ケンのブログ

日々の雑感や日記

いい店員さんにあたった

2019年08月26日 | 日記
「今年はアルフィー結成46年
ある日気づいたら46年になっていた」とラジオの
パーソナリティが言った。
アシスタントのひとがちょっとうふふふと笑った。
「ここで笑わんと笑うとこないんです。
すまんのお」とラジオのパーソナリティは言った。
このパーソナリティは寒いギャグでも
案外寒くないからそれはやっぱり経験と
熟練だなと思う。
ある会社が食品に関してまぎらわしい
表示をしていたというニュースをやった。
そのニュースの紹介が終わったあと
パーソナリティは言った。
「商いは、むかしはよく飽きないと言いました。
自分が飽きないことをこつこつと
ずっと飽きずに続けていくことが商いと言う話を
むかしはよく聞きました」と。
その話をきいて本当にその通りだなと思った。
飽きずにできることをこつこつと。
僕も覚えておきたいなと思った。
数ヵ月前にコンタクトレンズの
視力検査を隣の町でしたとき
検査員のおじさんの視力測定の
手際が悪く説明のしかたも
わかりきっていることをくどくどとはなし
かんじんのところはぼやかして話すという感じで
なんか次は違うところへいきたいなと思った。
それで今日は大阪北のターミナルの
眼科へ行った。
今日はアラサーくらいの
若い女性の方が検査をしてくださった。
機械で視力測定をしたあと
その検査員のかたは機械が自動的に紙に
記入した数値を僕に見せた。
「これだけ項目があるなかで
数値が0のところはちゃんと矯正が
できているということです。
数値が0でないところはまだ矯正の余地が
あるということです。
ここはマイナス2の矯正をしても
値がマイナス1.75になっていますから
それだけまだ矯正の余地があるということです。
本来なら矯正してこういう値になることはないので
乱視の軸がずれている可能性が考えられます。
このままいくと言うのもそれはそれでひとつの方法ですが
できれば度数の変更をおすすめします」と検査員のかたは言った。
めちゃくちゃよくわかる説明と僕は思った。
こんなによくわかる説明
いままでにそんなに聞いたことがないと。
「それはよくわかる話ですね」と僕は言った。
「例えばマイナス2だけ目が見えてないところに
マイナス1.5のレンズをいれれば矯正できてない
部分はマイナス0.5になるはずだけれど
そうはなっていないという話ですね」と。
「そうです」と検査員のかたは言った。
「それでは矯正のしなおしをお願いします」と僕は言った。
「わかりました」と検査員のかたは言った。
それから補足的な視力検査、説明
レンズの試着、こんなに手際よくいろいろやっていただいても
いいのだろうかと思うほど丁寧に
手際よくやっていただけた。
なんだかいい人に当たってラッキーとしみじみと思った。
一般論として隣の町のような
衛星都市の医者やお店は平日の昼間、地元に残っている
じじばばを相手にすることが多い。
なので説明のしかたや接客対応が
じじばば仕様になってしまうことが多い。
これに対しターミナル駅の近くは
近くに勤めているサラリーマンやOL、
その他いろいろなひとが来るから
割りとオールマイティに対応できるスタッフが多い。
僕の経験則では携帯ショップ
コンタクトレンズショップ、いろんな店で
だいたいそんな感じになっているように思う。
でも、今日は本当にいい人にあたったなしみじみと思った。
もう年が年なので見違えて
よく見えるようになったというわけにはいかないけれど
いままでよりもずいぶん見えかたがナチュラルになったなと思う。


八月二十五日

2019年08月25日 | 日記
暦を見ると一昨日から
処暑となっている。
調べると、暑さも峠を越した頃と出ている。
なるほどまだ暑いけれど峠は越したなと実感できる。
そんな時期だなと思う。
ブッダの言葉をひもといているとこんな対句が出ている。

悪魔ハービマンが言った。
子のあるものは子について喜び
牛のあるものは牛について喜ぶ。
人間の執着するもとのものは喜びである。
執着するもとのない人は、実に喜ぶことがない。

師は答えた。
子のあるものは子について憂い
また牛のあるものは牛について憂う。
実に人間の憂いは執着するもとのものである。
執着するもとのない人は、憂うることがない。

本当にその通りだなあとは思う。

地蔵盆

2019年08月24日 | 日記
八月二十四日と言う日付を書いて
地方によって違いはあるけれど
地蔵盆の日だなと思う。
本当に夏がだんだん過ぎていくと言う気持ちになる。
昨日、夜遅くに外に出たら
秋の虫が鳴いていた。
今年秋の虫が鳴いていると認識したのは
昨晩がはじめてだった。
季節が秋になっていくなと思う。
先日30才くらいのかたとちょっと話す機会があった。
「9月に母が還暦なんです。
お祝いをしようと思ってるんです」とそのかたが言った。
「そうですか。今時還暦はまだ若いですね。
でも、僕、最近歌声サロンなどで
還暦すぎの人と接することが多いんですが
もう70才になると、どこか悪いと言う人の方が
むしろ多いですね。夜中に何度もトイレに起きるとか
腰がいたい、膝がいたい、なにかあると言う人の方が
むしろ多いです。
僕もあと3年で還暦、さらに10年後と言うと
あと13年でもう70才です。
なんか早いな、寂しいなと思うことありますよ」と僕は言った。
「そうですね。13年は案外早いですね」とそのかたは言った。
30才くらいになるともう13年は経ってしまうと
意外と早いと言うのは実感できるのだろうなと思った。
30才の人にとって13年前と言うと高校生の頃。
そう、僕も30才の頃、高校生だった頃のことを
そんなに昔のことと感じてなかったなと思う。
しかし、本当に早いと思うとやはり早いなと思う。
やっぱりだんだん年老いて死ぬときが
近づいてくるというのはなんとも言えない
寂しさとかそういう気持ちはあるなと思う。
ぶっだの言葉や征さんの本をよんでいると
執着をなくしていくことが大切と言うことが
頻繁に書いてある。
よく最近老後のハウツー本のたぐいを
見ていると年老いたらいらないものは
整理していくのが大切と書いてある本が多い。
それはものに限らずやはり心も
こだわりをなくして執着をすくなくしていくのが
大切だと思う。
書くのは簡単だけれどやはりそれを実行するとなると
なかなかちょっとづつしかできないなと思う。
一足飛びということはなかなか難しいのだと思う。
執着が少なくなるようにと日々思っていると
だんだん気づいたら執着が減っていると言うのが
望ましい形なのだろうけれど。
できればそうなりたいなと思う。
この三年くらいのことを振り返ってみて
例えば二ヶ月、三ヶ月と言う短い時で振り返ると
あまり進歩していないように思えることでも
二年、三年という長い時で振り返ると
知らないうちにずいぶん変わってきたなと思うこともある。
すこしづづ進歩していきたいなと思う。

夏の終わりのハーモニー

2019年08月23日 | 日記
ここ二三日は雨。
それが過ぎるとまた残暑ですが
赤トンボの姿は目立つようになってますな。
とラジオのパーソナリティは言った。
本当に暑いには暑いけれど
夏の終わりを感じさせる季節になった。
夏の甲子園は岐阜県代表
中京学院大中京
ベスト4まで行った。
岐阜県がここまでいくって
すごいことと思う。
自分の記憶にある限り
岐阜短大付属に湯口というすごいピッチャーが
いたときベスト4まで行ったけれど
それ以外に岐阜県の代表がベスト4以上に行った記憶って
僕にはない。
調べれば出てくるかもしれないけれど。
湯口が甲子園で活躍したとしには
まだ僕の実家にあんこの製造工場が
あって、そこのラジオで
野球好きのおじさんが中継放送を
聞いていたなと思う。
東海大相模とか箕島も活躍した年だったと
記憶している。
なつかしいな。
中京学院大中京
調べてみると東海地方以外の出身者も
多いようだけれど最近
そういうことあまり気にならなくなった。

ラジオのパーソナリティは甲子園の決勝で
履正社に負けた星稜のOBの松井秀喜さんが
「こういう試合で負ける星稜が好き」と言ったという
話をしていた。
それは松井さんらしい話と思いネットで
ニュース検索するとこんな記事があった。

今大会は後輩たちのすべての試合をネットで観戦し、「今までの星稜だったら、(3回戦の)智弁和歌山に負けて終わり。甲子園での死闘は必ず敗者になった。(延長14回の)あの試合に勝てたことは、今までの星稜の歴史を変えてくれたと思います。令和元年、101回目の甲子園で、何か新しい歴史が始まる感じがしました」と振り返った。

 「でも、ここで優勝できないのが、星稜。母校のそういうところも大好きです」とも。海の向こうから、思いをはせていた。

松井さんが語ったことをこういう記事で
その前後も含めた形で読むと
なんだか泣けるなと思う。
松井さんの野球人生も
勝ちや敗けがあったからこういうコメントになるのだと思う。
すこしジョークというかファンサービスもあると思うけれど。
しかし、王さんだったら自分の母校に関して
コメントするとき負ける母校も好きとは
絶対に言わないだろうなと思った。
ホークスの監督時代にリーグ優勝しても
クライマックスで負けて
負けるのはなにかが足りないからと
いつも王さん言っていた。
結局王さんの勝負へのあくなき
執念というのはそういうことなのだろうなと思う。
王さんの言葉でこんな言葉がある。
「報われない努力はない。
もし報われない努力があるとすれば
それはまだ努力と呼べない」
これはどんな文脈で言われた言葉なのか
書いてあるサイトがなかなか見つからないので
僕も文脈を離れた言葉しか知らない。
しかし勝負師の王さんらしい言葉だなと思う。
ネットには
指原莉乃が「ずるい、これは成功者だから言える言葉。
報われない努力もある」と
言ったということも書いてある。
それもその通りだなと思う。
ブッダならばきっと
「勝ち負けや報われる
報われないに関係なく
努力することが大切」と言うと思う。



八月二十二日

2019年08月22日 | 日記
征さんというかたの本を読んでいくと
人が軽く素直になるためには
すべてのことを素直にあるがままに受け止め
何事にも執着心を残さないという姿になればよいだけ。
執着心とは最終的には生きるということに対する執着心である。
今生きていること、そして死を迎えることは
そのどちらも同じであると知るならば
恐らくは死に対する恐怖、あるいは生に対する
つまりは生命に対する執着心を取り除くことが
できるのではないでしょうか。
まずは物に対して、また様々な出来事にたいしてのこだわり
あるいは権力や知名度などに対しての執着なども同じであると言える。
そのようなことを少しずつ取り払っていくとよい。
という主旨のことが書いてある。
それは、征さんの本に書いてある通りに執着がなくなれば
確かに軽くなるとは思うけれど
そんな域にはなかなか及ばないなと思う。
征さんがこの文章を書かれたのは今の僕と
同じくらいの年齢のときだからそれはすごいことだなと思う。
知名度にたいする執着心ということについて
僕はいわゆる有名人のことをうらやましいと
思うことはほとんどないし
じぶんが有名になってもそういう条件下で
生きることは大変だろうなと思う。
しかし、すこしでもだんだんご縁ある人との
繋がりが持てればと思うことはある。
著名なひとが羨ましいわけではないけれど
ベートーベンのように死語何年も経っても
その音楽に勇気づけられるひとが
あとをたたないというのはやはり
正直にいうといいなと思う。
僕もどんな些細なことでもいいから
僕が死んだあとに僕のことを覚えていてくれるひとが
いたらそれはうれしいなと思う。
ただ、そう思うこと自体が執着なので
やはりそういうこだわりがあるうちは
なかなか四苦八苦からぬけられないなとも思う。
知名度ということに関して最近
思ったことがある。
僕の町に京都大学の医学部を卒業した
眼科の開業医がいる。
京都大学の医学部を出ているならば
こんな小さな町の開業医にならなくても
大学病院で研究をして有名になるとか
知名度ということを求めるのならば
もっと違う道があったようにも思う。
その医師はおとなしそうだけれども
やることに無駄がないという感じがする。
それはその人の動きかたを見ているとなんとなくわかる。
そして言葉数が少ない。
しかしその少ない言葉は本当に的を射ている。
時間をかけずに無駄な要素を省いて
今の要点をまとめるならばこのまとめ方だな
と感心してしまうようなまとめ方をなさる。
だからそんなに多くを話さなくても
とくに無愛想とも思わないし
こちらの伝えたいことが伝わっていないという気もしない。
その医師が子供に
「ちょっと目をつぶっててね」と声をかけている様子を
見ているとそれ以外のよけいな言葉を
子供にかけるわけではないけれど
この医師は優しい人なんだなというのは十分にわかる。
その粛々とした様子を見ていると
この小さな町の開業医を続けることが
きっとこの医師にはあっているんだなと思う。
一般的な知名度は大学病院の先生より
低いかもしれないけれど。
こういう先生はなんか僕にとっていいお手本だな
と思う。

ぶっだの言葉を読んでいると
たといわずかでも男の女にたいする欲望が
断たれない間はその男の心は束縛されている。
と書いてある箇所がある。
そういう欲望がなくなってしまうというのは
こんなんなことと思うけれど
こういうぶっだの言葉がひとつのひながたに
なることは僕なりになんとなくわかるような気がする。