
多くの教会員の方々の積年の祈りと労苦が背後にあり、慈愛に富む神が顧みてくださり、牧会の大切な務めが継承されていきます。とても身の引き締まる思いです。



久しぶりにFootprintsカテゴリーの記事を記します。
このことを書いておかないと、自分の気持ちにも区切りがつかないな…と思いましたので。
一ヶ月前に父が亡くなりました。
この四年ほど、父はガンの治療を続けていました。手術を受けて一旦は落ち着いていたものの、その後、再発。薬の副作用の大変さにも耐えながら、本当に最後まで懸命に生きた姿は父らしいものでした。一方、自分の最期を意識して周到な終活もしていました。残された家族を思う、父なりの優しさや心遣いからだったと思います。
父は頑固で一徹なところもありましたが、私の選択も尊重してくれました。私が父の期待から外れた道を選択したのにもかかわらず。家族の中では誰もキリスト教を信仰していなかったのに私がクリスチャンになろうとした時も、また牧師を志す道を選んだ時も、おそらく心情的には言いたいこともあったのでは…と思いますが、父は私の選択を否定しませんでした。
父は仕事やスポーツ(卓球)の分野で地域や社会に貢献することを心がけていた人です。それで、まったく分野は違いますが、私のことも地域や人々の役に立つようにと尊重してくれていたのだと思います。亡くなる二週間ほど前に父とやりとりしたメールで、このような返信がありました。「おはよう。いまが孝則の一番充実した時です。頑張ってね。メールありがとう。」
結局、父の病状はかなり進んでいたのにもかかわらず、コロナ禍のため面会もかなわず、最期までメールと通話でしかコミュニケーションが取れませんでした。でも、こうして父のメッセージが私の手元に残っているのは、せめてもの慰めです。まだ一ヶ月余ですので気持ちの整理をしつつ、父を偲ぶこともしばしばです。私にとって、父は大切な理解者であり、尊敬できる人でした。
牧師として働き始めて、14年目を迎えました。
13年間いろいろなことがありました。東京に来た当初には予想もしなかった状況にありますが、これまで私の経験してきた一つ一つが今につながっているように思います。そして、それは「今に」というだけでなく、「将来に」つながるとも言えます。
今日のウォーキングの最中、あるPodcastを聞いていました。
Beeson Divinity Podcast
John Calvin: A Reformer for Our Time
この講義の中で、ふと私の心に留まったことがありました。
宗教改革の先進的な神学者、カルヴァンの一つの特徴に refugee (亡命者)だったことを挙げています。彼はフランスから、迫害から逃れて、ジュネーヴに身を寄せて、働きの場としました。
当時の状況からそうせざるを得なかったのでしょうが、その状況、その条件で、後々までも残る働きをしました。神のなさることは、人の思いを超えています。
途中から脱線して、スケールの大きな話になってしまいましたが…
身近な話に戻しますと、私も含めて今の開拓教会に集う方々は、ある意味で「流れ着いた者」同士という見方もできるかな…と思います(教会の皆さん、失礼な言い方ですみません)。でも、だからこそ信仰や教会について大切にできる視点や志もあるのではないかと私は思っています。
この時代にあって、聖書に基づく教会のあり方、健全さを共に追い求めていく交わりは、私にとって慰めに満ちたものです。新年度を迎えて、この一年も神のみこころが実現していきますように。