昨日は京都コンサートホールに京都市交響楽団第640回定期演奏会を聴きに行った。指揮はシルヴァン・カンブルラン
最初に武満徹の夢のとき〜オーケストラのための が演奏された。
僕にとってはもわーっとした感じの音楽でいろいろ表情が変化していることは感じたけれど退屈だった。
次にハイドンの交響曲第104番ニ長調「ロンドン」が演奏された。
第一楽章
冒頭の金管に乗ったティンパニーの連打がきれいに決まって気持ちよかった。イントロが終わって音楽が主部に入るとハイドンの交響曲って聴いていて楽しいなという思いがこみ上げてきた。聴いていて楽しいという音楽の本質を具現した作曲家、それがハイドンなのだなと思った。演奏は元気いっぱいというよりもちょっと音を抑え気味にした表現でそれがなんとも言えないふわっとしたマイルド感を出していて聴いていて心地よかった。楽章の最後の音の残響が美しかった。
第二楽章
最初の音が出たとき優雅で気品のある演奏と思った。明るくなったり影がさしたり演奏の表情が豊かでハイドンの音楽の曲想の変化ということに気づかされる思いだった。モーツァルトとはタイプが違うけれどハイドンの曲想の変化もまた豊かなのだと思った。
第三楽章
ここもチャーミングでいい感じだった。特にトリオの演奏が可愛らしくてユーモアにあふれていた。いい感じと思った。第二、第三楽章を通して演奏のポーズを長めにとるところが随所にあってその都度、残響がなんとも言えず美しかった。金管のトリルが美しくバロック音楽を想起した。
第四楽章
短いイントロに続いてテーマが鳴ったときハイドンのフィナーレってこれで音楽がおしまいという別れの気持ちが漂っているんだなと思った。本当にいい演奏だった。この楽章も最後の音の残響が印象に残った。
最近、京都市交響楽団の演奏を通じて京都コンサートホールの残響って美しいんだなと思う瞬間が何度かあった。そういう瞬間に遭遇するというのは地元の者にとっては嬉しいことと感じた。
20分の休憩をはさんで次に演奏されたのがストラビンスキーのバレエ音楽
「春の祭典」
曲が始まると管楽器群がとても存在感のある音を出していてなんだかすごいなと思った。弦楽器群もとても気合が入っているようで指揮者の方にみんな集中して一心に音を出している感じだった。
ただ、春の祭典、CDは録音の古い廉価版を持っているものの2,3年に一度くらいしか聴かないので曲をよく知らない。交響曲のように楽章ごとの切れ目もないので、後半になると集中力が切れてきて頭がぼーっとしてしまった。曲を知っていたらもっと感動したのにと思った。
途中で大太鼓がとても鋭く鳴ってギクッとしたので目をこらして見たら女性の奏者でちょっと驚いた。見ると楽器と自分の立ち位置などを工夫して全身のバネを使って巧みに演奏している感じでなんかいいなと思った。
ポーズを長めにとって残響をたっぷりと聴かせるさまがハイドンの演奏と似ていると思ったりした。プレトークのときに指揮者の方がハイドンとストラビンスキーの関係を語っておられたように思うのだけれど荷物をおいたり携帯の電源offを確認したりするのに気を取られてほとんど話を聞いていなかった。もう少しまじめに話を聞いておいたらよかったと後悔した。
でも、本当にハイドン ストラビンスキーと充実した演奏でいいコンサートだった。
今年の定期演奏会はこれが最後。また来年に期待したいと思う。
途中で大太鼓がとても鋭く鳴ってギクッとしたので目をこらして見たら女性の奏者でちょっと驚いた。見ると楽器と自分の立ち位置などを工夫して全身のバネを使って巧みに演奏している感じでなんかいいなと思った。
ポーズを長めにとって残響をたっぷりと聴かせるさまがハイドンの演奏と似ていると思ったりした。プレトークのときに指揮者の方がハイドンとストラビンスキーの関係を語っておられたように思うのだけれど荷物をおいたり携帯の電源offを確認したりするのに気を取られてほとんど話を聞いていなかった。もう少しまじめに話を聞いておいたらよかったと後悔した。
でも、本当にハイドン ストラビンスキーと充実した演奏でいいコンサートだった。
今年の定期演奏会はこれが最後。また来年に期待したいと思う。
演奏会に来てホールに入ったときクロークの前辺りに広上淳一さんがいらした。僕は視力があまりよくないので人違いの可能性もあるけれど多分広上さんだったと思う。自分の出番以外でもホールに来てくださることを嬉しく思った。