マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

お土産に

2006-07-29 22:17:48 | ちょっと息抜き
お土産にと思い、地元ならではというものを買ってきた。
いずれも教会からすぐ近くに店がある。

* 餅萬さんで、だいじょうぶだぁ饅頭

* 本木園さんで、狭山茶

餅萬さんはこれで三度目かな。
スタンプカードも持っている。
スタンプも少しずつ貯まってきた。

本木園さんは初めて入った。
店番をしているおばあちゃんと少し話した。
消費税分はおまけしてくれた。

一部の荷物は先にゆうパックで豊橋へ送った。
大きさや運ぶ手間を考えると結構お得な感じ。
前回妻の両親が来た時にかなり重いバッグを送った時でも三千円はしなかったから、これは結構使えるかもと味を占めてしまった。


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豊橋へ

2006-07-29 10:08:03 | 教会の風景
明日の日曜日は、ひばりヶ丘の教会で9:30から合同礼拝。
第五日曜日は合同礼拝になっている。
礼拝・交わりを楽しみにしている。
午後は役員会の研修も予定している。
夕方はいつもどおりYouth for Jesusがある。

その後、夜には豊橋へ。
豊橋教会で今週末から来週月曜日までU先生をゲストに聖会が開かれている。
残念ながら、月曜日の1回しか出席できないが、その1回が楽しみだ。
4ヶ月ぶりに会う方たちもいる。
それもうれしい。
近づいているユースキャンプの準備もする予定。
来週末まで豊橋滞在の予定。
滞在期間中、実家にも顔を出したり、OさんやHさんのところにも訪問したいと考えている。

昨日の夕方から、妻が暑中見舞いを用意してくれている。
東村山に来てからの様子を伝える写真に文面やイラストも添えてデザインしてくれた。
私にはセンスがないので、専ら妻に任せてしまった。
準備のかたわら、豊橋で頂いた寄せ書きを見たり、いろんな方々の顔を思い浮かべながら「この方には手紙を頂いて・・・この方には餞別も・・・。」と出発前のことを振り返る時でもあった。
あらためて、あまりにもたくさんの方々にお世話になっているのだなぁと実感した。
慌しく4ヶ月が過ぎ、キチンとお礼も伝えることができていない方もいる。
妻は義理堅い人であるので、それを非常に気にしている。
人付き合いに淡白な私でも、それを思うと申し訳ない気持ちになる。
多くの人たちの祈りと励まし、金銭的なサポートで支えられていることは忘れてはならないことだ。
そして、そんな方々との出会いを与えてくれたイエス様の恵みと導き。
それを思う時、私の心に感謝が生まれてくる。

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信じていても葛藤はある?

2006-07-28 15:26:20 | 聖書通読
今度の日曜日、Youth for Jesusで話すメッセージの準備。

ガラテヤ書5:16-6:2

聖書の救いの二面性

■「すでに」救われている
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからである。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)

■「いまだ」完成していない
「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちはこの望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:22-25)

この二面性から(特に「いまだ」完成していない面のゆえに)信じている者の中にも葛藤が起こる。
聖書は、その葛藤が起こる理由を信者の中にある「肉」と「御霊」という二つの性質を示して、次のように説明している。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ5:16,17)

イエス様を信じた時点で、何もかもが解決するかというとそうではない。
信仰をもっても、この地上での生涯を終えるまでは、御霊に従うか肉に従うかの選択をしていくことが求められている。
もし信じた時点で完全にされているのならば、教会には問題が全く起こらないはずである。
そして、新約聖書の後半部分も存在していなかっただろう。
なぜならば、新約聖書の書簡(手紙)と呼ばれる部分は、当時の教会内の問題に対処するために書かれたという背景があるからだ。

■肉と御霊
上記のガラテヤ書の続きでは、それぞれ肉と御霊という性質がどういうものであるかを示している。

「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(5:19-21)

おおまかに分類すれば、性的な乱れ(不品行は結婚外で性的な関係を持つことを指す)、主なる神様への信仰から外れること(魔術というと余り実感がないと思うが、今日ごくありふれた占いもこの範疇に入るだろう)、他者との関係の問題、不健全な娯楽とでも言えるだろう。
私たちの内にある肉は、自然とこのようなことを求める。
信者と呼ばれる人が問題行動をするのは、この肉に従って行動したときである。
教会内に大きな悲しみと痛みを引き起こすのは、この肉のゆえである。

一方、聖書は御霊に導かれて生きることを勧めている。
御霊に導かれている人の中に見られるものは、次のように示されている。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(5:22,23)

ここで「実」という言葉は単数形である。
九つの実があるというのではなく、愛に集約された一つの実が見られるととることができる。
後に続くのは、愛という実に含まれる特徴を挙げていると考えた方が文意に沿うだろうと思う。
信者の生活で愛というが実が結ばれていくのは、この御霊によって導かれる時である。
そして御霊によって導かれるとき、私たちは本当の意味で心満たされる幸せを感じることができる。

■御霊によって導かれるために
では、御霊に導かれるための方法を聖書はどのように教えているか?

①主の十字架への信仰
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

②仲間同士の協力
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」


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使命

2006-07-27 10:43:34 | 聖書通読
マタイの福音書28章

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』」(18-20節)

復活後のイエス様が、弟子たちに託された言葉。
教会の使命をここで再確認する。
世界への宣教の命令。
人々を弟子とすること、それには洗礼(バプテスマ)が伴い、イエス様の教えを守るように教えることが含まれている。

教会は自力でこの使命を果たすわけではない。
「いっさいの権威が与えられている・・・いつもあなたがたとともにいる」というイエス様の権威と臨在に基づいて、この使命を果たしていく。
教会は、弱い人間の集まりではあるが、この約束のゆえに、大胆に外へ向かって救いのメッセージを伝え、信じる人々を迎え入れていく。
イエス様が意図された教会の姿を常に求めていきたい。

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屋根の上

2006-07-26 23:42:30 | 聖書通読
実は、先週の雨で2F礼拝堂が雨漏りした。礼拝堂に四つの天窓があるが、そのうちの一つの窓の隅から雨水がしみ込んできているようだった。 教会のKさんに「今日の午後、いっしょに屋根の上を見てみませんか?」と声を掛けられた。Kさんはいつも教会の中の修繕などをしてくださっている。そのKさんといっしょに教会の屋根に上ってみることにした。



屋根に上ってみて、かなり傷んでいるのが分かった。
錆がひどいところも目につく。
例の雨漏りの天窓のところも原因が分かった。
窓ガラスと枠のところに隙間ができていた。
雨量が多くなると、そこからしみ込んでいくようだ。
随分前から水が入っていたようで、窓枠の木材がすっかり腐っていた。

結局、Kさんがコーキング剤を買ってきて隙間を埋めることにした。
Kさんに「やってみる?」と言われたので、やってみた。
でも、見ているほど簡単にはできない。
自分でもイメージどおりにはできず、ヘラで見栄えをきれいにしようとすればするほど、かえって汚くなっていく。
それでも優しいKさんは、私のやったところを見て「こりゃ50点かなー」と甘い採点。
結局、Kさんにもう一度やり直してもらった。
さすがはKさん。
きれいに仕上げてくださった。
これで雨漏りの心配はもうないだろう。

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