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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

1932年夏―反帝同盟、霧社事件、百合子「刻々」

2008-12-14 10:52:52 | 多喜二のあゆみー東京在
1932年7月8日、日本反帝同盟の中央執行委員会が開催され、4月の文化分野への大弾圧以来、地下活動を余儀なくされていた小林多喜二が文化連盟から派遣された執行委員として加わった。

同執行委員会で検討された課題は、以下の

①八・一国際反戦デーの準備と宣言の発表、

②ゼネヴァ反戦大会への代表派遣とともに、

③日本帝国主義の満洲侵略に反対する諸活動に取り組む

という3項だった。



この時期の多喜二について手塚英孝『小林多喜二』の年譜は、「七月、麻布区新網町にうつる。日本反帝同盟の執行委員になる」と記している。

これは、『定本小林多喜二全集』第15巻の年譜での「八月」を訂正してのことであろう。

手塚は反帝同盟とは何を目的にした団体であり、多喜二の作品世界と具体的にはどのような関係にあるかは、解明しなかった。

多喜二の反戦活動の展望とその主体的な関わりをとらえるには、多喜二の反帝同盟での活動を明することが重要な意味をもつのである。



 このころの多喜二の反帝同盟での活動について、日本反帝同盟委員長・谷川巌は『アカハタ』(63年2月19日付)の特集に寄せた小文で、「(32年から33年にかけて)日本反帝同盟のしごとをしていたわたしは、加盟団体の一つであった文化連盟選出の反帝同盟執行委員であり、同時に共産党グループであったある同志(小林多喜二のこと―引用者)と、かなりながいあいだ、いっしょに会合に参加したり、毎週定期的に街頭での連絡をとりながら、当時中心的な課題であった上海でひらかれる極東反戦会議の運動に熱中していた」(「不屈の反戦反帝の戦士」33年3月4日付『赤旗』)というほど多喜二が意欲的に活動していたことを証言している。



その一文の冒頭で

 「熱河では、すでに、日本の帝国主義の侵略行動が拡大し、爆撃機と毒ガスに幾十万の日本、朝鮮、台湾、中国の勤労大衆が殺りくされている時、去る二月二十日日本プロレタリア文化運動の輝ける指導者、ボルシェビィキ作家、同志小林多喜二は鬼畜に等しい天皇制テロルによって虐殺された。」「同志小林を虐殺した天皇制帝国主義は、戦争遂行のため日本の勤労大衆を飢餓と失業と政治的無権利につきおとし、朝鮮、台湾を惨忍比類ない抑圧下におき、土地と文化と自由を踏みにじり、最近にも五・三○間島事件の同志十二名を虐殺し、台湾霧社蕃事件の同志三十六名をことごとく虐使と自由はく奪と野蛮な台湾のろう獄の設備によって餓死せしめた。同志小林は死をもって組織を防衛したすぐれた共産党員、ボルシェビィキ作家であったとともに、わが日本反帝同盟の加盟団体である文化連盟の反帝執行委員として、かれの全生活と全作品を一貫して、朝鮮、台湾の完全な独立、中国分割反対、中国ソビエト支持、ソビエト同盟擁護のために身をもって闘争した反帝戦士であった」



と多喜二が「文化連盟選出の反帝執行委員」を務めたことを明らかにし、その具体的活動として「逮捕された直前まで、きたるべき上海反戦大会の積極的支持者として、上海大会支持の大衆的運動のため東奔西走していた」ことを述べていることは貴重な証言だと思う。



ここで谷川が「台湾霧社蕃事件の同志三六名をことごとく虐使と自由はく奪と野蛮な台湾のろう獄の設備によって餓死せしめた」と指摘している「台湾・霧社事件」は、日本軍が他国民に対してガス兵器を実戦使用した事件として知られ、「党生活者」の世界との関係性も重要である。



陸軍はすでに27年に瀬戸内海の西方、広島・忠海町の大久野島に「東京第二陸軍造兵廠忠海製作所」の看板を掲げる日本最大の毒ガス生産基地を建設するなど、毒ガスの研究に本格的に取り組んでいた。そして30年に日本帝国主義支配下の台湾で少数民族高砂族が反乱に立ち上がると、その鎮圧に有毒ガス兵器を使用したのである。



この「霧社事件」のころ、多喜二は共産党への資金提供の罪で多摩刑務所に投獄されていたので、リアルタイムでこの事件報道には接することはできなかったが、出獄後すぐに知ることになっただろうと思われる。

なぜなら、多喜二の「東倶知安行」掲載の『改造』誌巻頭に霧社事件関連の記事が掲載されているからである(『改造』31年3月号に、川上丈太郎と河野密の対談「霧社事件の真相を語る」が掲載されている)。



自分の作品が掲載された雑誌を読まないはずはない。そして、多喜二は非合法生活に追い込まれて数ヶ月後には、この日本帝国主義の支配からの解放を進める日本反帝同盟の執行委員の大任を負う執行委員となるわけであるから当然この抗日蜂起事件は知るところとなったはずである。



(※同反帝同盟は、第1回全国大会を31年11月初旬に開催。加盟団体は全国農民組合、日本労働組合全国協議会などで、メンバーは在日朝鮮人および中国の留学生・台湾出身の中国人も重要な構成部分として含んでいた。そもそも「日本反帝同盟」は、はじめ「対支干渉同盟」から出発した日本の反帝反戦運動が、29年8月のドイツ・フランクフルトでの「国際反帝大会」を契機として結成されもので、反帝国主義・民族独立支持同盟に正式に加盟した組織である。) 


ちなみに同じ時期、作家同盟に所属した日本共産党員の宮本百合子(当時中條姓)の「刻々」にも、この「霧社事件」についての記述がある。この記述は度々引用される個所ではあるが未だ、「霧社事件」との関連では論議されてきたことがないだけに重要な事項であるだろう。

 それは

 ―帝国主義文明というものの野蛮さ、欺瞞、抑圧がかくもまざまざとした絵で自分を打ったことはない。自分は覚えず心にインド!印度だ、と叫んだ。インドでも、裸で裸足の人民の上に、やはり飛行機がとんでいる。人民の無権利の上に、こうやって飛行機だけはとんでいるのだ。革命的な労働者、農民、朝鮮、台湾人にとって、飛行機は何をやったか?(台湾霧社の土人は飛行機から陸軍最新製造の爆弾と毒ガスを撒かれて殺戮された。(傍線引用者)猶も高く低く爆音の尾を引っぱって飛んでいるわれわれのものでない飛行機―。



とあり、百合子は明確に毒ガス戦の視角から「霧社事件」をとらえているのである。

小林多喜二も当然、これらの把握の上に立って、この時期の小説「党生活者」をはじめとした創作や、評論に自らを鼓舞し、取り組んだことだったろう。

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