今度の日曜日の説教のダイジェスト
創世記4:17-26
この聖書箇所では、カインの子孫のその後が記録されている。
カインは、町を建設し、自分の息子の名前を付ける。
もうこの頃にはある程度の人口がいたと思われる。
ある資料では32,000人くらいはいただろうと推測されている。
カインの子孫は、その後繁栄の道を行く。
牧畜と音楽、青銅と鉄の加工などの文明が発展していく。
しかし、忘れてはならないことがある。
カインの子孫は、神を離れた人々であるということだ。
神様の定めた一夫一婦制がレメクによって崩されている。
また人の命が軽んじられる風潮が生まれていた。
レメクの傲慢とも受け取れる発言も記録されている。
道徳的には退廃して行ったようだ。
このように観察すると、必ずしも繁栄=神の祝福ということは成り立たないと言える。
これは現代の私たちにとっても教訓となるところだろう。
さて、一方で聖書はアダムとエバにもう一人の息子が生まれたことを記録している。
アダムとエバは罪を犯してしまったとはいえ、神様に対する信仰は失わなかったようだ。
彼らの間に生まれた息子について、神がこの子を授けられたと告白している。
その子の名は、セツ(身代わりの意味)と呼ばれた。
そして、そのセツの息子は、エノシュ(病弱な、死ぬべきの意味)と呼ばれたとされている。
セツは、自分の息子になぜそのような名前を付けたのか?
彼が生まれた時に体が弱く死にそうだったのだろうか。
しかし、ここでセツとカインの家系がとても対照的であることに気付く。
一方は、神から離れた文化を形成しながらも、繁栄した。
かたや、信仰を受け継ぎながら、病弱な息子を抱えた家系。
そんな違いの中から、もう一つの違いが生まれた。
セツとエノシュの家系で、「祈り」が生まれたということだ。
この世代の時に主の御名によって祈り始めたと記録されている。
このように見ると、弱さゆえに神に祈る心が生まれたとも見ることができる。
人間の弱さは、全能者に向かう祈りの入り口だとも言える。
この発想は、新約聖書の中にも受け継がれている。
使徒パウロは、「私は弱い時にこそ、強い。」と言った。
自らの弱さを本当に知った人こそ、神様に頼る祈りによって強くされるという事ができる。
この世の繁栄の中で、自らの力とプライドを頼りに生きるか?
それとも、この世に生きながら、祈りによって全能者に向かうライフスタイルをもって生きるか?
私たちは、ひとりひとりがどちらの生き方を取るか選択を迫られている。
創世記4:17-26
この聖書箇所では、カインの子孫のその後が記録されている。
カインは、町を建設し、自分の息子の名前を付ける。
もうこの頃にはある程度の人口がいたと思われる。
ある資料では32,000人くらいはいただろうと推測されている。
カインの子孫は、その後繁栄の道を行く。
牧畜と音楽、青銅と鉄の加工などの文明が発展していく。
しかし、忘れてはならないことがある。
カインの子孫は、神を離れた人々であるということだ。
神様の定めた一夫一婦制がレメクによって崩されている。
また人の命が軽んじられる風潮が生まれていた。
レメクの傲慢とも受け取れる発言も記録されている。
道徳的には退廃して行ったようだ。
このように観察すると、必ずしも繁栄=神の祝福ということは成り立たないと言える。
これは現代の私たちにとっても教訓となるところだろう。
さて、一方で聖書はアダムとエバにもう一人の息子が生まれたことを記録している。
アダムとエバは罪を犯してしまったとはいえ、神様に対する信仰は失わなかったようだ。
彼らの間に生まれた息子について、神がこの子を授けられたと告白している。
その子の名は、セツ(身代わりの意味)と呼ばれた。
そして、そのセツの息子は、エノシュ(病弱な、死ぬべきの意味)と呼ばれたとされている。
セツは、自分の息子になぜそのような名前を付けたのか?
彼が生まれた時に体が弱く死にそうだったのだろうか。
しかし、ここでセツとカインの家系がとても対照的であることに気付く。
一方は、神から離れた文化を形成しながらも、繁栄した。
かたや、信仰を受け継ぎながら、病弱な息子を抱えた家系。
そんな違いの中から、もう一つの違いが生まれた。
セツとエノシュの家系で、「祈り」が生まれたということだ。
この世代の時に主の御名によって祈り始めたと記録されている。
このように見ると、弱さゆえに神に祈る心が生まれたとも見ることができる。
人間の弱さは、全能者に向かう祈りの入り口だとも言える。
この発想は、新約聖書の中にも受け継がれている。
使徒パウロは、「私は弱い時にこそ、強い。」と言った。
自らの弱さを本当に知った人こそ、神様に頼る祈りによって強くされるという事ができる。
この世の繁栄の中で、自らの力とプライドを頼りに生きるか?
それとも、この世に生きながら、祈りによって全能者に向かうライフスタイルをもって生きるか?
私たちは、ひとりひとりがどちらの生き方を取るか選択を迫られている。