「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二の性愛描写について(御影さん)

2009-01-21 00:55:29 | 仲間たちから多喜二への手紙
性愛描写 (御影暢雄)

2009-01-19 17:29:15

 鹿笛例会で出た意見をもう少し紹介すると、多喜二は性愛と率直に向き合う姿勢が多くの作品の中で読み取れるという指摘があり、興味深かったです。複数の同人の方が、「独房」での”物干しに上る若いお嬢さん”や、タキさんをモデルにした、魔窟で働く女性のこと等のことに言及されました。こうした要素も、多喜二の作品に深みを与えているのではとのことでした。私は、志賀直哉の「佐々木の場合」や「暗夜行路」を、数年前初めて読んで、性愛について生なましい記述を読んでびっくりしましたが、この面でも多喜二は志賀作品に大いに鼓舞されたと思います。
 少しニュアンスは違いますが、PROF島村が一昨年大阪多喜二祭で「ラブシーンの達人・小林多喜二」という講演をされましたが、同じ観点ではないかと振り返っています。




性愛描写? (takahashi)

2009-01-19 18:53:54

「性愛描写」という言葉が、ただそれだけで語られることに同意したくない気持ちです。荒俣氏の、エロ、ホラー、SFという切り口にも同意したくはありません。多喜二にとっての「生」は、「性」の問題を無視してはあり得なかったし、またその「生きづらさ」を描くためには、ホラーのような現実を避けることもしなかったと思います。まして「社会主義社会への展望」をSFとしてとらえることは、多喜二の現実との格闘を「夢物語」や「戯画」にしかねないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?




リアリズム  (御影)

2009-01-19 19:48:00

 TAKAHASHI様、ご無沙汰しております。「鹿笛」のことで去年12月頃、メールをおくったのですが?
 荒俣氏のプロレタリア文学に対する捉え方は、私はその本を読んでいないので何とも言えません。多喜二の頃は、まだ文学ジャンルが現代のようにそれぞれ細分化されていなかったこともあり、”ホラー小説だとか、○○小説だ”と今の定義で論ずるのは難がありそうです。
”性愛描写が、多喜二文学の面白さの一要素”は同人の方の感想ですが、多喜二はそれを”売り”にしたということではないと思います。多喜二のリアリズム姿勢の結果というふうに私は理解していますが・・・。




いいですよね (小山)

2009-01-19 20:34:30

 荒俣宏著「プロレタリア文学はものすごい」(平凡社新書)を発売されてすぐに読みましたが、いまでは何処にしまったかさえ記憶にありません。
 たしか、小林多喜二の小説に注目した論のほんの一部(記憶ではほんの一面だけ)は読み取れましたが、あとは嫌になった記憶があります。
 この手の論は、自分の目でたしかめてから発言するほうがいいと思います。

 多喜二が当時の「エロス」「モダン」などについて、どう受け止め、どう小説に活かしたかは、島村先生がたしかに大阪多喜二祭で講演されましたが、御影さんの理解とはずいぶん違うと私は思います。

 でも、こういう議論もたまにはいいかも知れないと思います。「思い込み」をそのままにしたり、当たり障りのない議論で済ますよりも、前向きに考えるのであれば、こうした議論を繰り返すことでみんなが勉強すればいいなぁと思います。

 そのためには、御影さんも人の言ったことや、人から聞いたことを、そのまま伝えるのではなく、原著にあたってから発言することも重要だと思います。
 私も人のことはいえませんけどね(笑)。

 いよいよ、このブログの意義が出てきたと、私は思います。
 御影さん、どんどんコメントして、どんどん勉強しましょう。私も頑張ります。




多喜二だけではないような (ねこぱんだ)

2009-01-20 00:25:29

「性愛」のことですが、徳永直の作品にも、『太陽のない街』では、主人公の妹は同じ争議仲間の子を宿しているという場面だとか、争議団の中に「体を売っている」女性がいて、その人に対してどう対応するかを議論する場面とかがあります。
当時のプロレタリア文学運動にとって、決して避けられてはいなかった話題ではないでしょうか。



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みなさんコメントありがとうございます。
多喜二の性描写は「蟹工船」のレイプシーンなどたしかにある。「避けては」いません。
「避ける、避けない」という意識は多喜二にはないと思っています。

しかし、「性愛描写」となると、多喜二は「避けていない」ともいえないと思います。多喜二は性愛の場を描いてはいますが、セックスシーンや、性器を描いてはいません。


読者はどう読もうと自由ではあるけれど、作者の意図にはセックスシーンを興味をもって描くということをしていません。

私が多喜二の作品のなかで最も好きなのは、「転形期の人々」の「断稿」です。これは、「改造」に遺稿として掲載されたものです。機会がきたら紹介したいと思います。

多喜二と「性」の問題は時間をかけて論議していきたい問題です。




             






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