マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

考えてみたら・・・

2006-09-20 16:28:45 | 教会の風景
ふと気付いたら、今月ももう最終日曜日を迎える。
今度の週末と来週明けに予定が詰まる。
自分が済ませなければならない仕事が多いことに気付いた。

土曜日は、「お楽しみ広場」(教会の文化祭)で出店の手伝い。それが終わった後に役員会。
日曜日は、礼拝説教と午後の分級で教える。あと月報の発行もあった・・・。夕方はYouth For Jesus。
月曜日・火曜日と牧師会。
水曜日は、神学校(それまでに予習・小テストの準備)。

今日から一週間もあっという間だろう。
さて、今晩の祈祷会前に月報の準備でもしておこう。

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今日の学び

2006-09-20 16:17:23 | 神学校・講座
今日の教会史は、10世紀~13世紀の教会の様子を勉強した。
教皇と皇帝の権力争いと十字軍についてだった。
教会の世俗化が進み、教皇が教会内のみならず現世的権力を主張し始める。
そこで皇帝との権力争いが始まる。
当時の教会の絡む一つ一つの歴史的事件を見ていくと、完全に政治的な権力争いに思われる。
勉強していてあまり気持ちのいいものではない。
でも実際歴史がそうであったので、そこから目を背けるわけにはいかない。
それだけ、教会の世俗化という問題は致命的な結果をもたらす。

十字軍にしても、その動機は一部の人々は純粋に宗教的な熱心さゆえだったかもしれないが、大部分の人々は経済的、領土拡張の野心的な目的で動いていた。
ついでに加えれば、その宗教的な熱心さも聖書の視点からすれば、見当違いだったと個人的には思う。
イスラム圏の方から見れば、侵略戦争としか映らないだろう。
ということを考えれば、現代でも安易に「十字軍」「クルセード」という言葉を用いることは思慮に欠けている。
講義の中でも、十字軍を英雄的にイメージしているのは、欧米文化の視点に過ぎないことを改めて考えさせられた。

旧約通論は、ヨシュア記を学んだ。
ヨシュア記6章
ヨシュア率いるイスラエル人たちが、城壁に囲まれたエリコという街を攻め取ろうとする場面。
その時、主なる神様がイスラエルの人々に命じられた。
「聖絶しなさい。」

この「聖絶」という聖書(しかも新改訳)固有の造語について詳しく説明してくださった。
ヘブル語で〔hrm〕→ へーレムとかハーラムと発音するそう。
その単語は、他の訳の聖書では、出てくる聖書の箇所の本文の意味に沿って意訳してあるそう。
殺す、全滅する、奉納する、呪われたものとする・・・それを新改訳では「聖絶する」という言葉を訳語として充てたそう。

なぜ神様が、このようにエリコの住民や家畜を全滅させなさい、と命じられたのか明確にはその理由を示してはいない。
もちろんいくつかの理由は推測できる。
当時のカナンの住民たちが、偶像崇拝やそれに伴う人身御供の習慣、道徳的退廃に陥っていたので、イスラエルがその影響を受けないように、カナン人を一掃することを意図されたのだろう。
つまり、悪影響のある危険な風習からイスラエルを守るためだったと考えられる。

でも、ここで恐らく疑問を持つ人がいるだろう。
聖書は、神が愛と憐みの神であると教えているのでは?
それなら、なぜこんな野蛮なことを命じられたのだろう?

確かに聖書は、神は愛の神である、と教えている。
でもこの聖書の場面では神の義や聖という一面が表されていると考えたほうがよい。
しかも、この場面で示された神の義と聖がなければ、イエス・キリストの十字架の死の贖いという聖書が示す救いのメッセージは意味がなくなる。
神の義と聖が満たされるために、罪の無いひとりの人イエスが殺された。
イエス様の十字架の死は、聖であり義である神様の罪に対する怒りが下されたことを示す。
神様の義と聖という性質を否定することは、結局イエス様の十字架の死を意味のないものとすることになる。
結果として、神様の人間に対する愛もぼんやりとしてくる。
神様の愛が、単に人間の罪を見過ごそうするだけの曖昧なものになってしまう。

そういうわけで、ヨシュア記の「聖絶」の記録をどう見るかは、聖書の示す福音とは決して無関係ではないと学んだ。
改めて、自らが受けた救いの重さを確認した時だった。

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