隣の街の公共の施設で催されていた歌声サロンが何ヶ月ぶりかで再開されたので参加した。
決まりでフェイスシールドをして歌うということだった。
フェイスシールドは先生がみんなのものをまとめて代金建て替えで購入してくださったのだけれど僕は自分で軽いのを買って行った。
本当に20グラム程度のシールドをつけるだけで身体感覚ってずいぶん違うものだなとしみじみと感じた。
いつもと同じ構えで声を出しているつもりなのになんか全然声が出ていないように思えてくる。
お腹から声を出そうと自分に言い聞かせてもフェイスシールドをかぶっているせいか顔の方にばかり意識が行ってつい喉だけで声を出しているような気持ちになってくる。
なんかいつもと感覚が違うなとしみじみと思った。
歌をみんなで歌う前に発声練習をする。発声練習の時は歌の先生がピアノで決まった音階を半音ずつあげけていってあるところまでくると逆に半音ずつ下げていって、それに従って低い音から高い音までまんべんなく発生できるしくみになっている。
そのピアノの音を聴いていて伴奏の先生が「やっぱりしばらく使ってないからピアノの音がね」と歌の先生におっしゃった。
しばらく使わないことによるピアノの音の変化というのに僕はまったく気づかない。
やはり、普段そういう感覚で過ごしておられる方は気づくポイントが違うなと感心してしまう。
普段は歌の先生が途中で一曲何か歌ってくださるのだけれど、今はとても歌うような状況ではないということで(それはそうだろう)ピアノの先生が独奏をしてくださった。
夏は来ぬ という唱歌を先生が即興でアレンジされたような感じのものを演奏してくださった。
ジャズというのとは違う感覚の演奏で僕の知らない範疇のアレンジだけれど、ホテルのラウンジで演奏されるようなムーディーな音楽といったらいいのだろうか。
自由に和声やメロディが展開される中で随所に夏は来ぬ、の旋律が明確に出てくる。
いろいろに音が変化する中で夏は来ぬの旋律が出てくると、道を歩いていて知っている風景を眺めたときのようなホッとした気持ちになる。
先生のピアノは僕が感じるごく直感的な印象として、音感、リズム感がちょっと独特、それに和声の感覚が美しい。そして、リズム、和声などからなる曲想を変化させるのがとても巧みだなと思う。
変化のさせかたは基本的になめらかなのだけれどそのなめらかな中に時々ドキッとするような瞬間がある。それは、和声の鳴り方であったりちょとしたリズムの変化であったりその組み合わせであったりするように思う。
そういういわば瞬間美というものは一瞬ごとに音が変化していく音楽ではとても大切なことであるように思う。
ピアノを職業にする人なら誰にでもできることでは決してないと思う。
隣の芝は青く見えると言うけれど、自分にできないことができる人はやはり素敵だなと思う。
演奏を終えたあと先生は夏の歌ではこれが一番好きとおっしゃった。
まあ、夏の唱歌などのたぐいではこれが一番お好きという意味とは思うけれど。
その歌声サロンだけれど再び無期延期になるとのこと。
ソーシャルディスタンス、フェイスシールド、出席者の把握(これは僕の想像では、もしもの場合に感染経路を明らかにするためと思われる)、公共の施設を借りていても出席者の数が読めないという不安定な状況などを勘案したらやむを得ないことと思う。
それにこういうときに公共の施設で催しを行う場合の気遣いはそれをする人にしかわからないことだと思うし、、、。
本当にいまはなるようにしかならない時期だなとしみじみと思う。
どうかこういう時期をなんとか乗り切れますようにと願っている。