京都コンサートホールへ京都市交響楽団、第647回定期演奏会を聴きに言った。
オーケストラのコンサートに行くのはいつ以来だろう。ひょっとしたら今年初めてかもしれない。
ソーシャルディスタンスをキープしての演奏会だった。
ステージの上の奏者の数はざっと数えて30名程度で京都市交響楽団というよりも室内管弦楽団というような規模だった。
指揮は秋山和慶さん。
最初に演奏されたのはシチェドリンのカルメン組曲。
カルメン組曲とはいうものの通常私達が、録音やコンサートで聴くビゼーのカルメン組曲とはずいぶん趣の違うものになっている。
モダンな感じにも聴こえるし、ムード音楽的だなと思うところもあったし、鎮魂の音楽だなと思うような場面もあった。
闘牛士の歌のところでプログラムの楽曲解説には後半では旋律が断片化され巧みに再構成されると書いてある場面がある。
ここは実際にビゼーの組曲を想起しながら聴いていると、闘牛士の歌の伴奏をオーケストラは奏でているのになぜか伴奏だけで闘牛士の歌の旋律は出てこない、という感じに聴こえる。期待したものが出てこないというなんとも言えないもどかしさのようなものがある。
しかし、ここで闘牛士の歌が勢いよく出てくると聴く側の気持ちは盛り上がってしまう。やったぜ、闘牛士の歌だぜというように。
そうならないところがよいように思う。
今はそんなに盛り上がるときでもないしかと言って悲しむときでもない。なんだかそういう単純にはカテゴライズしにくい今のみんなの気持ち(これは奏者も聞き手も含めての気持ちという意味だけれど)を象徴するような場面であったように思う。
それはファランドールのメロディが出てきたときもそうだった。ファランドールのメロディが出てくるとビゼーの原曲を想起して聴くと、三人の王の歌も心に浮かんできてそれを期待してしまう。そしてそれがでてくると気持ちは盛り上がってしまう。
でもそうはならなくて三人の王のテーマはなぜか出てこなくてファランドールの旋律のみがでてくる。
そんなちょっとしたもどかしさのようなものがとてもよかったように思う。
秋山和慶さんは2015年にマルタ アルゲリッチさんと組んで広島の被爆70年の平和の祈りのコンサートでベートーベンのピアノ協奏曲第1番を演奏された。
そういう被爆70年という年ならもっと大曲というかそういうものを選びたくなるような気がするのだけれどベートーヴェンの1番というのがいかにも秋山さんとアルゲリッチさんらしい選曲だなと思ったことがある。
特に被爆70年と関係ありそうな曲でもないけれどコンチェルト1番はベートーベンの音楽の中で最もみずみずしいものの一つで70年という年にそれを演奏することはなにかよいことのように思わせてくれる。
今日、秋山さんがこういうビゼーの原曲に基づきながらそれとは趣の違う、ちょっと感情をカテゴライズしにくい音楽を演奏されたのも秋山さん独特の思いやりというかそいういうものがあったように感じる。
そして演奏はもちろん秋山さんらしい熟練の演奏で素晴らしかった。
次にはストラビンスキーのバレエ組曲ブルチネルラが演奏された。
これも管楽器が入ってステージは奥に広くなったけれどやはり奏者の数は30名程度でソーシャルディスタンスを保った人数なのかなと思った。
ストラビンスキーなのでどんな音楽かと思ったら、バロックに近いような感じの音楽だった。
弦楽合奏の随所にチャイコフスキーの弦楽セレナーデと共通するような独特の緊張感のあるアタックのようなものが見られ、やはりこういうのはロシアという土地に特有の共通性なのかもと演奏を聴きながら思った。
客席も僕が座っていたあたりは3つの席のうち2つは使用しないという感じになっていた。本当に準備をされた方々も大変だったと思う。
演奏の途中で久しぶりに生演奏が聴けてよかったとちょっとうるうるしてしまったときもあった。
本当に久しぶりに京都市交響楽団をなまで聴けてよかった。