マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

繁栄=祝福?

2006-09-01 20:38:43 | 教会の風景
今度の日曜日の説教のダイジェスト

創世記4:17-26
この聖書箇所では、カインの子孫のその後が記録されている。
カインは、町を建設し、自分の息子の名前を付ける。
もうこの頃にはある程度の人口がいたと思われる。
ある資料では32,000人くらいはいただろうと推測されている。
カインの子孫は、その後繁栄の道を行く。
牧畜と音楽、青銅と鉄の加工などの文明が発展していく。
しかし、忘れてはならないことがある。
カインの子孫は、神を離れた人々であるということだ。
神様の定めた一夫一婦制がレメクによって崩されている。
また人の命が軽んじられる風潮が生まれていた。
レメクの傲慢とも受け取れる発言も記録されている。
道徳的には退廃して行ったようだ。
このように観察すると、必ずしも繁栄=神の祝福ということは成り立たないと言える。
これは現代の私たちにとっても教訓となるところだろう。

さて、一方で聖書はアダムとエバにもう一人の息子が生まれたことを記録している。
アダムとエバは罪を犯してしまったとはいえ、神様に対する信仰は失わなかったようだ。
彼らの間に生まれた息子について、神がこの子を授けられたと告白している。
その子の名は、セツ(身代わりの意味)と呼ばれた。
そして、そのセツの息子は、エノシュ(病弱な、死ぬべきの意味)と呼ばれたとされている。
セツは、自分の息子になぜそのような名前を付けたのか?
彼が生まれた時に体が弱く死にそうだったのだろうか。
しかし、ここでセツとカインの家系がとても対照的であることに気付く。

一方は、神から離れた文化を形成しながらも、繁栄した。
かたや、信仰を受け継ぎながら、病弱な息子を抱えた家系。
そんな違いの中から、もう一つの違いが生まれた。
セツとエノシュの家系で、「祈り」が生まれたということだ。
この世代の時に主の御名によって祈り始めたと記録されている。

このように見ると、弱さゆえに神に祈る心が生まれたとも見ることができる。
人間の弱さは、全能者に向かう祈りの入り口だとも言える。
この発想は、新約聖書の中にも受け継がれている。
使徒パウロは、「私は弱い時にこそ、強い。」と言った。
自らの弱さを本当に知った人こそ、神様に頼る祈りによって強くされるという事ができる。

この世の繁栄の中で、自らの力とプライドを頼りに生きるか?
それとも、この世に生きながら、祈りによって全能者に向かうライフスタイルをもって生きるか?
私たちは、ひとりひとりがどちらの生き方を取るか選択を迫られている。

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今夜から来客

2006-09-01 12:10:25 | お客さん
今日の夜、妻のいとこのFちゃんとその友達が我が家に泊まることになっている。来週の初め頃まで滞在するとのこと。
今日は朝からそうじだった。
掃除機をかけ、床の拭き掃除、トイレ掃除、ゴミの始末は私の担当。
きれいになって、迎える準備もOK!

Fちゃんたちは、夜行バスでもう東京に来ていて、ディズニーランドへ行っているらしい。
今日こちらはあいにくの雨だけど、楽しめているだろうか?
ただ随分涼しくなって過ごしやすくなっている。
確かこの前Fちゃんがこちらに来たときも、ちょうど涼しかったと思う。

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神の国の訪れ

2006-09-01 12:00:24 | 聖書通読
ルカ19:11-27
「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それはイエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。」(11節)

当時の民衆は、ユダヤをローマの支配から解放する政治的メシアを期待していた。確かにキリストは、新しいエルサレムで王として世界を治めることが預言されていた。
しかし、それは来るべき新しい天と地においてのことである。
その当時、イエス様がこの世界に来られたのは、人類の罪を贖うためであったことに民衆は気付いていなかった。
そのためイエス様はその時でないことを教えるために、たとえで民衆に語られた。

「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』・・・さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。」(13節,15節)

ここで、身分の高い人は、キリストご自身を指す。
しもべは、私たちを指す。
ミナというのは、当時のお金の単位で約100日分の賃金を指す。
ということを念頭に置くと、このたとえ話からいくつかの情報を読み取ることができる。

イエス様は、その当時の世界から一旦離れられるということ。
それは十字架の死後、復活し、昇天したという記録と合致する。

イエス様が天に戻られている間、私たちに一人1ミナに表される救いを託して下さっているということ。
本人のために神様が救いと賜物を与えたというのと同時に、それを分かち合うことで活用することが期待されていること。

やがてイエス様が戻ってこられる時、各自が託された救いをどのように扱ったのかを確認される。
その時、主人であり、王であるイエス様に喜んでもらえたら、これほど光栄で喜ばしいことはないだろう。

「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」(17節)

救いの恵みをさらに多くの人たちに分かち合っていきたい。

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