マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

何処に?

2011-04-30 21:02:53 | 聖書通読
最近、個人的な聖書通読(新約)の箇所が、コリント人への手紙第一に入りました。

「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(2:3-5)

宣教の使命と実際に現場で取り組む課題とを思うと、自らの弱さと無力を覚えます。
ですが、神は私の弱さや無力さを通して働きを進められます。

決して雄弁にとは行きませんが、実直に福音を語り続けたいと思います。
集う方々の信仰が、神の力にうちにあることを信じつつ、明日も礼拝と奉仕に臨みます。




教会の玄関先に咲いているエリゲロンです。

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初回

2011-04-29 22:21:03 | 神学校・講座
昨日は牧会塾の初回でした。
牧会塾自体今回が初めての参加ですので、多少緊張も。
ですが、講師F先生やディレクターMさんの軽快なトークで和みました。

昼食を挟んで、前後で計5時間の講座ですが、あっという間でした。
交互色彩分割法とコラージュも体験。
楽しみながら、「相互作用性」と「多義性」の勉強になりました。
次回も楽しみにしています。

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準備中

2011-04-27 23:14:39 | ちょっと息抜き
夕方にベストライフのM先生を訪問しました。
お届けものをして、しばらくお話。
そして、聖書の朗読と祈りの時間を持ちました。

帰りは、ちょっと寄り道して北山公園へ。





ただいま菖蒲は養生中。
今年も、たくさんの菖蒲が、訪れる人々の心を和ませてくれることでしょう。

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解体

2011-04-27 22:46:48 | 教会の風景
教会の裏手にあるプレハブ。
かつては、ここで前牧師夫人が書道教室を開いていました。
私たち夫婦が赴任した当初には、ここで何度か集会を開いたりもしました。

ですが、老朽化が進み、使用をやめていました。

屋根の腐食もあり、安全性が心配という事で、ついに解体決定。
昨日、業者さんとの契約と打合せが済みました。
来月には解体です。

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いのちの重み

2011-04-26 15:28:23 | 教会の風景
昨年、ときどき記事にしていたパンダスミレです。
虫に食べられてほとんど葉のない状態から再生。

その後、冬場の中盤まで、それまでのように葉をつけていましたが・・・
一時、葉がほとんど枯れてしまいました。
そこから暖かくなるにつれて再び芽吹いてきて、最近花がつき始めました。
かなりタフです。




さて、月報5月号に掲載した、4月の礼拝説教のあらすじです。
旧約聖書の講解は、レビ記を続けています。

 レビ記6:8以降の規定の中には、祭壇でささげものとなるものの一部を『祭司の分け前、最も聖なるもの』と言及している(6:17,18,25,26;7:6-10,31-36)。神は、祭司の幕屋での奉仕と同時に報酬もお定めになった。ただし、結果的にその部分が祭司職への報酬になるとはいえ、そもそも民から神へのささげものであり、神から祭司たちに賜るものである。それで、幕屋の奉仕において軽率に扱うことを避け、律法の規定どおりに扱うことが祭司には期待されている。新約聖書では、律法と主イエスの教えから、福音のために奉仕する者が働きから報酬を受けることを教えている(コリント9:13,14)。神の教会が真理に留まり、福音宣教に励むために、すべての信者がこの原則を理解しておく必要があるだろう。
 
 レビ記7:22-27には、イスラエル全体に対しての禁止事項が定められている。それは動物の脂肪と血を食べることの禁止である。脂肪は、犠牲の動物の部位で最上のものと考えられた。それゆえ、最上のものは神に、ということである。また、犠牲の血は、レビ記17:11によると罪を贖うものとされている。本来、神の御前に人の罪は重大であり、それが贖われるためにはいのちが要求されるのである。それゆえ、いのちを贖う動物の血を口にしないのである。しかし、律法の規定に込められた神の意図とは裏腹に、その後のイスラエルの歴史では、たびたび本来の意味が見失われ、形骸化してしまった(サムエル5:22/イザヤ1:10-17)。私たちの『大切にするもの』は、神に聴き従うという礼拝と献身であり、私たちを罪から全く贖うキリストの十字架の御業である。神の御前で、律法の犠牲にはるかに優る、キリストの贖いに拠り頼む者でありたい(ヘブル9:13,14)。

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