マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

オリーブ

2018-06-30 21:58:30 | ちょっと息抜き
わが家にオリーブが来ました。



プレゼントとして頂いたものです。
これから大切に育てます。

ちなみに、昨日は16回目の結婚記念日でした。
二人でささやかなお祝いもしました。

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二年半。その途上にて

2018-06-26 16:55:57 | 教会の風景
東村山聖書教会のスタートから2年半が過ぎようとしています。
今のペースが、教会を形成していく上で速いのか遅いのか… それは私には分かりません。

ただし、何もないところから始まり、こうして継続していることは、神の恵みと憐れみの証しだと信じています。
それに今月は、この前も記事にしたように、牧師就任の按手礼式もありました。
教会に通うみなさんにとっても、一つの節目、心を一新する機会になったようです。

この前の日曜日は、午前の主日礼拝の後、午後からは牧会についての学びと話し合い、役員会が開かれました。
祈りを共にし、教えられたことを分かち合い、意見を交わす場で、現在の教会の課題と各自の役割とが認識されていく途上にあります。


個人的なことを言いますと、私はまだまだ未熟で、至らなさや不甲斐なさを感じることもしばしばです。
教えること、伝えること、担うこと、任せること、手放すこと…うーん、どうしたら良いだろうかと悩むところです。

名前のとおり、東村山という地域で聖書に基づいた教会として形成されていくのが、私たちの祈りであり、願いです。
これからも主の導きを頼りに、互いが信仰による歩みを進めていける環境を大切にしていきたいと思います。






これは今日、用事で外出した際に撮りました。
いつもの遊歩道の脇で、木漏れ日を受けながら咲いていた紫陽花。


さて、もう一つ。
早いもので… 月末になりましたので、今月の礼拝説教・旧約講解のあらすじを掲載しておきます。
これまで、ずっと旧約聖書からの講解分のみをまとめていましたが、いずれ新約聖書の講解説教の分もまとめていけるといいかなと思っています。

2018年6月 士師記16章
 個人でも組織でも、不祥事の背景には、すでに不健全な状態が生じていることが多いのではないか。ナジル人サムソンの女性関係についての奔放さには驚かされる(14:2-4; 16:1; 16:4-)。その生涯の記録には、士師としての使命と怪力という賜物を授かりつつも、『誘惑と罠』とに引き寄せられる彼の弱点も見出される。サムソンは、デリラというひとりの女性に出会った(16:4)。サムソンの思いとは裏腹に、デリラはペリシテ人の領主たちとの取引(5)に応じ、彼の力の秘密を聞き出そうとした(6-14)。彼は三度くり返してはぐらかすも、デリラの執拗な訴えにその心が揺れてしまう(15,16)。結局、神との間に交わされている約束事、怪力の秘密が自分の髪の毛にある、とデリラに打ち明けてしまう(17)。そのため、眠っている間に髪の毛を剃り落とされたサムソンからは、力が離れ(19)、主が離れた(20)。そして、ペリシテ人らの捕虜となり、両目を奪われ、牢の中での労働を課せられるに至った(21)。聖書は、信仰者を誘惑と罠に陥らせる、有害な欲望について警告している(Ⅰテモテ6:9-11)。
 何かにつけて、私たちは失って初めて気付くことが多い。危機的な時代にイスラエルを救う士師として活躍したサムソン。彼はある意味で「持っている」人だった。出生前から両親に彼の使命が明かされ、そのための条件にも恵まれた(13:5,24,25)。サムソンの怪力は、彼にしてみれば当たり前で、危機になれば自然と発揮されるものだったのかもしれない(16:20)。けれども、怪力を失い、敵の捕虜となり、そのうえ両目も奪われ、何もかも失っていた(21)。敵の見世物となるありさまだった(27)。だが、そのときの記録として、サムソンが『主を呼び求めて』、祈ったと伝えられる。彼の生涯の記録の中で二度目だ(16:28; 参照15:18)。「神、主よ」とは、かつてイスラエルをエジプトから救い出した、全能にして唯一の神への呼びかけとしてふさわしい。しかも、「私を心に留めてください」、「私を強めてください」という願いには、己をわきまえた謙虚さと神への信頼とが表現される。「私の二つの目のために」という個人的復讐を目的としていたにも関わらず、神は彼を退けず、むしろそれを彼の生涯最後の働きとした(16:30)。私たちの祈りの心はどうだろうか。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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このタイミングで

2018-06-23 11:29:24 | 最近の読書
先日、この本を読みました。

『砕かれた心の輝き -三人の王の物語-』
ジーン・エドワーズ著
油井芙美子訳
あめんどう 2002年[原著1980,1992]



妻が友人から頂いたものです。
頂いたのはもうしばらく前のことですが、私はまだ読んでいませんでした。
ですが、引越作業で本の箱詰めのときに、ふと目に留まり、読もうと思っていた一冊です。

私にとっては、タイムリーで考えさせられる内容でした。
聖書が伝えている、イスラエル王国のサウル、ダビデ、アブサロムを題材に、リーダーシップや「牧者」としてのあり方を問う内容でした。
聖書の記録の行間をそれぞれの人物像や発言を補うことで、メッセージ性が深められ、よくまとめられています。
社会的にも組織内の「パワハラ」が問題視されている中、教会における「牧会」を考える一助となる本です。

私個人の読後感としては…
この著者の主張に共感するところも多く、かつての自分の選択や判断を「やっぱり、これで良かったんだ」と納得、確認しました。
また同時に、「自分の置かれた立場は力を持つことへの誘惑に絶えずさらされているんだなぁ」と釘を刺されるようで厳粛な思いにもなりました。

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Footprints14

2018-06-21 13:53:07 | Footprints
6月17日の主日礼拝には、母校の恩師であるM先生を講師にお迎えしました。
その礼拝の中で、説教だけでなく按手礼式の司式をして頂きました。

私はこれまで、神学校を卒業するまでは按手礼を受けないと決めていました。
牧会の現場では「牧師」としての実際の働きを担っていましたが、自分なりの考えで線引きをしていました。
もちろん、それぞれの教団教派や教会の文化もありますが、私の場合は神学教育の重要性を意識してのことでした。
経験を積んで学んでいく部分もありますので、生涯にわたって学び続けるのは言うまでもありませんが、基礎となる神学教育を大切にすべきだと考えています。

振り返ってみますと…
高校生のときに献身の願いが与えられながら、紆余曲折を経て、四十を過ぎてから正式に牧師就任の按手礼を受けました。
随分と回り道をしたようにも思えますが、私には必要な訓練の期間だったのだろうと受けとめています。

この日は、多くの方々の立会いのもと、一つの大事な節目を刻むことができて幸いでした。
このように与えられた節目を記念して、ひとこと記しておくことにしました。


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お便り

2018-06-11 23:26:54 | ちょっと息抜き
このところ、ちょうどお便りを頂くことが重なりました。
私たち夫婦がこれまでお世話になっている方々に転居先等のお知らせをしたところ、そのお返事を頂いたわけです。



それぞれのお便りに記されている近況から、日々の生活を丁寧に送っていらっしゃる様子が伝わってきます。
また、私たちへの励ましのことばに力づけられました。

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