マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

『スポットライト』

2018-07-30 23:49:12 | 教会の風景
先日、『スポットライト 世紀のスクープ』のDVDを観ました。
知人牧師に勧められたものです。
ちなみに、その牧師さんは教会で起こるハラスメントに問題意識を持っています。
確かに、事の深刻さを考えさせられる内容でした。

昨今は、社会的にも諸々のハラスメントに対しての認識が、少しずつ浸透しているように思います。
とは言いましても、健全な関係性が組織で実際に保たれるのは容易なことではないようです。
本当の意味で、「組織を守る」とはどういうことか、個々の認識が問われるところです。
それは教会のあり方にも言えることではないかと思います。



さて、今日は久しぶりの更新。
東村山聖書教会では7月に開かれた集いも、一つ一つ幸いな時間となりました。
昨日も午前中は主日礼拝。
そして午後は有志による話し合いと役員会が行われました。

礼拝では「神による召命」について共に考え、私たちのことを選び、招いてくださった神を崇めました。
また、午後の話し合いの時間は、「牧会における慰めと励まし」について学んだ後、教会の運営について検討しました。

神のみこころにしたがって、教会に集うひとりひとりが尊重され、生かされていくようにと願っています。



すっかり文章が長くなってしまいましたが…
礼拝説教のあらすじも掲載しておきます。
2018年7月の旧約聖書からの講解説教分(2回)です。

2018年7月 士師記17-18章
 キリスト教信仰における頭と心の調和を考える。エフライム部族が相続地とする山地にミカとその一族が住んでいた。(17:1)ミカの名に「誰がヤハウェのようであろうか」という意味がある。この名付けから、一家の信仰深さを想像する。ところが、ミカは母の所有する銀を盗んでいたし(2)、母はその銀で「彫像と鋳造」を造るという(3)。律法で明らかに禁じていることだ(申命記27:15)。そのうえ、ミカは私製の宮を所有し、息子を祭司に任命していた(4,5)。非常に宗教的でありながら、彼らのすることは律法から外れていた。ミカとその一族の信仰のあり方は、当時のイスラエルの霊的状態を象徴するものだったと考えられる。士師記の著者は、「それぞれが『自分の目に良いと見えること』を行っていた」(6)と伝えている。私たちの礼拝や献身、喜びや感謝も真理のみことばにかなうものであるように。
 ダン部族が『相続地を求めていた』(18:1)とされる。すでにカナンに定住しているはずのイスラエルだったが、(ヨシュア記18:1-3)によれば七部族が相続地を確保できなかった。(ヨシュア記19:40-47)にはダン部族の割当となる町の名が記されている。おそらく、これらの町を維持できなかったのだろう。そこでダン部族は、5人の偵察を派遣して、新たな土地を得ようとする(18:2)。これは積極的ともとれるが、必ずしも彼らの信仰から出たことではなさそうだ。必要に迫られて自分たちの力で満たそうとするに過ぎない。偵察隊は、その道中、ミカの家に立ち寄った。レビ人で祭司をしている若者に出会い、宮には彫像と鋳造があることを知る。その後、ダン部族は、偵察隊の情報でライシュの町を攻略した。その際には、ミカの家に立ち寄り、祭司と彫像と鋳造を奪った。これらの記述は、当時のイスラエルの霊的混乱と倫理的問題の根深さを物語る。信仰者にも教会にも必要はあるが、どのように満たされているだろうか。私たちの必要を満たすことのできる主のみこころにかなっているだろうか。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。



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黙想、その静けさの中で

2018-07-07 21:20:54 | 神学校・講座
昨日は、牧会ステーションの基本クラスの第4回に参加。
小雨の朝、四ッ谷に向かいました。

今回はOさんのクラスでした。
午前は、聖書のことばの朗読を聴き、黙想。

今回、私が聖句から励ましを受け、教えられたことは、「私の決意や覚悟ではなく、主のとりなしによる」ということです。
余計な気負いはせずに。


午後に行われた静まりの時間には、自分のこの半年を振り返りました。

私の場合、一言でいうなら、「生活激変」の半年間。
感謝も労苦も、ぎゅっと詰まっています。
たとえば、新年は卒論執筆の最終段階から始まり、放送伝道の実習とか、卒業式、引越、新生活…もちろん教会の日常的な仕事もあれば、義弟の現役引退試合、高校時代の同窓会、牧師就任の按手礼式など、盛り沢山でした。

あと、前回のクラスのテーマの一つ、セルフケアと絡めて考えてみますと…
新生活になって以前よりもきちんと睡眠時間を確保できるようになったのは、何よりのセルフケアになっていると思います。
意欲や集中力が徐々に戻ってきているような…
私はもともと睡眠時間がたっぷり必要な人でしたから。
これまでの積もり積もった疲労もあるのかもしれませんが、少しずつ気力が戻ってくる感覚があります。


昨日のクラスも参加者のみなさんに喜んで頂けているようでしたし、こうした場が継続しているのはうれしいことです。
次回は9月。

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暑い日に「火」の話

2018-07-02 22:12:09 | 教会の風景
梅雨明けして、暑い日が続いています。
そんな暑い日に「火」の話をすることになってしまいましたが …


昨日の主日礼拝の説教箇所は、新約聖書の講解でルカの福音書12章49-53節でした。
「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。…」

この場合の「火」は、聖なる神のさばき、終末における神のさばきをたとえているそうです。
この世における神のさばきに先駆けて、まずキリストの受難があります(12:50)。

キリストは、私たちが受けるはずの神のさばきを受けて私たちの罪を贖うために、十字架にかかりました。
しかし、人の反応は、このイエス・キリストをめぐって対立し、分裂する、と言われています(12:51-53)。

キリストの苦しみのおかげで、私たちは神のさばきを免れます。
一方、キリストを信じて生きていく、ということには、大なり小なり信仰ゆえの試練があります。
ただし、たとえそうした試練を通るとしても、神は共におられます。
主イエスは、信じる者が動揺しないで信頼し続けるよう教えておられます。


…というような説教を語りました。
初めて訪ねてくださった方々もご一緒できて、昨日も幸いな礼拝と交わりの一日でした。




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