「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二年譜1934-1935

2008-12-14 00:07:59 | 多喜二のあゆみー歿後

1934(昭和9)年
2月19日 共産党中央委員野呂栄太郎が品川署の留置場で拷問され殺される。
日本プロレタリア作家同盟解散声明。
5月 村山知義「白夜」、本庄睦男「白い壁」、窪川稲子「恐怖」、川端康成「文学的自叙伝」

芥川賞・直木賞設定。

『新潮』編集者・楢崎勤宛1929年11月4日付書簡(『文芸通信』 10月号 初出)

1935(昭和10)年

転向文学流行。中村光夫「転向作家論」

志賀直哉は貴司山治のインタビューに答え多喜二の文学と人間を語る(「志賀直哉氏の文学縦横談」)「多喜二君の作品」を収録。

1935年1月15日、貴司山治は中野重治とナウカ社に出向き、大竹社主と面談。多喜二全集を小説のみ3巻で出すこと。一冊650ページ程度。4/6版 1円50銭、初版1000部、印税1割。刊行会への申し込み200名、一人につき第1冊と第2冊を1円20銭に割り引くことなどを決め、その編集に佐野順一郎を当たらせる。(以上 貴司山治日記より)



・3月『小林多喜二全集』(第1巻 ナウカ社) =第1巻 蟹工船 他25篇

4月宮本百合子「乳房」5月中野重治「村の家」7月25日 モスクワで第7回コミンテルン大会開催。人民戦線を戦術に採択

・5月『小林多喜二全集』(第2巻 ナウカ社)=不在地主、工場細胞、オルグ、安子
・6月『小林多喜二全集』(第3巻 ナウカ社) =×生活者、地区の人々、沼尻村、転形期の人々、一九二八年三月十五日」

「党生活者」は、『中央公論』の校正刷りを底本として、伏字を復元した完全な校正刷りを数部つくり、別々の場所に分けて保存した。その一部は中野重治にわたり、現在小樽文学館に保存されている。4部作成された『中央公論』の校正刷りの1部は徳永家蔵。

・8月『小林多喜二書簡集』(ナウカ社 35年)=付録・年譜
※貴司山治の回想「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ、ナウカ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さんして、合計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(1949/6)

モスクワに滞在中の土方与志、佐野碩編集の日本語版『一九二八年三月十五日』『蟹工船』『戦い』『飴玉闘争』『壁に貼られた写真』『沼尻村』がモスクワ外国労働者出版所で出版された。

『社会評論』(ナウカ社3月)創刊号に、「ある役割」再録。

多喜二とともに捕らえられ拷問を受け左足に重い障害を負っていた今村恒夫はさらに肺・腎臓・膀胱結核を併発、病状悪化により1935年執行停止で出獄。一時、中野重治宅に身を寄せていたが、本田延三郎に付き添われて、郷里、熊本・千手村に帰郷。1936年12月9日死去。26歳。


宮本百合子『冬を越す蕾』


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