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ケンのブログ

日々の雑感

願いを叶える あるがままを受け入れる どちらも大切

2020年04月17日 | 読書
芹沢光治良さんの「人間の運命」という小説を読んでいると、主人公次郎の祖母の目の病気に関して登場人物達の考えが大きく二分される場面がある。作者に失礼を承知でごく簡単にまとめるとそれは祖母の目の病気は神様の思し召しで自然のことであるからあえてそれにさからわず受け入れるという考え方、そしてもうひとつは祖母の目の病気は神様におすがりして治してもらおうという考え方である。(医者に治してもらうという考え方ももちろん描かれている)

そしてそのことに関して主人公の次郎はこう思う。

”自分は祖母が盲目になると知って、あわて悲しみ、神様の力を揺り動かしても助けてもらいたいと、焦燥しているが、当の祖母も、そして叔父達も、悲しみもしないで、盲目になるのを自然のこととしている。一体これはどうしたことか。あきらめであろうか。”と。

本当に僕もおもうのだけれど神様におすがりすることで安心や、自信が生まれることも多々あるけれど、おすがりして自分の希望が叶わないとまるでお助けマンである神様には効き目がないではないかと落ち込んだり逆に焦ってしまうことがある。

神様におすがりしてよくしていただく、あるいはよくなっていくことは大切だけれど、思いが叶わなくてもこれも神の意志として受け入れていくこともまた同様に大切であると思う。

いわば自分の願いを叶えようとするおすがりの仕方と、現れてくることを受け入れる気持ちのバランスと言うか線引きをどこでするのかということに対する一般的な答えはどこにもなく、それは自分の気持ちに素直になってその時々で自分で判断していくことなのだと思う。

八王源先生も自分の最後のときはもうすっかりあきらめておられる感じだった。
「これが普通の骨折とかだったら、ギプスがとれた、リハビリが進んだと希望がある。
でも、いまのわしには何の希望があるね?だから希望のないところに人を呼んで見舞いに来てもらっても、そんだけみんなにご足労、迷惑をかけるだけやから、わしは自分の今の病気のことは人にはあんまり話さんようにしとるの」と先生はなくなる半月ほど前に言っておられた。
そのことをしみじみと思い出す。

だんだん、僕も歳をとってきて、どんな願いを叶えられるだろうか、そして、歳を取っていったら自分の思い通りにならないことをいろいろ受け入れていけるだろうかということを考えることが多くなったと思う。