新聞の川柳にこんなのが出ている。
“”十津川が電車の中で聴く逝去“”
これを見ると、こういうしのび方をしてもらえるのは芸術家冥利だろうなと思う。
この句を詠んだ人の中では西村京太郎さんと十津川警部の存在がきっと一体になっているのだろうと思う。
僕は、こういう場面に遭遇すると、大指揮者ブルーノワルターが、著書の序文の中に
「ナポレオンは死んだ しかし ベートーヴェンは生きている」と書いたことをいつも思い出す。
ベートーヴェンは生きているというのはもちろん比喩で、その比喩の中身はベートーヴェンの作品は生きているということだけれど。
そのブルーノワルターが残したマーラーの交響曲の録音を、最近 かなりまとめて聴く機会があった。
実際、生前のマーラーと付き合いがあり、マーラーの交響曲を何曲か初演しているブルーノワルター。
そのワルターのマーラーを聴いていると、ワルター自身がマーラーの演奏についてのひとつのロールモデルを残すんだという気概でやっているような感覚に包まれてくる。
それほど、マーラーの音楽に対する慈愛と気概に満ちた演奏であるように僕には思えてくる。
まるで、それがマーラーと実際に交流のあった自分の務めだと思っているかのように、、、。
文化を後世に受け継いでいくということに対する気概はまだまだ、私たちはヨーロッパの人に学ぶ部分が多いように感じる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新聞の人生相談のコーナーに40代の女性のこんな文章が載っている。
「(80代で病気の父は)医師から水分摂取を制限され、入浴も短時間にと言われているですが、聞き入れません。
『短時間では体が温まらない』と言うので浴室のリフォームを提案しましたが、それも認めません。
お酒を飲む量はだんだん増えています。私が説得しても聞かず、逆に『もう死んでもいい』と言って薬を飲まないことも。
制限の多い毎日のストレスのためか母に暴言を吐きます。「俺に命令するな 俺が一家の主人だ」と怒りあげく「離婚する」と言い出しました。
介護されないと何もできないことはわかっているので母は我慢していますが、いつか母が壊れてしまいそうです」と。
この文章がどこまで事実を伝えているのかわからないけれど、それを読む限りでは、お父さん息が詰まりそうでかわいそう と思ってしまう。
親子の歴史って、幼少期にまでさかのぼるので、お父さんが娘さんが若いころに許せない一言を言ったとか、そこまで考えているときりがないけれど、、、。
医師から水分摂取を制限され という書き方を見ると、もう医師の言うことが絶対に正しくて、それを守らなければならない という強迫観念的なものを感じてしまう。
こういう医師のアドバイスって大概の場合は 水分は取りすぎない方がいいですよということであって、一日何CC以上取ると必ず死ぬとか また何CC以下では絶対大丈夫とかとうことを言っているわけではないことがほとんどだと思う。
医師の命令は守らなければならないということが先に立ってしまって、お父さんの人権ということを忘れてしまっているように思う。
患者の自己決定権に関してはリスボンという都市で国際的に採択された次のようなものがある。
“”自分で検査や治療などについて、十分な説明を受け理解した上で、自己決定することができます。
患者は自己決定権、すなわち、自分自身について自由に決定を下す権利を有する。医師は患者が下そうとする決定によりどんな結果がもたらされるかについて患者に情報を提供すべきである。
判断能力のある成人患者はいかなる診断手続あるいは治療であれ、それを受ける事を承諾あるいは拒否する権利を有する。“”
https://www.hakuai-hp.jp/outline/rights-obligation/より引用
上に書いてあることを短く要約すれば、患者はインフォームド コンセントの権利を有するということになる。
つまり、判断するために必要な情報を医師から受けたうえで、その治療に納得がいけば受ければいいし、納得がいかなければ拒否すればいい という極めてシンプルな話です。
医師の言うことを聴かなければならないということばかり意識しないで、患者には情報提供を受けたうえて自分で決める権利がある、ということを心にとどめるべきと思う。
これは、医療が進んで多様化したいま、心にとどめておきたい権利だと思う。
話しの飛躍かもしれないけれど、不妊治療までかなり進んでしまった、今、自己決定権ということをひとりひとりが意識しないと、逆に医療に人間が苦しめられるようになってしまうと思うから。
“”十津川が電車の中で聴く逝去“”
これを見ると、こういうしのび方をしてもらえるのは芸術家冥利だろうなと思う。
この句を詠んだ人の中では西村京太郎さんと十津川警部の存在がきっと一体になっているのだろうと思う。
僕は、こういう場面に遭遇すると、大指揮者ブルーノワルターが、著書の序文の中に
「ナポレオンは死んだ しかし ベートーヴェンは生きている」と書いたことをいつも思い出す。
ベートーヴェンは生きているというのはもちろん比喩で、その比喩の中身はベートーヴェンの作品は生きているということだけれど。
そのブルーノワルターが残したマーラーの交響曲の録音を、最近 かなりまとめて聴く機会があった。
実際、生前のマーラーと付き合いがあり、マーラーの交響曲を何曲か初演しているブルーノワルター。
そのワルターのマーラーを聴いていると、ワルター自身がマーラーの演奏についてのひとつのロールモデルを残すんだという気概でやっているような感覚に包まれてくる。
それほど、マーラーの音楽に対する慈愛と気概に満ちた演奏であるように僕には思えてくる。
まるで、それがマーラーと実際に交流のあった自分の務めだと思っているかのように、、、。
文化を後世に受け継いでいくということに対する気概はまだまだ、私たちはヨーロッパの人に学ぶ部分が多いように感じる。
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新聞の人生相談のコーナーに40代の女性のこんな文章が載っている。
「(80代で病気の父は)医師から水分摂取を制限され、入浴も短時間にと言われているですが、聞き入れません。
『短時間では体が温まらない』と言うので浴室のリフォームを提案しましたが、それも認めません。
お酒を飲む量はだんだん増えています。私が説得しても聞かず、逆に『もう死んでもいい』と言って薬を飲まないことも。
制限の多い毎日のストレスのためか母に暴言を吐きます。「俺に命令するな 俺が一家の主人だ」と怒りあげく「離婚する」と言い出しました。
介護されないと何もできないことはわかっているので母は我慢していますが、いつか母が壊れてしまいそうです」と。
この文章がどこまで事実を伝えているのかわからないけれど、それを読む限りでは、お父さん息が詰まりそうでかわいそう と思ってしまう。
親子の歴史って、幼少期にまでさかのぼるので、お父さんが娘さんが若いころに許せない一言を言ったとか、そこまで考えているときりがないけれど、、、。
医師から水分摂取を制限され という書き方を見ると、もう医師の言うことが絶対に正しくて、それを守らなければならない という強迫観念的なものを感じてしまう。
こういう医師のアドバイスって大概の場合は 水分は取りすぎない方がいいですよということであって、一日何CC以上取ると必ず死ぬとか また何CC以下では絶対大丈夫とかとうことを言っているわけではないことがほとんどだと思う。
医師の命令は守らなければならないということが先に立ってしまって、お父さんの人権ということを忘れてしまっているように思う。
患者の自己決定権に関してはリスボンという都市で国際的に採択された次のようなものがある。
“”自分で検査や治療などについて、十分な説明を受け理解した上で、自己決定することができます。
患者は自己決定権、すなわち、自分自身について自由に決定を下す権利を有する。医師は患者が下そうとする決定によりどんな結果がもたらされるかについて患者に情報を提供すべきである。
判断能力のある成人患者はいかなる診断手続あるいは治療であれ、それを受ける事を承諾あるいは拒否する権利を有する。“”
https://www.hakuai-hp.jp/outline/rights-obligation/より引用
上に書いてあることを短く要約すれば、患者はインフォームド コンセントの権利を有するということになる。
つまり、判断するために必要な情報を医師から受けたうえで、その治療に納得がいけば受ければいいし、納得がいかなければ拒否すればいい という極めてシンプルな話です。
医師の言うことを聴かなければならないということばかり意識しないで、患者には情報提供を受けたうえて自分で決める権利がある、ということを心にとどめるべきと思う。
これは、医療が進んで多様化したいま、心にとどめておきたい権利だと思う。
話しの飛躍かもしれないけれど、不妊治療までかなり進んでしまった、今、自己決定権ということをひとりひとりが意識しないと、逆に医療に人間が苦しめられるようになってしまうと思うから。