マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

「捨てられた」が「選ばれた」という存在

2016-07-18 17:16:31 | 教会の風景
昨日も静かな朝を過ごし、集まった方々と共に主を礼拝しました。



これは、礼拝のための会場準備を終え、みなさんを迎える前に撮った写真です。







「隠れた名店」のような教会になれるといいのですが...(牧師のひとり言)



それはさておきまして、聖書はキリストとキリストを信じる者たちのことをこのように表現しています。

ペテロの手紙第一 2章4,5a節
「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」


主、キリストを「人には捨てられた」としながらも、「神の目には、選ばれた…」としています。
事実、主であるイエスは、当時のユダヤ人の指導者たちからは拒絶され、ローマの権限の下で十字架刑に処せられました。
キリストは見捨てられたあげく、苛酷な最期を遂げました。

しかし、イエスの死は私たちの贖いのためであって、神が計画しておられたことの成就でした。
私たちはだれでも、このキリストの死のおかげで救われて、神のくださる真のいのちに生きることができます。

さらに驚くべきことに、聖書はキリストのことを「生ける石」と呼んだだけでなく、「あなたがたも生ける石として」と言っています。
そして、信仰を同じくする者たちの共同体(つまり教会)に加わり、連なっていく、あるいは留まっているようにと招いています。

人には捨てられたけれども神には選ばれている、というアイデンティティをキリストに認めて、なおかつ自分自身の信仰者としてあり方にも重ねて信仰と交わりに身を置くことができれば幸いです。

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お見送り

2016-07-16 13:30:36 | 神学校・講座
今年もキャラバン(伝道実習)の時期を迎えています。
昨日までに、各地の教会に派遣される4チーム13名を見送りました。
私は昨年までで2回参加しましたので、今年は見送る側です。


この4チームのメンバーは、今年度のキャラバンのテーマを「神からゆだねられた務めに従って、キリストのからだに仕える」として準備を重ねてきました。

コロサイ人への手紙1章24,25節
「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。」



主がメンバーひとりひとりを支え用いてくださるとともに、良き訓練と学びの機会となりますように。
9月の報告チャペルも楽しみです。


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奥多摩にて

2016-07-13 21:11:23 | 神学校・講座
聖書宣教会主催の今年の夏期研修講座が終わりました。
「聖書信仰」をテーマに三日間、ボリュームのある学びになりました。

使っている言葉は「聖書信仰」でも、その中身、その意味するところが変質しつつあることに危機感を覚えます。
いまだ浅学ながら、神学の分野の流行に流されずに、自分の立つところを見失わないようにしたいと願っています。

講座の内容が充実していたことに加えて、普段はなかなか会えない先輩や友人たちとも顔を合わせることができて、懐かしく楽しい時ともなりました。

神学生仲間で、川原に行って食事をとる機会もありました。


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たゆまぬ努力

2016-07-08 14:41:47 | 教会の風景
今週の祈祷会は、聖書通読がユダの手紙でした。
この手紙の冒頭では、ユダが執筆の事情を明らかにしています。

新約聖書 ユダの手紙より

3
愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
4
というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。


3節に含まれる、「信仰のために戦う」という表現には、何だかおっかないなぁ〜という印象を受けるかもしれません。
ですが、この場合の「戦う」は、「たゆまぬ努力」を指すものです。
この手紙の執筆当時、すでに体系化されつつあった主イエスとその使徒たちの教えを正しく理解し、教え、実践していくことへの「たゆまぬ努力」のことを言っています。

当時の教会にも、本来の聖書の教えに反するような解釈をする人々がいたようです。
その人々が「神の恵みを放縦に変えて」しまうということですから、単なる机上の問題ではありません。
教えの脱線が品性や行動にも現れてくるということです。
そういうわけで、見せかけはともかく、実質的には聖書から外れてしまっている人々の出現に危機感を抱いて、ユダはこの手紙を書いたということです。

聖書を丁寧に読んで思索すること、神学することを疎かにした「信仰」の危うさを思います。
みことばをじっくり味わい、思い巡らしましょう。


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育まれる

2016-07-05 15:02:23 | 教会の風景
私たちの教会は、「疲れた人、重荷を負った人が休み憩う教会」とされることを願っています。
歩調はゆるやかですし、大きな事業を展開するような群れではありませんが...
主のみことばに養われて、各々が遣わされた生活の場で神の恵みを指し示す存在でありたいです。





教会の一角に飾ってある『母子像』です。
柚月芳氏の作品と聞いています。
私は、平和、保護、平安、喜び、信頼、希望… そのような言葉を連想します。

神の愛と恵みを一身に受けながら育まれていく教会となりますように。
そして、神の救いをふさわしく語り伝えることができますように。



さて、礼拝説教のあらすじの続きも掲載しておきます。

2016年4月 礼拝説教 旧約講解 ヨシュア記6,7章
 エリコには良質な泉があり、水にも恵まれ、オアシスとなり、ナツメヤシの町とも呼ばれていた。町としての歴史は古く、B.C.9600とかB.C.7700とも言われる。ヨシュアの時代には堅固な城壁を持つ町となっていた。イスラエルがエリコを攻略しようとした時、「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった」(6:1)。そのような堅固な守備にもかかわらず、主はヨシュアに「あなたの手に渡した」と告げ(6:2)、どのようにエリコに立ち向かうのかを指示した(6:3-5)。ヨシュアは主の命じられた通りを行うべく、民に『進みなさい』と指令を出した(6:7)。ヨシュアが民に出したその指令は、主の約束への信頼と命令への従順を表すものだった。私たちは自分の置かれた状況の中で、何を優先に物事を考えているだろうか。
 「魔がさす」という言い方がある。ある辞書では「悪魔が入り込んだように、一瞬判断や行動を誤る。出来心を起こす。」と定義されている。聖書は華々しいエリコでの勝利、それに伴う指導者ヨシュアの認知度アップを記している(6:27)。主なる神がイスラエルと共におられる、神の民の証しとなっていた。ところがそれに次いで、聖書は「しかし」(7:1)と続ける。イスラエルの民の一員であるアカンが、主に禁じられていた戦利品を着服してしまったのだった。聖書はそれを『不信の罪』と呼び、民への主の怒りを引き起こすものと伝えている。一人の不心得者の不信の罪が民全体にも影響した。心地よいテーマではないが、罪の問題をいい加減に扱うことはできない。主のことばを大切にし、聴き従う心をもってお仕えしよう。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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