マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

スピリチュアリティ 成長への道

2006-08-31 21:37:30 | 最近の読書
しばらく前に買ってきた本を読み始めた。
「スピリチュアリティ 成長への道」
第1章 霊的訓練 自由への道

今日は読んでいてここが目に留まった。
「自分の意志や決意の力で人格の内面を変革しよう、ということに絶望したなら、素晴らしい悟りへの扉を開いたことになる。すなわち、われわれの内面の義、正しさは、神からの贈り物であって、神の恵みによって受け取るものだ、という洞察である。われわれが必要とする変化は、神が為される仕事であって、われわれ自身のの仕事ではないのである。内面の仕事は、ただ神のみが内側から働くことができるのである。神の国の義を、われわれは自力で稼いで達成することはできない。それは与えられる神の恵みなのである。」(18ページ)

ここで言う神の義については、ちょうど祈祷会で使用しているテキスト「なぜ恵みはすべてを変えるのか」でも学んでいることだ。
最近特に心に留まっている。
信仰によって与えられる神の義。
しっかりとここは押さえておきたい。

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振り返れば・・・

2006-08-31 21:17:27 | 神学校・講座
今日、旧約通論のレポートが完成した。
伝道者の書の御言葉にちなんで証しをまとめた。
自分の小さい頃から信仰に至る経緯とその後の経過を、現在の東村山への赴任に至るまで、私の視点からまとめてみた。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(3:11)

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」(7:14)

伝道者の書のこんな言葉がふさわしいと思われた。
教会に通い始めるまでの伏線や信仰をもってからのいろいろな経験の中に神様の深い摂理を感じている。
人間の限られた視点では、その時わからないことでも、後に最善の神様の配慮があったことが分かった。
しかも、かつて自分が経験した信仰のスランプのときほど、鮮やかに神様のご介入があったことが今になると分かる。
今日、そんなことを振り返りながら、心が温かくなるのを感じた。
神様に、周りの人たちに、こんなに良くしてもらってきたのだと思うと、何とも言えない感謝で心がいっぱいになった。
幸せな気分で満たされた。
宿題とはいえ、静かに今までを振り返る時間を持って良かった!


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宿題の追い込み

2006-08-30 23:07:25 | 神学校・講座
いよいよ神学校の休みも終わりが近づいた。
昔から変わっていないが、休みの終わりが近づいて宿題の追い込みに入る。
ある程度は無理のないように進めていたが、仕上げには至らなかった。
今回の休み中に出た宿題は、旧約聖書のヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌、哀歌の通読と伝道者の書を読んでのレポート(証しで良いとのこと)。

聖書は読み終わっている。
今日レポートをまとめ始めた。
明日には終わる予定。
ついでに他の科目の予定を確認したら、来週水曜日の休み明けから教会史は小テストがある。
予習が必要なのに気付いた。
土曜日の新約通論はローマ書の通読とアウトラインの作成、提出があることを思い出した。

今週末と来週初めは、牧師室にこもって勉強に集中かな。
夏休みのイベントモードから通常の教会&学校モードに切り換えなくてはならない。
東村山での初めての夏も過ぎようとしている。


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今日の一日

2006-08-29 23:05:24 | 教会の風景
今日は午前中から夕方まで教会にいた。

天気が良かったので、教会中の窓を開けて換気。
あと、牧師室の布団を干した。

神学校の休みも終わりが近づいている。
宿題も急ピッチで進めている。
一つレポートが残っている。

明日の祈祷会のテキストをタイプした。
タイプしながら、豊橋から送ってもらったU先生の説教のCDを聞いていた。
とても教えられ、励まされた。

夕方には日課になっている花や植木に水やり。

帰りはスーパーで、サーモンとホタテ、甘エビの刺身などを買ってから帰宅。
夕食は手巻き。
Hさんと私たち夫婦3人で食卓を囲む。



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私たちの自由

2006-08-29 22:53:02 | 教会の風景
明日の祈祷会で使うテキストの準備をした。
「なぜ恵みはすべてを変えるのか」をずっと読み進めてきた。
明日はいよいよ10章に入る。

9章では信者が受けている自由について学んだ。
信者はどんなことをしても良いという自由を受けていることを確認した。
しかし、それは他者を愛する自由、他者に仕える自由である。
自由を自分の欲望のために用いるのではなく、かえってその自由で他者のために生きることを学んだ。
私たちが神様から頂いた自由は誰からも奪われることはない。

それを受けて10章に進む。
10章では、自由は放縦に変わってしまわないか?という問題提起で始まる。
聖書が私たちに保証している自由は、あまりにも危険ではないかという心配が起こる。

それは初代の教会の中でも問題にされたことだ。
もちろん当時の教会の中に自由を勘違いしていた人もいたのだろう。
しかし、本当に神様の愛を知り、イエス様の身代わりで自分の罪が赦されたのだと知った人が、罪を犯し続けることができるだろうか?
最も大切なものを犠牲にして救ってくれたお方を、罪を故意に犯すことで悲しませたいとおもうだろうか?

しかも、イエス様を信じる者は神の義を頂くとされている。
イエス・キリストの死は、彼一人の死というだけではなく、すべての人を代表したのだから、彼を信じる者は彼と共に死んだという事になる。
「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」(ガラテヤ2:20)
罪に支配される古い人は、キリストともに死んだとされている。
もはや罪の罰を受ける必要がなくなっている。

また罪の力と誘惑の前に、ルール(律法)では私たちをつなぎとめておくことはできない。
もしルールを破る時の罰を恐れる心を利用して罪から離れようとするなら、その人の心には苦しみと窮屈さしかないだろう。
聖書の示す福音はそれとは違う。
罪がどんなに魅力的に見えたとしても、それに優る神の愛を知る喜びや平安を体験するなら、自然と罪から遠のくのは理解できる。

私たちが、ルールを意識することより、父なる神様の愛やイエス様の恵み、聖霊様の導きに心を向けるなら、自分の生活の中に力強く働きかける神様の力を体験するだろう。そこに本当の自由がある。

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