ケンのブログ

日々の雑感や日記

シクラメンのかほり ただお前がいい 俺たちの旅

2019年12月17日 | 音楽
12月17日付の僕が購読している全国紙のの編集手帳に小椋佳さんの「シクラメンのかほり」のことが書いてあった。1975年にこの曲がヒットした時、うす紫のシクラメンはまだ実在しなかった。それは小椋佳さんの遊びであることを小椋佳さん自身がある書物の中で告白しておられるということが書かれていた。

そうなのかうす紫のシクラメンってなかったのかと思った。しかし、今では紫のシクラメンは実在し人気品種のひとつになっているとこの編集手帳には書いてあった。こういう品種が生まれたのも小椋佳さんの遊び心が生みの親と言えるかもしれないという趣旨のこともそこでは指摘されている。

なるほどそのとおりだなと思った。この編集手帳を読んでいて思い出したことがある。この歌がヒットした当時DKさんという著名な評論家がいた。その評論家の本をちょっと僕が読んでいたら小椋佳さんのシクラメンのかほりについて言及した部分があった。

そこでは「シクラメンのかほり」の歌詞には「真綿色したシクラメンほどすがしいものはない」という言葉があるが「すがしい」とはどういう意味か、そもそも「すがしい」などという言葉は存在しない。すがすがしいを略して「すがしい」と言っているとしか思えない。流行歌の歌詞などそんなもの。という趣旨のことが書かれていたと記憶している。

当時、小椋佳さんの歌が好きだった僕はそれを読んで、確かにそうかもしれないけれど、何もそんな小椋佳さんの歌をけなすような書き方しなくてもと思った。すがしいで雰囲気は伝わるし歌詞は音符の数にもあわせなければならない。歌を作る上でのひとつの工夫だと捉えるのが良心的だと思った。

つまり、うす紫のシクラメンが遊びであるのと同様にすがしいという言葉もひとつの遊びであるように思う。歌自体がこれだけ時代を超えたものになるとすがしいという言葉がシクラメンのかほりの用例をもとに辞書に載る日が来るかもしれないと思いさえする。

そしてすがしいという言葉はないと書いていた評論家は当時はとても有名で著書の宣伝がいっぱい新聞の広告に出ていたけれど、今日ではほとんど忘れ去られた存在になっている。もちろん諸行無常なのだからそれはそれでいいのだけれど。

小椋佳さんの詩を見ていてこれは小椋佳さん特有の言語感覚だなと思ったことが他にもある。中村雅俊さんが主演したドラマ、俺達の旅の挿入歌は「ただお前がいい」という歌だ。その歌詞にこんなくだりがある。

ただお前がいい わずらさしさに投げた小石の 放物線の軌跡の上に
通り過ぎてきた 青春のかけらが 飛び跳ねて見えた

この歌詞っていつも僕は素晴らしいなと思う。小石を投げるとそれは放物線を描く。なんか物理的な自然法則を考えながらものを見ているからこそ思い浮かぶ歌詞であるように思う。

そしてその放物線の軌跡は幾何学的に美しい。それだけでなくやはり実際に投げられた小石の姿も目に浮かぶように思う。

飛び跳ねて見えた。というのは水切りの遊びを連想する。こどものころ河原に行って友達と川に石を投げそれが川面に何回飛び跳ねるかよく競って遊んだなということを懐かしく思い出させてくれる。そしてその懐かしさは青春とも結びつく。

短い言葉の中に自然法則的なこと、幾何学的なことを連想させながらも本質的には情緒的な懐かしさ、美しさが歌われている。小椋佳さん以外の人には書けない歌詞だなと思う。

もうひとつ俺たちの旅の挿入歌ではなく文字通り主題歌「俺たちの旅」の歌詞にはこのような部分がある。

夢の坂道は木の葉模様の石畳 まばゆく長い白い壁

まばゆく長いという言葉遣いが絶妙だなと思う。

辞書でまばゆくを調べるとまばゆい の連用形と出ている。連用形だから用言、つまり動詞 形容詞につながるということになる。僕はまばゆく光るなどまばゆいの連用形が動詞を修飾する例はたまに見ることがあるけれど、まばゆく長いというようにまばゆくが形容詞を修飾する例をあまり見たことがない。

しかもまばゆく白いだったら白はあかるくまぶしい色なのでそれはそうと思うけれどまばゆく長いだと長いとまぶしいってどうつながるのと思ってしまう。

でもまばゆく長い白い壁とつながるとなんとなく雰囲気が伝わるように思う。そういう絶妙のところでこの歌詞は成り立っているように思う。

この歌の中でスイカがウォーターメロンと歌われているのも中学生の僕にとっては斬新だった。

改めて小椋佳さんってすごい人だなと思う。

 




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