マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

ローマ書のアウトライン

2006-09-08 22:26:42 | 神学校・講座
明日の新約通論の講義で、ローマ書のアウトラインの提出。
今日は午後からその宿題のために牧師室で勉強していた。

前から感じていたが、自分で通読してアウトラインをまとめるのは非常に勉強になる。
註解書や聖書辞典にもアウトラインはあるけれど、自分でやってみることに意味があると思う。
改めて内容や前後のつながりも考えるので、意外に時間もかかるし、頭を悩ませることもある。
それで、自分なりに頭の中で整理もできるからいい。

今回のローマ書も良かった。
福音の理解についての整理や実際的な生活への適用も概観できた。
このアウトラインに沿って、あとはもう少し細かい解説が必要だろう。

これを利用して洗礼準備の学びをしても良いとなぁとふと思いついた。
ちょうど洗礼を希望しているI君やこの前洗礼を受けたAちゃんとEちゃんと学びをしていけると良いと思っていたところだったので。
明日の午後に早速準備し始めよう。

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瞑想

2006-09-08 13:37:58 | 最近の読書
「成長への道」 第2章 瞑想の訓練

読んでいて、目に留まった箇所をいくつか記録しておきたい。

「真の瞑想は心理学的トリックではない。神学的恵みである。」
                      トマス・マートン (P27)

「キリスト教の瞑想の見解が東洋の諸宗教における瞑想の概念と同義ではないかと感じる人がある。現実には両者は全くの別世界である。禅的な瞑想は精神を空にする試みである。キリスト教の瞑想は精神を満たすために空にする試みである。両者の見解は根本的に異なっている。」(P30)

「神を待つことは怠けることではない。熟達していない人がなす他の仕事すべてをしのぐ仕事なのである。」     聖ベルナルドゥス  (P31)

「瞑想はしばしば、きわめて実際的で、ありふれた日常についての洞察を生み出すものである。あなたが妻に、あるいは夫にどう接するべきか、この繊細な問題、あの仕事上の状況にどのように対処すべきかという導きを瞑想がもたらすのである。」     (P32)

「瞑想とは、愛する神と、神に愛されている者たちとの間の、一つのコミュニケーションである。」(P33)         

                   

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神の子どもとされる特権

2006-09-08 13:20:29 | 聖書通読
ヨハネ1:12,13
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

ちょうど今週は、ひとりの男の子の誕生で世間が賑わっている。
悲しいニュースの多い中、心がホッとするような知らせである。

さて、ちょうど聖書の通読箇所で、このよく知られた箇所を読むことになった。
今まで何度となく読んできたところであるが、あらためて神の子どもとされるということの大事さを心に留めた。

私たちが、この方と呼ばれているイエス様を受け入れ、信じるときに、私たちには大きな変化が生まれる。
それは外見上の事ではなく、立場、身分という点においてのことである。
もう少し説明を加えれば、神様の目から見た立場、身分のことだ。
イエス様を信じるとき、私たちは神の子どもとされると聖書は明言している。
しかも言うまでもなく、神の子どもとされることは特権である。

今週生まれたひとりの男の子も皇族に生まれたということで、注目され、その誕生が世界中に知らされている。
そして、多くの人がその誕生を祝い、喜んでいる。
その子自身は、特に何か大きな功績をあげたので皇族に生まれたというわけではないし、当然本人の意志で選んで生まれてきたわけでもない。
しかし、彼は皇族の一人として迎え入れられ、多くの人々の愛情と尊敬を受けて育っていくだろう。

それはちょうど神の子どもにも当てはまることだと言える。
私に関して言えば、神の子どもとされるような根拠となることは何もあげられない。
ただイエス様を信じ受け入れただけのことである。
聖書は、その信じたことでさえ、単なる私の意欲の結果ではないと教えている。
徹底して、神様の選びと恵みであるということだ。
それを思うと、神の子ども、クリスチャンであることは本当に「特権」だと思い知らされる。
「ひとりの人が悔い改めるなら、天に大きな喜びがある。」というのもうなづける。
神の子どもがひとり生まれるごとに、地上の人々の喜びに優る大きな喜びが天にはある。
神の子どもとされていることはすばらしい!

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