「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二学”への眺遠――生誕110年を前にして(1)

2012-05-05 00:59:41 | 多喜二研究の手引き
多喜二学”への眺遠

――生誕110年を前にして


                                              

                                   佐藤 三郎



一人の人間がこの地上に生き、そして土に帰った証として、墓をたて、故人を偲ぶためゆかりの人々は集まる。そして遺族は、成仏を願い、安らかな眠りを願うものだ。

 しかし、作家の魂は、その作品に眠りを求めてはいない。それどころか、眠りを許さず、読み継がれ、語り継がれることを望んでいるのではないだろうか。

それにしても、没後80年を経過してもなお、その”紙碑”ともいえるテクストが判読不能な伏字や削除のまま、復元されずにいるのはなんと不幸なことだろうか。



2008年「蟹工船」ブームがもたらした未曾有の成果については、島村輝・フェリス女子学院大学教授が、2010年「伊勢崎多喜二祭」の記念講演で語られていることと思う。また、『オックスフォード多喜二シンポ論文集』(2009 小樽商科大学出版会・発行、紀伊國屋書店) の北村隆志「「蟹工船」と現代青年」の報告を読まれた方はすでに承知のことと思う。

このブームによって、多喜二は名を知られながら作品が読まれない作家から、世紀と国境を超えて、現在の日本を代表する、読まれる作家となった。

多喜二の文学の力は、大きく日本の貧困の現状とその社会的構造を明らかにし、インターネットメディアを通じて「蟹工船」の物語は、「もう一度立ち上がれ!!」とのメッセージを載せて地球を駆け巡った。それだけの大きな成果が共有されている一方、基礎研究としてのテクスト研究では「蟹工船」は未完のまま、放置されたままだ。



【プロローグ】 「蟹工船」の本文中の 「○」 に漢字一文字が入ります。それは何でしょうか?

       仕事の高は眼の前で減って行った。

       中年過ぎた漁夫は、働かされると、一番それが身にこたえるのに、「サボ」にはイヤな顔を見せた。

        しかし内心(心配していたことが起らずに、不思議でならなかったが)、かえって「サボ」が効 いてゆくの を見ると、若い漁夫たちのいうように、動きかけてきた。困ったのは、川崎の船頭だった。彼らは川崎のことでは全責任があり、監督と平漁夫の間に居り、「漁獲高」のことでは、すぐ監督に当って来られた。それで何よりつらかった。結局三分の一だけ「仕方なしに」漁夫の味方をして、後の三分の二は監督の小さい「出店」― ― その小さい「○ 」だった。



これは2008年にブームになった「蟹工船」の一節である。

最後の部分の「○」は、伏字である。ここにどんな文字を充てればいいのだろうか。だがその”回答”は、最新の『新装版 小林多喜二全集』解題にはない。

それは、多喜二の肉筆原稿を見れば当然あきらかになるはずだ。しかし、日本近代文学館に保存されている「蟹工船」の肉筆原稿は、前半しか存在せず、後半原稿は行方知れずのままとなっているという。そのため、肉筆原稿の伏字該当部分に何が書かれていたのかは、現在確認のしようがないのだ。

 それでも”回答”はある。小林多喜二はノートに丹念に下書きし、それをもとに清書原稿を作成していたので、この草稿ノートをみれば、その”回答”は得られるはずなのである。

ではそのノートはいまどこにあるのだろうか。それは現在、日本共産党中央委員会の管理下にあるのだ。実は、この草稿ノートはながく「小林多喜二著作刊行委員会」の管理下にあり、関係者のみにしか閲覧がゆるされなかった。「○」が、何の文字であるのかの”回答”がそこにありながらも、「蟹工船」成立80年を経てもなお伏字のままとされてきたのである。

「蟹工船」の作と関連して取り上げられることの多いテクスト、「「カムサッカ」から帰った漁夫の手紙」 (『改造』1929年7月号)にも、「ロシアの国営漁場の進出を恐れている******が、国営漁場に使われている***をこっそり煽動して、ストライキをわざと起こさせたり、器具を壊させたりしたことがあります。私達はそれに応援さえしたのです。」など、1920年代のソ連社会の状況をリアルに捉え、世界初の社会主義国・ソ連の否定的な面について多喜二が何を考え、どう描こうとしたのかをしめしている部分の伏字は復元されずにいる。この作には、草稿ノートがあるものの前半だけとされ、後半の草稿部分は伝えられず、多くの伏字がそのままに放置され、研究の光が当てられていないことは、絶対主義的天皇制によって虐殺されたばかりかその作品を”国禁の書”とされ、葬られてきた作者にとって本当に無念であることだろう。





【1】 多喜二テクスト研究の いま

島村輝は「小林多喜二」(『昭和文学研究』1988年)で、民主文学運動の成果として以下を評価している。「一九五〇年代には、雑誌『多喜二と百合子』を中心に、個々の作品についての研究が、近藤宏子・須永康夫ら「多喜二・百合子研究会」メンバーの手によって地道に行われた。この会の活動は多喜二・百合子研究会編『年刊多喜二・百合子研究』第一集・第二集(河出書房、昭29・4、昭30・9)、同『小林多喜二読本』三一書房、昭33・9)などの成果を生み出し、この時期における研究の要の役を担った。民主主義文学同盟の機関誌である「民主文学」は、多喜二追悼の特集を何度か組んでいるが、最近では昭和六十三年(一九八八)二月号に「小林多喜二没後55周年記念特集」を組み、津田孝の「婦人問題と多喜二」、三浦健治の「『蟹工船』の詩的表現について」、右遠俊郎の「防雪林私論」などを収めている。」とし、手塚亡き後、多喜二全集の編纂者となった津田孝の『小林多喜二の世界』(新日本出版社、昭60.2)についても、「全集各巻の解説という制約の中でいささか概括的ではあるが、多喜二の全体像を描き出しており、新発見資料などの解説も、編集にタッチした者ならではの成果である」と評価している。

 手塚亡き後を継いだその津田も事故で筆を執ることができなくなった今、『定本小林多喜二全集』で編纂の作業に手塚とともに従事した大田努、宮本阿伎の二人に引き継がれ、研究が継続されている。

大田は、「「小林多喜二没後五十周年記念展」を終えて--第二十四回赤旗まつり」(三浦光則との対談)『文化評論』[1983.12] )/「同時代者たちの小林多喜二論」(『民主文学』[1991.3]) /「手塚英孝の小林多喜二論」(『民主文学』[1991.12] )/ 「未発掘の「赤旗」短編小説のこと」(『民主文学』[1993.2] )/「非合法時代の遺品から見る「転形期の人々」の意味」(『民主文学』[2003.2]) /「党生活者」を読みなおす」(『民主文学』[2008.2] ) がある。「未発掘の「赤旗」短編小説のこと」は、戦前の「赤旗」に多喜二の短篇を発掘した報告で、さらに「ある老職工の手記」を含む作を多喜二のものだとし、「このことについてはまた稿を改め」るというのでもう20年近く待っているが、まだ発表されていないのは残念だ。

 また、宮本阿伎には、「模索時代の多喜二--「曖昧屋」から「滝子其他」への改作をめぐって」 (『民主文学』 [1970.3]) /「転換期の多喜二--「その出発を出発した女」から「防雪林」へ 」 (『民主文学』 [1971.3] )/「定本小林多喜二全集」編集の頃 (小林多喜二没後55周年記念特集) (『民主文学』[1988.2])/ 「多喜二の描いた新しい女性像―リアリズムの深化にそくして」(『小林多喜二生誕100年没後70周年記念シンポジウム記録集』2004.2 白樺文学館多喜二ライブラリー編)/ 「小林多喜二の初期作品の意味--「老いた体操教師」を中心に」(『民主文学』 [2009.1])がある。 とくにノーマ・フィールドとの対談「変革をめざす文学の可能性をさぐる―多喜二の描いた女性像を中心に」(『民主文学』 [2010.6] )が充実している。

また、大田と宮本による対談 「小林多喜二全集と手塚英孝の仕事」(『民主文学』 [1998.02] )も読みごたえがある。

*

なお、島村はさきの一文で、研究者サイドの仕事として、1960〜70年代に書かれた森山重雄『日本マルクス主義文学―文学としての革命と転向』(三一書房、昭54)、伊豆利彦『日本近代文学研究』(新日本出版社、昭54)を上げ、前者は、「多喜二文学の全面的検討を意図」して成果をあげたもの、後者は「多喜二の作家としての自己形成過程の検討と主要な作品の読み直しを試みた」ものと指摘し、「どちらも研究上必読の文献である」であるとしている。さらに、前田角蔵の「多喜二と田口タキ―その愛をめぐっての一試論」(「日本文学」昭56・4)、「外地移住者としての多喜二―屈辱感からの脱出」(同、昭56.2)といった仕事も、これらの延長線上に位置づけ、日高昭二の仕事については、「『蟹工船』の空間――テクスト論のための二、三の注釈」(「日本近代文学」40、平1・5)および「『蟹工船』の黙示録」(「日本の文学」特別集、平1・11)は、一連の『蟹工船』を「『蟹工船』の言葉の質の徹底的な再検討を経て、それが同時代の表現の特質と深くかかわり、むしろ読者に抵抗感を生み出しつつ、読者の感性の改変をも迫るものであった」という表現論からの到達点を、「多喜二のテクストの特異性と文学以外の同時代テクストの言語とのかかわりを探究する可能性を提示した点で、画期的なものと」評価した。

そして、「ただ一人の多喜二研究家」を自負する、自身の仕事を「作品を作り上げている言語の質の面から多喜二の作品を取り上げた」として、「一九二八年三月十五日」の文体を論じた「権力と身体」(講座昭和文学史』1、有精堂、昭63・2)、同「観察する『私』・行動する『私』」、「小林多喜二『東倶知安行』の語り手」(「日本文学」昭63・1)、「〈モダン農村〉の夢-小林多喜二『不在地主』」(『日本近代文学』43、平2・1 0)を位置付けている(これらは『臨界の日本近代文学』1999 瀬織書房 にまとめられている)。

その後の多喜二研究で目につく著書をあげると、市立小樽文学館館長を務めた小笠原克著『小林多喜二とその周圏』(翰林書房 1998)は、「小林多喜二・初期の世界/小林多喜二・「防雪林」の位相」/「小林多喜二の《処女作》――「一九二八年三月十五日」の周圏」/「『クラルテ』をめぐって/――小林多喜二の《光(クラルテ)》」/「板垣鷹穂と小林多喜二――一通の書簡をめぐって」/「武者小路実篤と小林多喜二――昭和初年代の接触面の一コマ」/「中條百合子書簡と幻の多喜二全集――《一通の手紙》のえにし」/「あーまたこの二月の月かきた――殺された三人小林多喜二 西田信春 野呂栄太郎」/「ある無名戦士の肖像――小樽、多喜二の盟友・伊藤信二」/「多喜二周辺――映画「小林多喜二」を観て」/「多喜二の《遺児》という存在」/「研究展望――小林多喜二/小樽=小林多喜二の《故里》――中国の雑誌『日本』の需めに」/「小樽の道――多喜二と整と」/「私記・《文学風土》としての小樽二つの青春(講演)――多喜二と整」/「座談会・小林多喜二の思い出(佐藤チマ・島田正策・武田暹・藤橋茂と)」を収めて多面的に多喜二を論じている。

*

これに対して、日本近代文学の流れのなかに多喜二文学を位置付けようとする松澤信祐著『小林多喜二の文学―近代文学の流れのなかから探る』(2003 光陽出版社)がある。同書は、「Ⅰ 多喜二文学の源流」、「Ⅱ 小林多喜二の文学」、「Ⅲ 講演二十一世紀に輝く小林多喜二」の3部構成で、以下の論を収めている。

Ⅰ部=1 明治文学を拓いた作家たち―多喜二に引き継がれた文学精神―/2 北村透谷の文学精神―多喜二に起る闘いの文学―/3 自然主義とプロレタリア・リアリズム―石川啄木と蔵原惟人―/4 同時代のプロレタリア文学―徳永直「太陽のない街」―/5 プロレタリア文学の流れ ―多喜二を育てたもの― Ⅱ部=1 多喜二の文学と時代/2 多喜二と志賀直哉/3 多喜二と石川啄木/4 多喜二と蔵原惟人―「一九二八年三月十五日」と「党生活者」―/5 多喜二と大熊信行―大熊信行宛書簡を中心に―/6〝「蟹工船」の女たちは卑猥である″か―中山論文に反論する―/7 監獄小説の系譜―「独房」―/8 プロレタリア児童文学―「健坊の作文」―/9 多喜二を匿った人々―七沢温泉福元館をめぐって―/10 多喜二小伝 Ⅲ部=「講演 二十一世紀に輝く小林多喜二」を内容としていて緻密な文学考証を行い、研究者にとっては必読といえる。

  *

伊豆利彦著『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』(2004 本の泉社)は、「第1章 いま多喜二文学を考える=生誕100年記念小林多喜二国際シンポジウムで考えたこと/若き多喜二の彷徨と発見、第2章 プロレタリア文学とその理論=小林多喜二と蔵原惟人――作家と評論家の問題/プロレタリア文学―存在と意味―、第3章=小林多喜二と志賀直哉=志賀直哉と多喜二/戦後の直哉の心に生き続ける多喜二の像――「灰色の月」前後、で意欲的に”いま小林多喜二を読む”ことの意義を明らかにしている。

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評伝研究では、多喜二の母校小樽商科大学教授の倉田稔著『小林多喜二伝』(2003 論創社) が、手塚評伝を検証し、その根拠を問うものとして生誕100年を記念して刊行された。同書は、

7章構成で、多喜二の生涯を浮き彫りにし、その後の新しい多喜二像を論ずるたたき台となった。しかしながら、初めての多喜二全集編纂を担当する運命を担いながら、多喜二研究史ではその存在を抹消されてしまった貴司山治関係の情報をはじめ、川並秀雄、野口七之輔らの位置づけ、また多喜二の共産党加入とその後の活動についての追求が不足しているという指摘はまぬかれない。

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倉田のあとを継ぐ多喜二の評伝研究では、ていねいにその生涯と作品を読み込み、コンパクトにその生涯と作品をたどったノーマ・フィールド著『小林多喜二―21世紀にどう読むか』(岩波新書 2009)が出色。藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』(学習の友社 2007)、くらせ・みきお『小林多喜二を売った男―スパイ三舩留吉と特高警察』(白順社 2004)、さらに母セキの口述で息子の生涯を語った幻の評伝『母が語る小林多喜二』(新日本出版社 2011)がようやく公刊された。

手塚英孝による『小林多喜二』も再刊されて一巻となったが、同書の基本的な位置づけとしては、同書が最初に公にされた 筑摩書房版(1958年)の「まえがき」に示された、



「小林多喜二の二十九年の生涯を再現しようとつとめ、私はかなりの年月をかけた。(中略)この仕事をつうじて,私はいまさらのように心にきざまれる一つの現実にうちあたった。それは、小林と同時代に生き、彼とともに解放運動の戦列にあった人びとが、若くして多く死去されているということである。とくに北海道で、彼と密接な関係にあった人たちは、ほとんどといっていいほど故人となっている。

荒々しい時代に生き、たたかい、傷つき、若くしてたおれたこれら多くの人びとのことを、私は忘れることができないであろう。

本書の上梓にさいし、中野重治氏、近藤宏子さん、筑摩書房の原田奈翁雄氏から、それぞれ御懇切な御援助をうけた。」

 

と率直に書かれているように、”多喜二の戦友”と言われながらも、多喜二の闘いのすべてを知悉する存在ではないことを改めて明確にし、伊勢崎での多喜二奪還闘争・多喜二入党、とその前後の活動についても明らかにすることができなかった限界があったことは明確にされる必要があるだろう。

 文学散歩ガイドでは『小樽小林多喜二を歩く』(新日本出版社2003)に続き、作家同盟書記長としての活躍の地をめぐる『ガイドブック 小林多喜二の東京1930~1933』(学習の友社2008) 、生地大館の『小林多喜二生誕の地を歩く』(国賠同盟大館鹿角支部2008)もそろった。

                ※

2008年9月英国・オックスフォード大学で開催の多喜二シンポジウムの記録『多喜二の視点から見た身体・地域・教育』(小樽商科大学出版会・紀伊國屋書店2009)をはじめ、『小林多喜二生誕100年・没後70周年記念シンポジウム記録集』(2004.2 白樺文学館多喜二ライブラリー)、『生誕100年記念小林多喜二国際シンポジウムPart2報告集』(2004.12 同)『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』(東銀座出版社2007)、『小林多喜二と「蟹工船」』( 河出書房新社2008)、『読本・秋田と小林多喜二』(同刊行会2001)などシンポジウム・論集が連続して出版され、多喜二研究の広がりと質の向上が図られた。

他方、半世紀を超えて上映されている山村聰監督版(北星1953)は、一時は発売元を悲嘆させる状況だったが、一変して全国で上映運動がひろがった。ドキュメンタリー映画『時代(とき)を撃て・多喜二』(池田博穂監督 2004)の自主制作、全国上映運動、DVD普及、守分寿男脚本『いのちの記憶―小林多喜二・29年の人生』(ソニーミュージック2008) も芸術祭大賞を受賞して話題となった。

SABU監督松田龍平主演・「蟹工船」(2009.7)の新作映画の製作も話題となり、演劇「早春の賦」の全国公演、俳優座「蟹工船」(09.5)、井上ひさし作「虐殺組曲」(09.10)公演をはじめや、関係の書籍やDVDの販売が目白おしとなった。映像化はNHK『 歴史秘話ヒストリア《“蟹工船”小林多喜二のメッセージ》 2010.2.24』などにも及んだ。

藤生ゴオ作画・島村輝解説『マンガ蟹工船』(東銀座出版社2006)の出版とそのエッセーコンテストの実施、『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか―エッセー作品集』刊行普及などで裾野も急速に広がり、「蟹工船」以外の多喜二文学への関心も高まった。角川文庫『新装改版蟹工船・党生活者』、岩波文庫は『蟹工船,一九二八・三・一五』を小森陽一、『不在地主・防雪林』を島村輝の新鋭研究者の新しい解説を付して復刊させた。荻野富士夫編で、近年その存在が明らかになりながらも多喜二全集未収録だったものを含んだ『小林多喜二の手紙』(岩波文庫)も出版された。

漫画は、さきに紹介した『マンガ蟹工船』が、改定再編して『劇画「蟹工船」小林多喜二の世界』(講談社プラスアルファ文庫2008)となり、『蟹工船―まんがで読破』(イーストプレス2007)、原恵一郎『蟹工船―Bunch Comics Extra』(新潮社 2008)がつづき、原作から離れたイエス小池『劇画蟹工船 覇王の船』 (宝島社文庫 2008)の4種が競っている。

多喜二の作品集はといえば、処女作的初期作品の「老いた体操教師」が発掘されたのを機に、発掘者の曾根博義日本大学教授の解説による『老いた体操教師―瀧子其他』(講談社文芸文庫2007)、祥伝社新書編集部が独断で選んだ『小林多喜二名作集 ―近代日本の貧困』(2008)も初版1万4000部で刊行された。

荻野富士夫『多喜二の時代から見えてくるもの』(新日本出版社 2009)、不破哲三『小林多喜二―時代への挑戦』(新日本出版社 2008)、浜林正夫『「蟹工船」の社会史』(学習の友社2009) なども注目される。21世紀の多喜二像は、まさに百花斉放の広がりだといえる。

*

時代の潮目は変わった。

至文堂の『解釈と鑑賞』の別冊シリーズでも、ようやく、特集『「文学」としての小林多喜二』が刊行された。これは念願の国語教材研究としての研究が一冊にまとめられたことを意味する。

もちろん同書企画実現の背景は、多喜二の生誕100年、没後70周年にあたる2003年をひとつのきっかけとして、「小林多喜二国際シンポジウム」(白樺文学館多喜二ライブラリー主催、2003,2004)開催を受けて、日本ばかりでなく世界の各方面から、小林多喜二の文学と生涯に新たな光が当てられるようになっていたからである。

同書は、「総じて作品論が乏しい」(手塚英孝「小林多喜二研究案内」(『多喜二と百合子』1957)、「総じて…強力な象徴性に引き寄せられた作家論」(副田賢二「小林多喜二 研究動向」『昭和文学研究』第53集 2006)が主だったという多喜二研究を、国語教材、「文学」としてその作品そのものを研究の俎上にあげることを企図したものだった。しかし、それはまだ同意しかねる論もいくつもあり、また批判すべき論もある。とはいえ、その歴史的文脈、政治的背景との関連を否定するものではないが、それとともに特定の政党支持を超えて、今日の「文学」研究の方法論と視点から作品そのものの再評価をすすめたもので、同書は国語教材研究としての小林多喜二の世界を再構築する試みの礎石として読まれる価値のあるものである。

 同書の主要目次を拾ってみると、

【座談会】=今日の時代と小林多喜二(日高昭二/小森陽一/島村輝) 。「多喜二をめぐる時代と人々」=小林多喜二とヒューマニズム(布野栄一) /多喜二と志賀直哉、芥川龍之介―近代文学の流れから捉える(松澤信祐) /他

「多喜二のテクストを読む」=「防雪林」その可能性(綾目広治)/「三・一五事件」をめぐる文学的表象としての「一九二八年三月十五日」(土屋忍)/交錯する「蟹工船」と「上海」をめぐる序説(十重田裕一)/「不在地主」における革命的労農同盟闘争の問題(篠原昌彦) /「工場細胞」 コンテクストとしての一九二九年の小樽(和田博文)/「オルグ」の恋愛と身体(中村三春)/「独房」の落書き(楜沢 健)/母たちのポリフォニー―「母たち」と一九三一年代の短編にみる女性表現(長谷川啓) /多喜二・女性・労働―「安子」と大衆メディア(中川成美)/「転形期の人々」論(宮沢剛)/こぼれ落ちた血のゆくえ―「沼尻村」再読(五味渕典嗣) /「地区の人々」―〈地区〉の若き闘士達へ(山岸郁子) /「党生活者」論序説―「政治」と「文学」の交点(島村輝)/日記(荻野富士夫)/「監獄の窓から見る空は何故青いか」―小林多喜二の獄中書簡(竹内栄美子) 

と、これまで多喜二を論じたことのない若い国文学研究者によって幅広い論が提示された。





【2】国禁の書・多喜二テクスト復元はどこまできたか?


ここで、多喜二のテクストはどのようにして復元されてきたかの歩みをたどっておく。

多喜二のテクストは、その社会的な視野の広がりと深さにその特徴があり、それは当時の日本社会体制が抱えていた矛盾そのものをえぐりだすものでもあった。

 北朔の地を場として誕生したその文学は、”内地植民地文学”として母斑を刻まれ当時、世界で初めて成立した社会主義国・ソ連と国境を境とし、また国策銀行に勤める立ち位置から日本資本主義の暗部を直接に自覚化、可視化される立ち位置にあった多喜二の世界は、世界変革を求めるうねりを受け、その言葉は奴隷の言葉であることを強いられ、伏字・削除がその作品を傷だらけにした。特に多喜二は、日本の革命文学の尖端であることを求めたことでその生命そのものが暴力的に奪われるとともに、その言葉・作品も抹殺の対象であり、国禁であった。

以下に、テクスト復元の歩みをスケッチする。

【戦前・戦中】 

 多喜二が特高によって突然に虐殺されたことに対する抗議の意図を込めて1933年3月15日、多喜二の労農葬が築地小劇場でおこなわれ、この労農葬を記念して4月、評論論文集『日和見主義に対する闘争』(日本プロレタリア文化連盟出版部)が刊行された。

多喜二全集刊行編纂は、多喜二の遺稿「党生活者」の発表の仲介をした作家で文学ジャーナリストでもある貴司山治(きし・やまじ 1899-1973)を中心に没後直後からすすめられ、その刊行を望む声も多く、作家同盟出版部からの『小林多喜二全集 第2巻』(国際書院)が刊行された。しかし、その1巻のみで刊行は中断。「党生活者」はゲラ(中野重治旧蔵、2011年現在市立小樽文学館蔵)を作成しながら出版することができなかった。

1934(昭和9)年に作家同盟が解散し、文化分野の指導をしていた宮本顕治(1908-2007)が検挙されるなどの、幾多の障害があり困難を極めた。

 1935(昭和10)年 貴司山治は、「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ」(「『小林多喜二全集』の歴史」(『小林多喜二全集月報3』 1949/6)、「小林多喜二全集をナウカ社から出すこと旧獵(1934年12月)に話がきまりその編輯についてこの間、中野重治を同道、同社に行って社主の大竹氏と相談し、小説のみ三巻に別けて出すこと、一冊六百五十頁位とし、四六版一円五十銭、初版千部、印税一割、刊行会へ申し込んできてゐる分を二百人とみ、その人たちには一人につき第冊と第二冊を一円二十銭に割引く等の條件をきめてきたので、その編輯をするため、佐野順一郎をよんでおいたら、今朝やってきたので仕事の要領をたのん」だ(1935年1月15日 貴司山治日記)。

ナウカ社を発行所として、小林多喜二全集を第1巻=「蟹工船」他25篇、第3巻 =「不在地主」「工場細胞」「オルグ」「安子」、第3巻 =「×生活者」「地区の人々」「沼尻村」「転形期の人々」「一九二八年三月十五日」の小説。ほかに『小林多喜二書簡集』=田口滝子への紙/蔵原惟人への手紙/志賀直哉への手紙/出京前の手紙/獄中からの手紙/一九三一年の手/一九三二年の手紙/北海道の同志に送る手紙,/ 「年譜」(貴司山治作成 未定稿)、多喜二の小樽時代からの友人・斎藤次郎編として『小林多喜二日記・補遺』を編纂して、合計五冊を刊行。この発行部数は、合計約二万にのぼった。しかし、この全集には評論・論文関係は収めることができず、削除・伏せ字を余儀なくされ不完全なものだった。

1937年、小樽高商同窓の長尾桃郎(本名・野口七之輔)編で、『小林多喜二随筆集』(書物展望社)が出たものの、即時発売禁止の憂き目にあい、その後は公刊されることはできなかった。

また他日の完全版を期して中央公論編集者の協力も得て「党生活者」の完全ゲラ原稿(徳永直旧蔵、2011年現在日本共産党中央委員会蔵)、国際書院版「党生活者」ゲラ(中野重治旧蔵 現市立小樽文学館蔵)を作られたほか、勝本清一郎が「一九二八年三月十五日」原稿を、第一銀行貸金庫に預けるなど、あらゆる努力と工夫が尽くされて守られた。

 その一方、1945 年の東京空襲で小林三吾宅が被災し、多喜二の残した資料を焼失。ナウカ社主・大竹博吉保管の原稿も焼失。同年4月、同盟通信社記者・蒔田栄一は、身の危険を感じ、保管してきた多喜二書簡約100通を焼くなど貴重な資料を喪う結果となった。

【戦後】

 いちはやく日本共産党北海道地方委員会宣伝部編で『小林多喜二著作集』(全3巻 創建社書房 1946年)が出版されたのを皮切りに、多喜二の作品はようやく出版の自由を得た。しかし、発表当時のままの大量の削除・伏字で発表せざるを得なかった。

1947年になって、多喜二の「原稿ノート」13冊が小林家で発見された。この「草稿ノート」(現在、日本共産党中央委員会蔵)に基づいてテクストを校合して復元作業をすすめ、1948年全集編纂委員会(蔵原惟人、宮本顕治、江口渙、壺井繁治、窪川鶴次郎、勝本清一郎、貴司山治、手塚英孝など)『小林多喜二全集 第2巻』(新日本文学会編 日本評論社発売)を刊行。全11巻、伝記、研究、別冊2巻の予定で刊行が期待されたが、第9巻(1949年6月)で中断。1952年8月、富士書房から、日本評論社版を底本とした『小林多喜二全集』(全9巻)を再刊。新たに、日本評論社版と同じ編纂・解題者で完全版の『小林多喜二全集』(文庫判全12巻 青木書店)が、第9巻までは日本評論社版全集の再刊で9巻に「闘争宣言」を新しく収載。10巻に日記・小説補遺、11巻に書簡集。12巻に詩、(小品、小説補遺、評論補遺)の3巻を加えてようやく完結した。その後は1958年『小林多喜二全集』(かすが書房)、世界名作文庫として1959年、文庫判全集の合本『小林多喜二全集』(全5巻 小林多喜二全集編集委員会 青木書店)が刊行された。

この間に、「小林多喜二未発表書簡16通」(『新日本文学』(51年6月号)、神戸市湊川神社内の吉田智朗所有の志賀直哉宛多喜二書簡が岩波書店『文庫』第27号(53年12月号)に初公開された。

多喜二没後45周年を記念の1968年、全集編纂委員会は青木書店版につづく戦後2番目の多喜二全集として『定本小林多喜二全集』(新書判全15巻 解題・注手塚英孝)を1968年1月から刊行した。この全集は、補遺・「龍介と乞食」、8刷までに評論「無鉄砲過ぎる期待だろうか?」、葉山嘉樹、寺田行雄宛計2通を含む書簡5通を追補し(定本版補遺には、酒匂親幸、雨宮庸蔵、志賀直哉宛が追加された)。第15巻を「多喜二研究」として刊行、69年に全15巻を完結した。志賀直哉は、推薦の言葉を寄せた。※『国文学』(関西大学 68年3月) 浦西和彦「葉山喜樹宛小林多喜二島木健作未発表書簡」初公開。『民主文学』(77年2月号) =箭内 登「小林多喜二の未発表書簡と評論について」。

1980年には、解説監修・蔵原惟人/小田切進で、刊行当時の姿を再現した『小林多喜二初版復刻全集・小林多喜二文学館』(ほるぷ社)を、手塚英孝解題、小田切進「伏字・削除復元表」などによる解説編1冊を含めた全16巻として刊行された。

没後50年を前にした1982年には、『小林多喜二全集』(全7巻 新日本出版社)を刊行。定本版刊行以後判明した阿部次郎、楢崎勤、『新潮』編集部、板垣鷹穂宛の4通を含む20点を新収録、校訂・解題は故手塚英孝氏の仕事を引きつぎ、月報に津田孝の全巻通し解説をつけた。※『民主文学』(84/2)=大田努「小林多喜二未発表書簡」。

さらに没後60年を記念して『新装版小林多喜二全集』(新日本出版社1992)を刊行。82年版に補遺としてさらに、「ある病気のお話」、「良き教師―『総合プロレタリア芸術講座』推薦文」、「「文化聯盟」の結成に就て」、石本武明宛書簡6通(※『民主文学』1984年2月号で初公開)など18点の新資料を収録。定本版以降の10年間で判明した評論、小品、書簡9通を含む計38点を含む画期的なものとなった。

その後、20年を経過し、新発掘資料が相次いで発見・発掘されていることから、新編集の多喜二全集が編纂されることが求められている。



つづく

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