあんまりくわしく追いかけないようにしていた。ややこしい話だしなんとなくもう考えたくもなかったから。

少しでも入試がみんなが納得できる方向にいくことを願っている。

十月の末はハロウィンでスーパーマーケットのレジの人はハロウィンのかぼちゃをイメージした帽子をかぶっていた。翌日そのスーパーに行ったらもうクリスマスの飾りつけがしてあった。本当に早いなと思う。

はちまきで勉強

2019年11月01日 | 日記
新聞を見ていたら頭に脳の血流量を計るセンサーのついたはちまきを巻いて授業を受ける高校生の写真が載っていた。このセンサーで脳の血流量を計る。教室の後ろに置かれたパソコンの画面は生徒ごとに血流量が増えれば赤くなり減れば青く色が変わるという。

月に数回データを集め生徒の学習に向き合う姿勢や教諭とのコミュニケーションなどとの関連を4年半かけてこの高校と東大とで検証するという。実験を行う東大教授の先生は「教諭が生徒の集中度を把握しながら、効率的な指導ができるようになれば」と話しているという。

今はなにかと先端技術の時代なのでこういう試みが行われるのだろうと思う。「私、ぜんぜん血流が上がってへんわ。どうも集中力に難があるみたいやわ」という感じで半ばゲーム感覚でこういうデータを楽しむ分にはぜんぜんOKだと僕は思う。

しかし、学校の先生が脳の血流量と学習効果の相関といったようなデータをもとに「君はこのデータを見ると、どうも集中できていないようだ」と真面目くさって生徒に話すようであれば、それはちょっと怖いようにも思う。生徒の普段の態度とか伸びる可能性とかを考慮しないでテストの点数だけ見てものをいう先生がそれなりに怖いのと同様に、、、。

生徒のやる気とか学習に向き合う姿勢って先生の側からすれば生徒の目の輝きとか声のトーンとか背筋の伸び具合とかそういうのを見て直感的に判断するのがもっとも大切でこういうデータは補足的に用いるのが望ましいように思う。このようなデータがもし先生の評価に使われるようになったとしたらそれもそれなりに怖いようにも思う。頭にセンサーつきのはちまきを巻いて血流をはかりながら授業を受けるということも生徒にとってはそれなりのストレスであるようにも思う。自分の身体のデータをそんなふうにとられるっていろんな意味で不安もあるし、、、。

先端技術が進むことはいいことだと思うけれど、そういう進歩が私たちの人間らしさを奪ってしまわないようにと願う。