ケンのブログ

日々の雑感や日記

三月二十一日

2018年03月21日 | 日記
彼岸の中日だなとしみじみと思う。
二年前の彼岸、去年の彼岸、今年の彼岸と
それなりに自分としてもいろいろ変わってきているなと思う。
よい方向に変わっていると信じたい気持ちが強い。
二日ほど前からスーパーマーケットの花売り場は
ちょっと模様替えをしてお彼岸用の仏花のスペースが大きくなっている。
3週間ほど前にお花やさんの方から花屋の花とスーパーの花では
花のランクが違うと聞いた。
そういう知識を持った上で花を見ると確かに花屋の花の方が
スーパーの花よりもランクが高いということが実感としてだんだんわかってくる。
ものを見るのに知識がいきる場合も往々にしてあるのだなとしみじみと思う。
知識なしで漫然と見ているとわからないことが知識をもって見ることで
見えてくることがある。
さだまさしさんが最近書かれた本にやばいというかすごい
老人の条件として
圧倒的な知識
どんな痛みも共有してくれる
なにか飛び抜けたものをもっている
というような条件が示されていたともう。
この条件は記憶で書いているので細部は異なるかもしれないけれど
おおよそそういうことが書いてあった。
こんな条件にかなうひとは実際にはいないと思うのだけれど
まあ、理想像としてそういうことがかいてあるのだろうとは思う。
僕もちょっと立ち読みでパラパラっと見ただけなので
前後の文脈を読まずにこういう例をあげるのはさだまさしさんに
失礼かもしれないけれど。
ただ、こういうことがらは逆も真なりということがしばしばあって
知識などないほうが知らぬが仏で幸せということも往々にしてある。
なにごともほどほどということが肝要なのだと思う。
僕も自分の好きな分野に関してはしばしば知識を集めすぎてしまって
逆に迷ったり人と話があわなくなってしまうことがままある。
やはりなにごともほどほどか肝要ということなのだろう。
吉野家に入って注文した料理が出てくるのを待っていたら
僕の向かいに座っていたおじいさんがいきなり
「だから、最初にそれは言ったでしょ。ちゃんとしなさい」と若い女性の店員さんに
言った。
店員さんは「はい」と心のこもっていない返事をして
そのモーションで別のかたのお会計をしていた。
ひとつ人からなにか言われたからといっていちいち止まっていたら
この店での仕事はとても勤まらない。
でも、言われた店員のお姉さんも表面は気にも止めずに
別の客の会計をしてその客が座っていた場所を雑巾でふいて
次々仕事をしておられるように見えるけれど
こころのなかはどうなっているかそとからは見えない。
事実僕もその時は顔色ひとつ変えずに料理が出てくるのを待ち
もくもくと食べてお店をでたけれどあそこでおじいさんが言った言葉が
ずっと頭に残っている。だからこうしてブログのねたにもなっている。
お姉さんもひょっとしたら今日家に帰ってもおじいさんが言った言葉を
覚えているタイプかもしれない。
こればかりはお姉さんのこころのなかはお姉さんにしかわからない。
角田光代さんという女流作家の書いた小説で
子供ができたのをきっかけに勤めていた旅行代理店を
やめる女の主人公がいる。
しかし、子供をつれて公園にいってもその公園での
ママ友の間の派閥争いヒエラルキーの構造にたえられなくなって
また仕事を始める。
こんどは旅行代理店ではなく掃除代行業という肉体系の仕事だ。
しかし、掃除も極めれば面白くなってくる。
そんな面白くなってきた矢先に
女の主人公は旦那から
「最近、仕事が忙しくて子供に厳しく当たりすぎてないか?
掃除の仕事なんてお前が休んでも代わりがいる仕事なんだろ
それよりも今は子育てに集中して、もう少し子供が大きくなってから
今までの旅行代理店のように自分が計画をたててみんなを動かすような
ちゃんと意味のある仕事をしたらどうだ」と言われる。
それをきいて女主人公は「意味?」と言う。
ただ「意味?」と言っただけだ。
しかし、女主人公はそのとき旦那に言われた言葉が
しばしば頭から離れなくなる。
 
よくわかるリアルな話といえば話だ。
旦那は子供の性格は親との三歳までのかかわりでかなり形成されるという
理論をけっこう信じている。
女主人公は今やその説には懐疑的である。
夫婦の気持ちは噛み合わなくなってくる。
よくわかる話といえばよくわかる話だ。
※小説は引用したわけではなく僕の中にある小説の心象を大雑把に書きました。


誰がどこで何を根にもっているか誰にもわからない。
やはり、とらさんのように「思い起こせばはずかしきことの数々」という
気持ちをどこかでもっていることは意外と大切なような気がする。
神道の祝詞でももろもろのまがごと罪けがれあらんをば
というのは決まり文句になっている。
現代語に訳せばいろいろとまがこと、罪、けがれがあるでしょうからということになる。
やはりそういう気持ちが大切なのかなと思う。

お祈りは効くと村上春樹さんの小説に書いてあるのを読んだときには
なるほどそうだなと思った。
気になって仕方がないことがあるときは僕はできるだけ具体的に
祈るようにしている。
いま、これこれのことが私は気になっております。
この気になる気持ちを払い清めくださいという具合に。
速効性はないかわりにじわっとした効き目はあるようなきがする。
同じ具体的な祈りを一週間も続けていると
その具体性の中身が一週間でかなり変わっていることに
往々にして気づく。
お祈りがじわっとすこしずつ効いているということかなと思う。


三月二十日

2018年03月20日 | 日記
いよいよお彼岸の季節だなと思う。
暑さ寒さも彼岸までというけれど本当にずいぶん暖かくなったなと思う。
今日は雨模様の天気だけれどそれでも暖かい。
夏目漱石の小説に彼岸過ぎまでというのがある。
記憶違いだったらもうしわけないけれど
あの彼岸過ぎまでというタイトルに特に意味はなく
ただ漱石が彼岸過ぎ頃まで新聞に小説を連載するつもりで
彼岸過ぎまでというタイトルにしたと言うようなことが
確か前書きにかかれていたような気がする。
とても風流な感じのタイトルだと思う。
風流と言えば茶道の先生の前では口を滑らさないように気を付けなければ
いけないけれど漱石の草枕に
茶道の煩雑な規則を風流とすれば麻布の連隊の
前へ進め回れ右は風流の極みである。
茶道の風流とは風流を解せない人間が
大体こんな感じが風流なんだろうと見当をつけて
極めて狭い世界のなかにことさらに縄張りをはって
これが風流だといっているようなものである

とおおよそそういう趣旨のことが書かれていたと記憶している。
天才的な指摘と言えば言えると思う。
もちろんそれがすべて当たっているとは言えないけれど。

ひるがえって新渡戸稲造の武士道のなかには
人の動きの合理性を極めればそれがおのずと茶道の作法になる
という主旨の指摘がなされていた。
これも言われてみればその通りなのだろうと思う。

先日大相撲大阪場所を見に行ったとき取り直しの一番が
何番かあった。
取り直しの時の仕切りの所作は取り直しの前とは違う。
取り直しの時には一定の所作を省略して行う。
取り直しなどそれほどあるわけではないのに
どの力士も取り直しの時所作でもたつくとくことはない。
あたりまえのように取り直しの時は取り直しの仕切りの所作を
きれいな流れでこなしていく。
すごいことだなと驚いてしまった。

僕は頭がとても片寄っていて
相撲の仕切りの所作など大きな所作は割りとよく気づくけれど
茶道の細かい所作にはなかなか気づかない。

夏目漱石が茶道の煩雑な所作を風流とすれば麻布の連隊の
前へ進め回れ右は風流の極みであると言いたくなる気持ちは僕にも少しわかる。

もちろん相撲のしきりの所作も茶道の所作におとらず
風流であると思う。

同じく草枕で主人公が小説を適当に
ページをめくりながらアットランダムに読んでいたら
女性から最初から読まないのかという指摘を受ける。
主人公は最初から読んだら最後まで読まなければならないと反論する。
女性はそれをきいて最初から最後まで読まなければストーリーが
わからないではないかと指摘する。
その指摘をきいて主人公はこれは女の指摘だと思う。
ストーリーがわからないとつまらないのというのは女の指摘だと。
その気持ちも僕には何となくわかる。
小説のあらすじをいろいろ紹介するようなブログを書いている人は
僕の経験上、概して女の人がおおい。
僕は頭が片寄っているので外国の長い小説を読んでいると
ストーリーがわからなくなってしまうことがままある。
しかし、文章そのものが面白ければストーリーがわからなくなっても
最後まで読むことができる。
逆にストーリーについていけても文章がつまらなければ
途中で読むのをやめてしまうというか挫折してしまう。
先日もストーリーにはついていっているのにつまらなくなってきて
挫折してしまった小説がある。

まあ、いろいろだなと思う。

三月十九日

2018年03月19日 | 日記
昨日は隣の町の劇場で催された市民茶会に行った。
先生も僕の顔を覚えてくださったようでいくとこんにちわ
とおっしゃってくださる。
M神宮の茶券を間違えて出すと笑いながらそれは違う
と言ってくださる。
すこしずつ覚えてくださるとありがたいことだと思う。
昨日のことでメモもとってないので記憶も少し薄れたけれど
春らしくお手前の方は薄い桃色や緑色の置物の方が多かった。
主菓子の器が横に長くてなんだか川の流れのようだった。
「この器、川の流れのようですね」と僕が言うと
隣にいた方がそうですねそんな風にも見えますねと言ってくださった。
ご亭主の方が主菓子は三人官女と五人囃子で五つと三つに盛り分けてあるんですよ
とおっしゃった。
時すでにおそく、僕と隣の方がすでに二つお菓子をとってしまった
あとだったけれど、お菓子をとる前の位置を想像して
数えると本当に三つと五つだった。
「ほんまですね、数えると三つと五つですね」と僕は言った。
炉の上のやかんは天井から吊ってあるものだった。
例年この季節はやかんを天井から吊るとのこと。
やかんときいて
郡上節のやかんかけるとて魚籠(びく)かけた という歌詞を思い出したけれど
それは言わなかった。
やかんのかわりにびくをかけたらえらいことになってしまう。
そこが郡上節の歌詞の面白いところだけれど。
茶室の床の花は椿ともうひとつはなにか忘れてしまった。
椿ともうひとつのはなの組み合わせだった。
先日M神宮に椿らしきものが咲いていて宮司さんの息子さんに
確認したら赤が椿、白が榊の花とのこと
思わず「榊も花が咲くんですか、榊は葉っぱと思ってました」と言ったら
宮司さんの息子さん笑っておられた。
でも考えてみれば榊も花が咲かなければ子孫を残すことができない。
そんなあたりまえのことも忘れていた。
榊は葉っぱという思い込みにすっかりやられてしまっていた。
人間、思い込みにやられることっていろいろとあると思う。
昨日は受付をしてすぐに茶室に案内されたので
待ち合いの床にある目録を最後に復習の意味で見るという順番になった。
僕の他にもそのような人が二三人おられるようだった。
本当に市民茶会やお宮のお茶会はタイミング次第で
いろんなことが起こりうる。
待ち合いの床を見ると、小さい屏風がおかれていてそこに
色即是空と般若心経の一節が書かれてあり
空とはとらわれない心
空とはこだわらない心
とかいろいろ標語のようなものが三つほど添えられたいた。
標語にして解説してしまったらすでに空が空ではなくなってしまうと
思ったけれど、そんな風に文句をたれている時点でこれも
すでに空ではないので本当に空っていったいなんだろうと思ってしまう。
まあ、なにもないというのが空なので空とはとらわれない心でいいのかもしれない。
あまり、こういうことをブログに書くべきではないのかもしれないけれど
ここ一年くらい音に関するトラブルにけっこう遭遇している。
といっても僕もそれなりに辛抱するのでトラブルというほどの
トラブルではないのだけれど。
いつか、コンサートホールでメモをとりながらモーツァルトの交響曲を
聞いていたら第一楽章と第二楽章の間で
急に二つ向こう隣の人から急に「静かにしてください」と言われた。
たぶんメモをとる時のペーパーノイズが気になったのだと思う。
すみませんと言ってメモをとるのをやめたけれど
僕も集中して次の楽章を待っているときに急に
「静かにしてください」と言われるとドキッとしてしまう。
こういうのって注意する方もされる方も被害者なんだなと思ったりする。
そんな話をコンサートホールの係りの方にすると
「音に神経質な人はいます。コンサートホールでもどちらの
お客さんの肩を持つわけにもいきません。
ただ、そういうときはしっこの方の席にするという対応もありますよ」と
教えていただいたので先日ショスタコーヴィチを聞いたとき
はしっこの席にしたら確かにホールのはしっこにはコンサートホールの
係員が演奏の間中たっている。
安心感は確かにあるなと思う。
もちろんメモをとるときにペーパーノイズがでないように最近は
よりいっそう注意を払っているけれど。
カラオケで初期設定のボリュームで歌っていたら
急に店員が入ってきて「音が響きますのでボリュームを下げます」と言って
下げていかれたことがある。
だから初期設定からボリュームをいじってないのにと言いたいけれど
それも辛抱している。
先日なんか初期設定が22のボリュームを6まで下げられてしまった。
こんなに低いボリュームだとスピーカーから出る音と
地声の区別がつかなくなりのどを壊しそうだ。
でもそれも言わずに辛抱していた。
辛抱がたりなくておかげを逃す人が多いという金光さんの言葉を
基本的には信じていたいなと思う自分がいる。
あと慎みを忘れないということも大切なような気がする。

日本センチュリー交響楽団第223回定期演奏会

2018年03月17日 | 音楽
ザ シンフォニーホールに日本センチュリー交響楽団第223回定期演奏会を
聴きに行った。
指揮はアラン フリバエフさん。
最初にピアノ小山実雅恵さんでラフマニノフのピアノ協奏曲
第2番ハ短調作品18が演奏された。
第一楽章
安定した音がだんだん迫力をまして大きくなっていく。
いかにも小山実雅恵さんという感じの展開。
指揮者もみちえさんのテンションにオーケストラをよく
あわせておられるような気がする。
途中でみちえさんのピアノ安定しているけれど
微妙なニュアンスにかけるというかちょっと一本調子のところも
あるなと思った部分もある。
第二楽章
冒頭でちょっとチャイコフスキーの交響曲第5番の第三楽章を
思い浮かべた。
甘く切ない音楽。
音楽の様相が悲しげになるところもある。
みちえさんはことさら特別のことをされるわけではないけれど
いつも安定している気がする。
楽章後半のオーケストラの演奏はムード音楽のストリングスのようにも聴こえた。
第三楽章
第二楽章から連続して第三楽章が演奏される。
みちえさんは一つ一つのおとを丁寧に確実に弾いておられるように思える。
音楽の随所に美しいうっとりとするようなメロディが出てくる。
ラフマニノフって素晴らしいなと思う。
音楽が終盤に入るとみちえさん、いよいよ気合いが入ってきて
すごいなあ、やるなあと思った。
音の細かいパッセージもみちえさん事も無げに弾いておられる。
やはり、すごい方なんだなあと思う。
よかった。
次に演奏されたのはボロディンの交響詩「中央アジアの草原にて」
はじめてきく曲だったので印象をつかもうとしているうちに
もう音楽が終わってしまった。
なんかロシアの音楽にしては明るく牧歌的な雰囲気だなと思った。
次に演奏されたのがショスタコーヴィチの交響曲第9番。
第一楽章
アクセントの付け方や楽器の響かせ方を聴いていると
指揮者は音楽の明るい側面に光をあてようとしておられるのかなと思ったりする。
第二楽章
冒頭の木管の旋律を聴いているとやはりショスタコーヴィチだなと思う。
木管のハーモニーもショスタコーヴィチ特有の美しさがある。
中間部ももっと悲痛に演奏しようと思えばできるけれど
あえてそういう道には進んでいないようにも思える。
それでも音楽には独特のけだるさが漂う。
第三楽章
バイオリンの細かいおとがよくそろっていて印象的だった。
ショスタコーヴィチの他の作品に比べると影を潜めているけれど
やはり音楽には壮絶ななにかが秘められているところもあるなと思う。
第四楽章
印象をつかみかねているうちに終わってしまった。
第五楽章
慎重に遅いテンポで出てくる。
一瞬これから一気にテンポをあげていくのかと思ったけれど
やや遅めのテンポで音楽が進んでいく。
音楽終盤にはずっとテンポがあがってきた。
最後の方では指揮者は指揮台でダンスをするようなおどけた
しぐさをなさりその動作を合図に音楽は明るくなっていった。
ロッシーニクレッシェンドのような感じで音楽は終結部へ向かっていった。
交響曲第15番でショスタコーヴィチはロッシーニのウイリアム テル序曲の
主要なテーマを引用しているけれど
やはりロッシーニのことが好きだったのだろうか。
なんかショスタコーヴィチの音楽が素直に明るく終わった気がする。
こういう演奏そんなにないと思う。
しかし、音楽全体の印象ということになると
やはりショスタコーヴィチの音楽をきくとしばし言葉を失ってしまう
自分がいることに気づく。

定期演奏会にはめずらしくアンコールにチャイコフスキーの弦楽セレナーデの
ワルツが演奏された。これが透明感のある素晴らしい演奏で
弦楽セレナーデのワルツはチャイコフスキーのワルツのなかでも
最高のもののひとつかもと思わせれくれる演奏だった。

コンサートが終わったあと僕はしばしばそうするように
コンサートホールの裏にあるチケット売り場へ行った。
大体いつもここでこれからのコンサートをチェックしてから帰る。
チケット売り場のはしに机がおいてあって
そこに見覚えのある顔の方がいらした。
小山実雅恵さんだった。
「みちえさん」と思わず僕は言った。
「いつかベートーベンの30番を演奏なさったとき
アンコールでシューベルトのアンプロンプッチェをなさったとき
僕みちえさんに色紙にサインいただきました
あのサイン記念に飾ってあります」と僕は言った。
みちえさんはにっこり微笑んで「ああ、ああ」とおっしゃった。
どうだろうあのときのこと覚えていてくださるかな。
たまたまコンサートが終わったあとトイレから出たら
列ができていてきくとみちえさんのサインを待つ列だった。
ふだんサインなどもらわない僕だけれどたまたまトイレから
出たらサインの列の最後尾に僕はいた。
それもご縁とあのときはサインをもらうことにした。
最後尾にならんでいる女性に「アンコールの曲なんでしたっけ」と僕はシューベルトの
アンプロンプチェの旋律を歌いながら言った。
「シューマンの子供の情景からです」と女性はスマホの画面から
アンコールの曲目を見ながら言った。
「それはトロイメライです」と僕は言った。
そしてもういちどアンプロンプッチェの旋律を歌った。
すると最後尾の近くにいた別の女性が
「アンプロンプチェです」と言って作品番号も言ってくださった。
「そうですよね。ピアノを習っている子がよく弾く曲ですよね」と言って
僕は低い音で主旋律の伴奏として出てくるもうひとつのメロディを
歌った。
「ああ、左手から出てくるメロディ」と女性が言った。
「そう、あの左手から出てくる音、グッときますよね」と僕は言った。
そんな話を女性と夢中になってしているうちに僕のサインの順番が
回ってきた
あのときはサインをしてもらうときにみちえさんとバッチリ目があった。
あのときもみちえさんは微笑んでおられた。
みちえさんあのときのこと覚えていてくださったら嬉しいのにと思った。
「ああ、ああ」とうなずきながら微笑むみちえさんの反応。
覚えていてくださるのかな。そう思いたいけれど「ああ、ああ」だけではわからない。
近くにいたコンサートホールの女性が
「サインもらいますか」と言った。
「ええ?CD買わなくてもサインいただけるんですか」と僕は言った。
前回サインをもらったとき僕は夢中になっていてサインを
もらったあとに本当はCDを買わないとサインがもらえないと気づいたのだ。
「買わなくてももらえますよ」とコンサートホールの女性が言った。
「じゃあ並びます」と僕は言ってサインを待つ人の最後尾に並んだ。
と言ってもそんなにならんでいる人の数は多くなかった。
ほどなくして僕の順番が回ってきた。
「チケットの裏にサインしてください。これをフォルダに挟んでおくと
いい記念になるんです」と僕は言った。
「シューマンのピアノ五重奏曲の時もいきました
ロケットダッシュよかったです」と僕は言って、思わず
シューマンの五重奏曲の冒頭のロケットダッシュのところを歌った。
みちえさんはまた微笑んで「ああ、ああ」とおっしゃった。
ああ、ああだけではわからないけれど
なんかチャーミングな笑顔。
とても僕より3つ年上とは思えない。(ウィキペディアで年齢を調べた)
芸術家で感性が若いのとピアノの練習で体幹が
とても鍛えられているせいだと思う。
みちえさんのステージは音楽ももちろん素敵だけれど
鍛えられたお姿をみるのも楽しみのひとつ。
また、時々みちえさんのコンサートに行こうかなと思う。

三月十六日

2018年03月16日 | 日記
本当にここのところ暖かくなっているなと思う。
昨日大相撲大阪場所へ行った。
大阪府立体育館のベランダでタバコを吸うときに
例年大阪場所の季節はまだ寒いのに
昨日は暖かかった。本当に暖かくなっている証拠かなと思う。
今日は雨模様の天気だけれど引き続き暖かい。
もうお彼岸も近いしいよいよ春なのかなと思う。
僕のマンションの近くでは桜が少しだけ咲いている。
昨日大阪南のターミナルで根付けを僕は買ったのだけれど
なんか今日も地元の町だとどんなところに根付けがあるだろうかと
きになってしまってちょっと根付けがありそうなお店をいくつか
覗いてしまった。
南のターミナルほど品揃えが豊富なところはいまだ見つけてないけれど
いくつかおいてあるお店はあるようだ。
隣の町の百貨店の婦人服売り場の店員さんに
「根付けがおいてある場所はありますか」と僕は言った。
「寝付け?」と店員さんは行った。
「根付けです」と僕は言った。
「根付け?」と店員さんは言った。
「根付けです」と僕は言った。
「根付けですか?」と店員さんは言った。
「根付けです」と僕はさらに重ねていった。
どうやら店員さんは根付けという言葉に頭が反応していないようだ。
これはいけない、と僕は思った。
「根付け、和風ストラップです」と僕は根付けという言葉の言い換えを試みた。
「ストラップですか」と店員さんは言った。
「そうです」と僕は言った。
「ストラップですね?」と店員さんは言った。
いけない、今度は店員さんの頭がストラップで反応してしまっている。
ストラップで頭が反応してキティちゃんのストラップが出てきても困る。
阪神タイガースの福留選手のストラップが出てきたらもっと困ってしまう。
「いえ、あくまで根付けです」と僕は言い直した。
「それはなにかものにつけるもののことですか」と店員さんは言った。
「そうです」と僕は言った。
店員さんはなお、わからんという顔をしつつも
装飾品の売り場を案内してくださった。
「さきほどここでおたずねしようと思ったら
ここの店員さんがお客さんを待たせて作業をしておられたので
声をかけたら申し訳ないと思って婦人服売り場でおたずねしたんですよ」と僕は言った。
「しかし、売り場ごとで担当が違いますので
装飾品のことは装飾品売り場で聞いていただきたいんです」と店員さんは言った。
「わかりました。もう一度おたずねします」と僕は言った。
「すみません」と店員さんは言った。
婦人服の店員さん、それも若い娘のような店員さんではなくて
50才近いような店員さんに根付けという言葉が通じなかったのは
僕にとってはすくなからずショックだった。
ロンドンに行ったときロイヤルアルバート美術館というのがあって
そこに根付けのコーナーがあった。
根付けのキュービクル(立方体的)な形は根付けの機能を
はたすのに最適であると同時にそこに掘られた
さまざまな動物などの形は美的である。
美の要素と実用性の要素を兼ね備えた根付けの美しさは
日本文化の特色をなす。根付けは日本文化の特色を
見事に表している。
根付けが展示してあるコーナーには英語でそのように書かれてあった。
英語でそれを読むことで僕は根付けの素晴らしさを逆に
イギリスの学芸員に教えたもらった気分だった。
こんな、状況で小学校で英語必修化
大学入試はバランスよく英語の力を見るために民間試験を
導入って意味あるんだろうか
それで英語を話せる人が本当に増えるの?
塾が儲かるだけじゃないのと僕はあらぬ心配をしてしまう。
先日、東大が当面は入試で民間試験の導入はしない
そして東大がそうする以上は他の大学にもすくなからぬ
影響を与えるだろうという新聞記事を読んだときには
僕は正直言って、東大様、よくその判断をしてくださいました
という気分だった。
民間試験でみる英語力って大学で学ぶ英語の力をみるのとは
方向性が違う場合が多いし、あまり民間、民間といっていると
森友学園ではないけれど、官民癒着のもとになりかねない。
なんであんなことするんだろうと僕は腹のなかでは思っていた。
と話がとんでもない方向に走ってしまったけれど
婦人服の店員さんもまさか、丸刈り黒メガネ
ユニクロの服を来てニューバランスのスニーカーを履いて
ホームセンターコーナンでかったリュックをしょった
おじさんが根付けのことを聞いてくるなんてきっと想定外だったのだろう。
それで頭がうまく反応しなかったというのは十分にありうることだと思う。