昨日、八王源先生が「タバコはあかんことないのフエルタ(フィルター)があかんの」というのが口癖で自らはフエルタのない両切りの「しんせい」を吸っておられたことを書いた。確かに両切りのたばこでフエルタがなければポイ捨てしても紙とタバコの葉が落ちるだけだから基本的にはそれは自然に帰りフィルターのついた吸い殻をポイ捨てするよりも自然には圧倒的にやさしいであろうことは想像するのがそれほど困難ではない。
僕もいつかしんせいを吸ってあまり目立たないところでポイしてしたろかと考えたことがあったけれどやはり自分の勝手な思い込みでそういう反社会的なことをするのはよくないとおもいとどまった。
タバコ屋のご主人にきくとしんせいは売ってないわけではないけれど必要に応じて発注しなければならないとのことだったのでそれも面倒くさいと思った。
ただ、価格の安いタバコは必ずしもまずくはないというのは八王源先生がしんせいを吸うのを見ていて感じていたので僕は今も価格の安いエコーを吸っている。八王源先生は八百屋でタバコを販売しておられてタバコのことはよくご存知だったから。
ところで八王源先生にはタバコに関するもう一つの口癖があった。
それは「タバコはお線香」というもの。当時は客商売の女性の喫煙者が多かったけれど、ああいうのはきっと厄除けの働きもしているのだろうと僕はその話をきいてなんとなくそう思っていた。
禅宗のお寺ではお線香一本燃え尽きるまでの時間が座禅のワンセットの時間というところもある。線香が時計の役割を果たす事例だ。
僕も旅行に行って景色のいい場所に来る。そこでいつまでもたたずんでいたいけれどそういうわけにも行かないというときにはタバコを一本吸うあいだこの景色を見つめていようということでたばこを時計にしていたことがあった。
たばこがだめと言ってキッチンタイマーで5分とかにするとそれがなんとなく興ざめになってしまう。
本当にあまりにも喫煙者にきびしい世の中は逆に興ざめでぎすぎすする面もあるなと思う。東京オリンピックのためにこの4月から屋内での喫煙の規制がさらに厳しくなり灰皿がいっぱい撤去されたと今日の新聞に出ていた。
なんかそういうのを見ていると世の中が良い方向に向かっていく嬉しい知らせとはあまり思えない自分がいる。もちろん喫煙を推奨する気持ちは僕にはさらさらないのだけれど。何事もほどほどにということが大切と思う。
このコロナの騒動で思うのは旧約聖書のノアの大洪水の物語。科学が進んで人間が思い上がってくるとこういう人智ではどうにもならないことが起きるような気がする。こういうピンチでもなるべく地道に自分のするべき努力はして長い目で見ればあのピンチがあとあとチャンスになったという気持ちでまいにち地道に生活したいなと思う。