「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二年譜1936-1945

2008-12-14 00:12:53 | 多喜二のあゆみー歿後
1936 (昭和11) 年
斎藤次郎編『小林多喜二日記補遺』(ナウカ社4月) ※日記は、個人的部分がかなり省略されている。「人を殺す犬」を全集補遺として収載。

★文芸懇話会(松本学主宰) 物故文学者慰霊祭で多喜二を排除する。

2月 北条民雄「いのちの初夜」

『人民文庫』創刊 
2月26日 皇道派青年将校が挙兵し、斉藤実内大臣、高橋是蔵相らを殺害(2.26事件)東京で戒厳令布告

・『文学案内』(36年2月)中野重治「『党生活者』の中から」

志賀直哉の創作集『萬暦赤繪』に「小林多喜二への手紙」を収録。

・『小林多喜二日記』(ナウカ社 36年)= 日記1926年-1928年初. 小林多喜二書簡集(補遺) 斎藤次郎への手紙、雨宮庸蔵への手紙、佐藤績への手紙、 小説「人を殺す犬」

・『文学評論』(36/4) 手塚の手紙が窪川によって公表される。

「小林多喜二日記」(『中央公論』3月号)
『小林多喜二日記』(ナウカ社)

・5月 普及版『小林多喜二全集』(第3巻 ナウカ社) =×生活者、地区の人々、沼尻村、転形期の人々、一九二八年三月十五日」


1937(昭和12)年
7月7日 蘆溝橋事件から 日中全面戦争突入

4月 志賀直哉「暗夜行路(終章)」


8月 伊藤整「幽鬼の街」

年末、中野重治、宮本百合子、戸坂潤らは内務省から執筆禁止処分受ける。

9月25日 『蟹工船・不在地主』(新潮文庫)30版。

1938(昭和13) 年
月3日 岡田嘉子、杉本良吉とソ連へ亡命

3月石川達三「生きている兵隊」(「中央公論」発禁)

『小林多喜二短編集』(蟹工船、工場細胞、オルグ、沼尻村)国立芸術文学出版所
(レニングラード 38年)

・長尾桃郎編『小林多喜二随想集』(書物展望社 38年)

8月 火野葦平「麦と兵隊」4月、国家総動員法。

文士の従軍さかん1939(昭和14)年7月、国民徴用令。

※11月29日「唯研事件」(「唯物論研究会関係者治安維持法違反被告事件」)。29日早朝、雑誌『唯物論研究』改め『学芸』にかかわる主要メンバーが一斉検挙されたことに始まる弾圧。このときとその前後に検挙されたのは、岡邦雄、戸坂潤、永田広志、森宏一(本名、杉原圭三)、伊藤至郎、伊豆公夫(赤羽寿)、武田武志(沼田秀郷)、服部之総、信夫清三郎、古在由重ら30余人、映画「母べえ」のモデルとなった新島繁(野上巌)もその一人。「唯研事件」は、40年1月の第2次一斉検挙(本多修郎、今野武雄、岩崎昶ら12人)、さらに2、3千部発行されていた雑誌の購読者にまで数年にわたって追及がつづき、検挙者は総数100人余ともいわれ、完全にはつかまれていない。唯物論研究会は、30年代のはじめに科学的社会主義にもとづく文化運動がはげしく弾圧・解体されていったとき、唯物論の学問的研究のための幅広い研究団体をめざし32年10月に結成された。発起人には長谷川如是閑、三枝博音、羽仁五郎、舩山信一、大塚金之助、住谷悦治ら40人が名を連ねた。月刊誌『唯物論研究』を発行、『唯物論全書』を出版、研究・講演会をひらくなどしたが、弾圧が必至となった38年2月、会の解散を決議、雑誌名を『学芸』に変えた。37年7月、日中全面戦争に突入する段階になると、リベラル派、左翼運動の生き残り部分など文字どおりいっさいの進歩的な言論と運動の圧殺をはかる。事件はこういう状況下でつくりあげられた。裁判では「…日本共産党ノ目的達成ニ寄与…支援スルコトヲ目的トスル唯物論研究会ナル結社ヲ組織シ」(控訴審判決)とこじつけ、44年4月、戸坂、岡に懲役3年、永田に同2年半、森、新島、伊豆、伊藤に同2年の刑が確定した。戸坂は45年8月9日、長野刑務所で、栄養失調で疥癬をやみ腎臓を悪化させ獄死。永田、伊藤も獄中の虐待がもとで戦後間もなく死にました。この事件とは別に三木清は45年、治安維持法違反の被疑者高倉テルをかくまったとして、豊多摩刑務所に収監され、終戦一カ月後9月26日、戸坂と同じく疥癬と腎臓悪化で獄死した。

1939(昭和14)年
新潮文庫の『蟹工船・不在地主』45版がでている。しかし伏せ字が多く意味がとりづらいところがたくさん。
「毎年の例、漁期が終りさうになると、蟹罐詰の『×××』を作ることになってゐた。何時でも、別に××××××××」わけでもなかつた。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思つて来た。―××、××××××××××××。『×××××××××××××××××作るものだ。フン、×××××こつたろ。』


1940(昭和15)年紀元2600年行事盛ん。
内務省図書課・警視庁検閲課による出版統制強化。5月 文藝家協会主催の文藝銃後運動の講演会始まる。

1941(昭和16) 年
太平洋戦争始まる。1月8日 東条英機陸相が「戦陣訓」通達

6月 弟・三吾と浩子結婚。浩子の兄は小樽高商の多喜二の後輩。

12月8日 日本軍の真珠湾奇襲・マレー半島上陸、太平洋戦争始まる。


1943(昭和18)年
『金沙』小林多喜二没後10周年記念特集 鹿地亘「死の日の記録」掲載。
「欲しがりません勝つまでは」のスローガンが流行。4月18日 アメリカ軍が東京を初空襲 5月文学報国会結成。シンガポール陥落。

1944(昭和19)年
横浜事件(『中央公論』『改造』などの編集者逮捕)。戦時下の特別高等警察(特高)が引き起こした大規模な言論弾圧事件。評論家の細川嘉六氏(戦後、日本共産党参院議員)が雑誌『改造』1942年8月・9月号に執筆した論文が共産主義の宣伝にあたるなどとして、特高が同氏を検挙。同氏が富山県で開いた宴会を「共産党の再建準備」などとでっち上げ、出席した研究者や編集者約60人が治安維持法違反容疑で逮捕されました。このうち拷問などで4人が死亡、30数人が起訴され、終戦後の45年9月ごろにかけて有罪判決を受けた。

10月25日 神風特攻隊編成。南京で第3回大東亜文学者大会。

※『現地調査書』(昭和19年度)と印刷された報告書。発行は日魯漁業>内容は操業報告とは無関係のカムチャツカとその近海の現状報告。海岸や陸地の状況のほか、兵力配置・防備施設・軍の内情・ソビエト軍艦艇の行動などが、詳細をきわめた統計表や地形図とともに記されている。「帝国哨戒艦(駆潜艇)ソ領海内ニ入リ沈没セル邦船神明丸付近ニ至リ再ビ公海ニ出タルヲ隊長発見シ之ニ追跡セントセルガ当方ノ妨害ニ遇ヒ追跡ヲ断念」 という記述や、ソビエト側の 「日本護送船(七〇噸級)ソ連領海一・八浬ニ侵入約一〇分間領海内ニアリ、該船ハ機銃二門ヲ装ス。本日海上静穏視界三〇浬」といった記録。『蟹工船』(小林多喜二)の記述「この辺の海、北樺太、千島の付近まで詳細に測量したり気候を調べたりする」のが日本の「大目的」なのだを実証。



1945 (昭和20) 年
4月、同盟通信社記者・蒔田栄一が保管してきた多喜二書簡約100通を焼く。
5月東京の小林三吾宅が空襲で被災。多喜二の残した資料を焼失。大竹博吉保管原稿も焼失。


※8/15 大日本帝国政府、連合軍に無条件降伏。文学報国会解散 10/15 治安維持法撤廃

・『朝日新聞』(45/10/16)江口渙「多喜二は虐殺された」

12月 宮本百合子「歌声よおこれ」、

新日本文学会結成

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