「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

井上ひさし「一週間」と二人の"スパイM" 1-2

2018-05-04 01:05:53 | 多喜二のあゆみー東京在

1.井上ひさし「一週間」が描くもの

 

 井上ひさし「一週間」の主人公小松は、東北の農村出身で、一九三〇年代に苦学して東京外語大と京大を卒業エリートコースをあゆむものの、『貧乏物語』の河上肇に深く影響を受けて、共産党の地下運動に加わって、党機関紙『赤旗(せっき)』配布活動に関係。スパイMが党組織を潰滅させた後に入獄・転向する。そうした若者にわずかに開かれていた新天地中国・満洲に渡り、そこに作られた映画会社の巡回映写班員として、北満洲一帯を巡る。その短かからぬ日々を過ごしたものの、守備隊に動員されて敗戦をむかえ、やむなくシベリアで収容所生活を送ることとなる。
 その一方でかれには、奇怪な任務をやりとげて満洲に逃れたとされる「M」の行方をつきとめて、報復したい執念を燃やす。そしてシベリア・ハバロフスクの日本新聞社に配置されたことで、満州皇帝溥儀(ふぎ)の秘書となっていた武蔵太郎=スパイ「M」らしき人物とつきとめる、そしてその「M」と対決する一場ともなっている。

 主人公を一般の兵士ではなく、戦前日本共産党の地下活動に従事しスパイ「M」と行動したことがあることで逮捕され、のちに転向した共産党員と設定。修吉を、満州→シベリア抑留地においても、スパイMの追跡者と位置づけて、執念に満ちた追跡行動を具体的に描いている。

 同作は生前、『小説新潮』で二〇〇〇年二月号から始まり、半年から一 年半の大きな中断を三度はさんで、二〇〇六年四月号で完結したものを、没後一冊にまとめたもので、大江健三郎は [井上ひさし『一週間』刊行記念] 小説家井上ひさし最後の傑作」『波』(2010年7月号)で、「私は文字通り寝食を忘れて読みふけり、その、井上さんの演劇活動最盛期にわずかな休載があっただけだという長篇小説が、『吉里吉里人』と堂どうと対峙する、作家晩年の傑作である」と評価する。

 同作の発表後、大きな反響を呼んだが、そこで注目されたのは、井上がそこに持ち込んだ大きな仕掛けが、修吉を、日本人捕虜の再教育のために極東赤軍総司令部が作った日本語の新聞社で働かせた過程である。

 捕虜となった日本兵たちの生活の極度の悲惨が、ハーグ陸戦法規の俘虜条項に赤軍も日本軍も無知であったことによること、収容所でもそのまま踏襲されている旧軍幹部の秩序がそれを拡大させていると気付かさせます。さらに小松が日捕虜向けに出している「日本新聞」の編集局に配属させることで、レーニンが実はユダヤ人とドイツ人の混血であり、また少数民族のカルムイクの出身であるという、ずっと隠されてきた事実をレーニン自身が友人に書き送った手紙を手に入れさせます。小松修吉にこれを使わさせてロシア赤軍将校たちとの争闘させている。

 

2.共産党の活動資金とは

一九二九年(昭和四)年八月ごろから党技術部金策係責任者・曽木克彦の手により、蔵原惟人を通じ、ナップ(作家同盟)内に資金網がひろげられ、戦旗社、戦旗社読者会からも昭和五年一月頃から資金の提供がはかられた。この資金網の一端に多喜二はいたのである。この資金網が摘発され、多喜二は罪に問われた。

「プロレタリア文化運動に就いて」(同前)には

――「昭和六(1931)年頃は、手塚英孝に於いて作家同盟員より約百円位集金したにとどまったが、同年夏には資金集金の責任者として西沢隆二が選ばれたが、同年十一月頃より、党中央委員会特別資金局員 伊達こと近藤勤が文化団体の責任者となり、プロットは 中村栄治こと今村重雄、作家同盟は小林多喜二が責任者となり資金の獲得に努めた」との情報がある。 多喜二の「我々の芸術は……」(色紙)と時を同じくしての、多喜二の資金集めの情報がピッタリ重なる。多喜二入党直後の文化分野党員の「党生活」は、資金活動中心だったことがうかがえる。

こうした、自主的な資金活動の他方、一九三一年三月、党中央委員・紺野与次郎が上海のコミンテルン極東ビューローに運びモスクワに届けた報告書が残されている。

当時の党員東京四四名等々の詳細な党勢報告と、モスクワのコミンテルン本部への中央委員手当一人百円総計月二千円の活動資金請求などが、率直に述べられていた。それで、スパイM=松村が実質的に動かしていた中央委員会の活動は詳細にわかる。


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