ケンのブログ

日々の雑感や日記

着る服に困ってしまう

2018年03月26日 | 日記
暖かくなってきたのはいいけれど朝夕はそれなりに
気温が下がるし朝の感覚で厚着をして外に出ると
結構思ったよりも暖かかったりするのでマフラーもとって
帽子もとってという感じで服を脱がなければ暑くて
仕方がないという感じになってしまう。
しばらくこういう日が続くのかなとも思うけれど
気づいたらマフラーも持ってでなくなるというようになっているのだと
思う。
今はまだ、日がくれて寒くなったらと思ってつい用心してしまうけれど
それももうしばらくの間だなと思う。
四月になって年度が変わるとまたいろいろな変化もあると思う。
春だし年度がわりの季節だなと思う。

三月二十五日

2018年03月25日 | 日記
夜は少しだけ寒いと思うもののやはりもう春だなあと思う。
桜の花は僕のすんでいるマンションの下は咲くのが早くてもう満開に近い。
自宅’最寄り駅前の桜はまだ三分咲きという感じだ。
同じ地域の桜でも場所によって咲き具合が違うし
同じ場所の桜でもやはり個体差がある。
ある方の本を少し読んでいたら私は家でデンキもパソコンもない生活を
送っているがちょっと電車に乗ったりすると多くの人が
鉛やヒ素カドミウムや水銀などの付加されている板状のもの(スマホ)を
見つめ続けている。
皆が板状の小さなIT機器を見つめ続けることで人としての会話のなくなった
社会のありかた、その行き着く先に何があるのか。。。
という主旨のことを書いたおられた。

市民交流センターに来てタバコ吸い場でタバコを吸っていたら
僕より少し遅れてやってきた女性がスマホでずっとゲームをやりながら
スマホと同じ手に器用にカンコーヒーももってタバコを吸っておられた。
タバコを吸うときくらいリラックスしてタバコを吸うことに集中したら
いいのにと思うのだけれど、リラックスの仕方も人それぞれと
いうことなのだろうか。
タバコを吸う場所でタバコを吸うもの同士ちょっとした
会話になることもあるのだけれどスマホでゲームをやっておられると
ゲームの邪魔になってもと思いとても話しかけるきにはならない。
相手が男であっても女であったも若くても年配であっても。
スマホのゲームって僕はまったくやったことがないけれど
ちょっと画面を見ると昔のパックマンやインベーダーのように
ゲームの最中はきの抜けないものが多い。

先日あるおじさんとタバコを吸う場所で一緒になって
そのおじさんは「こうやってちょっと気分転換にタバコを
吸おうっていう気持ちになるのがある意味健康な証拠ですよ
体が悪かったらとても吸う気になりません」とおっしゃった
僕は「昔は今日も元気でタバコがうまいという宣伝文句でしたよね」
と言おうと思ったけれどやめた。
国が受動喫煙撲滅に躍起になっているときに国家反逆的なことは言わない方が
いいと思って。
そのかわりに「まあ、そうですね」と言った。
でも非科学的かもしれないけれどおじさんのいうような
身体の感覚を大切にするのが案外正解かもしれないと思ったりする。
僕もタバコは吸うけれどこれだけ建物のなかは禁煙というのが普及してくると
おのずと本数は減る。
それもまたきっといいことなのだと思う。
なにごともできるだけいいようにとっていきたいとは思う。
しかし、スマホが普及してから確かにとても多くの人が
車内でスマホの画面を見つめ続けているなちょっと異様な光景だな
と思うことは僕も時々ある。
車内でたまたま乗り合わせたもの同士話をするということも
昔に比べればほとんどなくなったように思う。
松屋の自動販売機でおばさんがもたついていたので
僕がちょっと手助けをしたけれどなかなかうまくいかない
仕方がないので「一度取り消しボタンを押してもう一度
最初からやりなおさはったらどうです?」と僕が言った直後に
もう食券は券売機のしたに出ていることがわかった。
僕が「あ、もう食券ここに出てますよ」と言うと
おばさんは「あれえ、ほんまや、出てるわ。ありがとうございます」とおっしゃった。
僕もボタンの操作をおばさんに教えることに夢中で食券が出ていることには気づかなかった。
本当に自動で効率化の時代だけれど自動をうまく使えないときには
あるいはうまく使えない人には受難の社会だなと思う。
僕もコンサートやイベントのチケットを買うときネット通販は
ちょっといやだなと思う。
それでコンサートのチケットは極力窓口に直接買いにいく。
自動システムを導入する人は自動が使いこなせない方への
配慮も常にしていただきたいものだなとしみじみと思う。
自動が使いこなせてあたりまえという考え方は
ちょっと怖いと思うしそれではきっと通用しないと思う。

三月二十四日

2018年03月24日 | 日記
やはり、もう春だなと思う。
桜の花は順次開花している。
もう少し満開に近づいたらお宮にお花見にいこうかなと思ったり
いや、みちみち咲いている桜を眺めていればそれがお花見だから
わざわざお花見にいかなくてもと思ったり
いろいろと悩む年頃になってしまった。
まあ、そのときの気分に任せたいと思う。
昨日、新聞のコラムなどで有名な方のブログを読んでいたら
日本の教育はこの30年来英語を話せるようになる教育をということで
改革病というくらい改革が行われてきたが
ざんねんながらすべての改革は失敗だったと言わざるを得ないというようなことが
書いてあった。
なるほど僕もその通りそうおもうと思ってそのコラムを読んでいくと
様々な問題点が書いてあるだけで結局筆者の考えがどうなのかということが
ほとんど伝わってこない。
ここ何年来この筆者のコラムを読むとそう思うことが多い。
なのでもうこの筆者のコラムは読むまいと思いつつ
問題点の指摘につられてつい読んでしまった。
結局文系の学者って一度有名になるとあとは
問題点を指摘しているだけで仕事が成り立っていくのかな
とついやっかみの気持ちが出てしまう。
ちなみに村上春樹さんはあるエッセイで
結局英語を使わざるを得ないという状況に追い込まれなければ
英語は話せるようにはならない。
逆にはなさなければならない状況に追い込まれると
自然とアドレナリンが分泌してきて話せるようになる。
なのでどんな改革をしたって結局は塾が儲かるだけという主旨のことを
書いておられた。
こういう論旨の展開なら実によくわかる。
僕もほとんど同様の考え方だ。
それで英語が話せるのならかっこいいけど僕の場合
話せないのでかっこはつかないけれど。
あと同じエッセイで春樹さんは日本語の歌をうまく歌えない人が
英語の歌を歌ってもうまく歌えないように、日本語の
会話の苦手な人が英語の会話が得意になるということはあまりない
という主旨のことも書いておられたと記憶している。
これもよくわかる話だなと思う。
僕の考え方は比較的シンプルで英語の入試問題は
京都大学のように次の英文を和訳せよ
それだけで十分だしそれがベストだと思う。
もちろん普通の大学で京都大学のように
日本語になおしてもなおかつ’内容がむずかしいというような問題を
出していてはほとんどの人は点がとれなくて差がつかなくなってしまうから
大学に応じて適切な英文を選んでそれを日本語に訳す問題がいいと思う。
そのようにして日本語と英語の間を行き来する思考回路を頭のなかに作る。
それさえやっておけば、話すことが必要になった人は話す力を
身に付けていくだろうし、話す必要のない人は特に話せなくても構わない。
昔の田中角栄さんの演説が動画にアップされているけれどそこで角栄さんは
「私はニクソンともブレジネフとも首脳会談でわうわうっとやってますから
みなさん角栄は英語が話せると思っておられる。
しかし、私は英語がはなせないのであります。
ではどうしてニクソンやブレジネフと首脳会談でわうわうっとやれるか?
それは同時通訳というかたがいるからであります。
同時通訳はテレビには映らないからみなさんにはわからないだけなのであります」
と語って結構聴衆の心をひきつけている。
いまの首脳もきっと似たようなものだと思うけれど
これから英語を話せるように改革していこうという旗をまた
あげているときに政府の首脳が実は英語が話せないと正直に言ったら
国民からぼろかす言われるから角栄さんのように勢いのある演説ができないのだと思う。
最近、相撲以外テレビを見ていないけれど
本当に最近の国会は答弁にたつ人が質問に答えないというのが
当たり前になってしまったように思う。
答弁に立つ人が質問者のキーワードを拾って
質問には答えずにそのキーワードを使って持論を長々と展開する
というシーンをずいぶん見たようなきがする。
質問のキーワードを使って質問には答えずに
持論を長々と展開するというのもそれはそれでひとつの才能なのだろうけれど。
僕が子供のころ塚本三郎という民社党書記長を勤めた
愛知県選出の議員がいて、国会中継を見ていたら
塚本さんは国会で角栄首相に質問し角栄首相が質問に答える間わき見をしていた。
すると角栄さんは塚本さんに向かって
「塚本くん、話を聞いておるのかね。これは君からの質問であり
また大切なことですからね。ちゃんと聞いていなきゃいかんよ」とおっしゃっていた。
言われた塚本議員は苦笑いしていた。
僕は子供ながら角栄さんて面白い人だなと思った。
まあ、時代がかわれば国会等答弁の様子もかわるものだなと思う。
話が横にそれてしまったけれど
外国語と日本語を行き来する思考回路って結構大切な気がする。
明治以降の現代日本語は欧米の言葉を翻訳する過程で
進歩を遂げたと思うし、またその際に漢文の知識もおおいに活用されているように
思える。
漢文は文法的に語順が欧米の言葉に近いから欧米の言葉を
日本語に落とし込むのに格好の手段になる。
結局、戦前にこのような日本語を使いこなした人の文章を読むと
今日でも見事に通用するしまた、その幅広い教養と
思考の深さに驚いてしまうこともある。
英語を話せるようになる教育といわれても正直途方にくれてしまう。
電車で予備校の広告を見ると早くも新課程入試英語四技能講座というのが
出ている。
本当に英語が話せるようになる四技能なのか、入試に通るための四技能なのか
こうなってくるともう話がわからないと思う。
なんとなく今回も結局は入試に通るための四技能
予備校がアドバルーンをあげて生徒を取り込むための四技能になる
蓋然性がかなりあるように思えてならない。



三月二十三日

2018年03月23日 | 日記
寒いあたたかいを繰り返しながらも確実に春は来ているなと
思える気候になった。
アメリカのトランプ大統領がアメリカのある地域で大雪が降ったとき
だから地球温暖化といってもこれだけ寒いし雪もふるじゃないかとツイートしたら
トランプは気候と天気の区別もついていない
天気は短期間のものでそれは大雪がふることもあるけれど
気候は長期に渡るもので長期的に見れば地球は
温暖化に進んでいる。トランプは気候と天気の区別もつかない
と思いきり反論されていた記憶がある。
カリブ海の島がハリケーンで被害を被ったとき
トランプさんがカリブ海の島は防災がしょぼいのではないかとツイートしたら
しょぼいのはこんなときにゴルフ場でそんなツイートをしているお前だ
とこれも思いきり反論されていたような記憶がある。
そういうのを新聞でよんでアメリカというのはこうやって
お互いに言い合いをする国なのかなとぼんやりと思ったりした。
話が横道にそれてしまったけれど
僕の語感としてはそれでもやはり気候というか季節は
確実に春になっていると感じる。
暖かくなる気候にともなって僕もいろいろ変化していければと思う。

三月二十二日

2018年03月22日 | 日記
曇りもようのお天気。でもあたたかい。
自宅近辺のさくらはちらほら咲き始めている。
花が咲くのをみるとやはり気分が華やぐ。
やっぱり花はいいなあと思う。
昨日新聞の人生相談のコラムを読んでいたら
30代の教員女性の方の相談として
二人目を出産したあと産後のしんどさでつい
主人にたいして淡々と接していたらなんと主人が
高校時代に好きだった人とSNSを通じて再開し
浮気をしていた。主人は職場の飲み会といいつつ
実はその女性と飲みにいっていた。
財布をみるとなんとなかに避妊具まで入っていた。
問い詰めると夫は肉体関係は否定したが
精神的に夫が浮気したことは間違いがなく
とても落ち込む。もう浮気はしないと誓約書を夫に書かせたが
気がつくとまた別のSNSでその女性とつながり浮気を続けている。
子供のことを思うと離婚もできないしこの先どういう気持ちで
生きていこうかと思うと本当につらい。

という主旨の相談内容だった。

回答には夫との関係をもう一度見つめ直して
あなたの夫に対する気持ちももう一度見つめなおして、、、
のようなことが書かれていたが
実は僕は人生相談のコラムは相談内容の方は詳しく読んで
回答は適当に流し読みしてしまう。

ただ、通例として、僕の場合男の回答者の回答よりも
女性の回答者の回答の方を詳しく読む場合がおおい。

女性の直感的理解は男性の算術的理解をはるかに越える
という主旨のことが新渡戸稲造の武士道に書かれているけれど
概して男の回答者は理詰めで、女性の回答者の方が
芯のある答えをしておられることがおおいように僕は思う。
あくまで個人の感想だけれど。

しかし、出産の直後に旦那さんの浮気とはつらい話だと思う。
浮気といっても程度によるけれど。
僕の場合喫茶店にいってお話しするくらいなら全然okという感じだ。
しかしこの相談の場合、浮気が発覚したときに財布に避妊具が入っていたと
書いてあるのでいくら夫が肉体関係を否定しても
それは妻としては心配で奥が深いと思う。

こういうのを読むと浮気ってさがなんだなと思う。
ある意味夫の財布を黙ってみる方も見る方というのが僕の
感じかたで結局こういうのって蓼食う虫もすきずきという側面も
否定でいないのだとおもう。

SNSにかんしては僕はわからないけれど夫のメールを妻が
見たとしたらそれも僕にはちょっと考えられないこと。
SNSでも夫は女性との逢瀬にSNSの誰からも見える連絡手段は
使わないだろうから夫の浮気をSNSで見つけたということは
妻は夫のSNSの私信を見たのかも知れない。

世の中知らなければしらないですむ。
知らぬが仏ということもある。

戦前、あるいは封建社会の男尊女卑の価値観のなかでは
それで通っていた側面もあるいはあるかもしれない。

というと僕が夫のことを擁護しているように見えるけれど
やっぱりこの程度の浮気はちょっと度をこしているように思う。
やはりこういう人生相談を読むと浮気は性だなと思う。

郡上節の歌詞の一節に

それでも浮気のやまないときは長十郎の芝居じゃないが
行灯の影からちゅっちゅらちゅっと化けてでる。

とうのがある。
僕はこの歌詞はユーモアをたたえつつとても真実味のあるものだと思う。
浮気を止めるには幽霊になって化けてでるほどこらしめてやらないと
なかなか効き目がないとうことは本当に真実味があると思う。
相談ないようにあるように夫に浮気はしないと誓約書を
書かせても効果は限りなくゼロに近い。
夫婦間の誓約書なんてなんの法的効果もないはずだもの。

本当に、浮気の現場を押さえて思いっきり防犯ベルをならしてやるとか
非常ベルをならすくらいの勢いでなくてはならないようなきがする。

もちろん子供のために離婚せずいろいろとその場その場で
妥協点をみつけてやっていくのもありだと思う。
子供が独立すると同時に自分も新しい男をみつけて離婚するとか、、、。

でもこういう人生相談に接するにつけても思い出すのは
八王源先生の言葉。

私も子供があるから止むを得ずこの歳まで妻と腐れ縁でやってきました。
本当に腐れ縁とはこのこと。
みなさんどうぞ私の真似をしないように夫婦仲良くやってください。
夫婦というのは他人同士がよりあったんだからひとつ間違うと
大変なことになるんです。
しかし、子供をしっかり育てたなら最後の勝利は女にあるんです。

と八王源先生は常々おっしゃっておられた。

本当に子供をしっかりと育てたなら最後の勝利は女にある
という言葉にはしみじみと共感してしまう。