ケンのブログ

日々の雑感や日記

秋に思うこと

2019年09月26日 | 日記
日が照るとまだ暑いけれど
それでももうお彼岸過ぎ、暑いといってもたかがしれているなと思う。
スーパーの花売り場を見るとお彼岸用の花が
特売価格になっている。
季節を感じるなと思う。
本屋にいくともう来年の手帳が出ている。
今のうちに買っておこうかと手に取ってみたけれど
まあ、そんなに慌てることもないかと思いとどまる。
ラジオではハロウィン商戦がもう始まっていると言っていた。
例えば回転寿司でハロゥインのための特別の
メニューがあったりとか。
パーソナリティがクリスマスも明治になってから
日本に紹介されるようになり
今では日本に昔からあったお祭りのようですと言っていた。
アシスタントもそれに共感していた。
ハロウィンももとはケルト民族が秋の収穫を祝う
祭りであったものがイギリスでキリスト教の聖人を
讃える祭りと結合したようです。
そして日本ではもうなんやわからんけど
みんなで騒ぐようなお祭りになっています。と
パーソナリティは言った。
まあ、言われてみればそういうことなのだと感じる。
クリスマスが日本のものというけれど
あれもなんかクリスマス商戦の流れで
毎年騒いでいるように思えてならない。
僕はキリスト教の幼稚園に通い
そして小学校の頃はその幼稚園の
教会の日曜学校に通っていた。
日曜学校の先生にはクリスマスになると
きまって、クリスマスはケーキを食べる日ではありません
イエスキリストの誕生をお祝いする日ですと教えられた。
なので、子供の頃からクリスマスというのを
そういうプレゼントをもらったりケーキを食べる日と
とらえることは間違った捉え方であるのだと
なんとなく思ってきた。
子供の頃から西洋のクラシック音楽を聴き続けていると
教会音楽の旋律や和声、そして、作曲家が
おそらく慣れ親しんだであろう民謡というものは
それらの作曲家の作品中の重要なモチーフの
根幹にあるのだろうということがそれとなく
感じれらるようになる。
なんか普段そういう捉え方をしていると
ハロウィンやクリスマスなどを
商業戦線のイベントとしてしか知らない
心の構造というのは危ないものであるかのように思えることがある。
そういう祭りが本来もっていた
収穫への感謝、あるいはイエスが生誕したことへの
感謝ということをこころのどこかにとどめておくべきであると思う。
そうでないと、よっしゃハロウィンやクリスマスや
派手に宣伝売って儲けたれ
とか、この機会にパーっと遊ぼか、という言わば欲目の系統のことにしか
考えが及ばなくなってしまう可能性もあるような気がする。

ジャイアンツの阿部慎之助選手の引退会見の模様が
新聞に出ている。
少なくとも新聞の阿部選手の出し方を見る限りでは
将来の球団の幹部候補生なのかなという印象は受ける。
ジャイアンツって昔からこういことは用意周到な
球団だなと思う。
それにしても、ジャイアンツに入ってくる選手のなかで
こういう扱いを受けて引退できる人って
本当に一握りなんだなと思う。
阿部選手も前世でなにか修行をしておられたのだろうか。
そんなことをふと想像してしまう。

予備校で金ぴか先生と言われていた人が
なくなったと新聞に出ていた。
その先生が全盛期のころテレビに出たり
予備校の宣伝などに出ておられるのを見て
予備校から金ぴかという売り方をされて
そのまま金ぴかの服装をしておられるように僕には見えた。
そして、なんかそういうのってとてもわざとらしくて
どこか無理があってしんどいだろうなと思っていた。
僕がそう思っていたというだけの話なので
本人はどう感じておられたかわからないけれど。
最後は生活保護を受けておられたと新聞に出ていた。
予備校の超人気講師で
かなりの収入があったろうにいろいろ
金ぴかの装いのために使ってしまって
手元には残らなかったというようなことが
週刊紙ネタ的なネットの記事に書いてあった。
本当に稼ぐ量が多くても使う量が多ければなくなってしまう。
たまるのは稼いだ分から使った分を引いた差額だという
当たり前の事実にこういう機会にしみじみと気づかされる。
僕の母がいつかお金をためるのは稼ぐ人ではなく使わない人
と言っていたことがあるけれどそう言われればそうだな
とこういう機会に思う。
それでも生活保護を受けておられたのは
やはり教育と知識があるからいざとなったときには
それに頼る知恵があったということなのだと思う。
長生きできれば幸せとは思わないけれど
もし、できることなればなるべく節度ある生活をして
願わくば一日も長く健康でいたいものだなあとは思う。




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