マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

今晩の夕食

2006-09-28 22:53:06 | お客さん
今晩の夕食にY君、M君、T君が来てくれた。
メニューは、豚丼と味噌汁、サラダ。
妻が手料理を振舞った。
とてもおいしかった。





とても楽しいひとときであった。
感謝。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ?そこまでして認めたくない?

2006-09-28 17:05:59 | 聖書通読
ヨハネ19:17-22

■ ヨハネの福音書に記録されているイエスの十字架刑をめぐるエピソード。

「彼らはイエスを受け取った。
そして、イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。
彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。
ピラトは罪状書きも書いて、十字架に掲げた。それには『ユダヤ人の王ナザレ人イエス。』と書いてあった。
それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。
そこでユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。』と言った。
ピラトは答えた。『私の書いたことは私が書いたのです。』」

この場面で、イエス様が十字架に磔になった時の様子がいくらか分かる。
十字架上に罪状書きが掲げられたとのことだ。
そこには「ユダヤ人の王」と書かれていた。
イエス様の裁判を担当した総督ピラトが、自分の判断でそのように書いたようだ。

私が中学生の頃、初めて聖書を読んだ時、この話の筋が理解できなかった。
「ユダヤ人の王」が、なぜ罪として死刑の理由となるのかが分からなかった。
王 = 死刑
こんな理不尽な話は理解しがたいものだった。

さて、イエス様が王として来られるということは、この時より数百年まえに預言されていた。
「エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和でロバに乗られる。」(ゼカリヤ9:9)
やがて来るべきメシヤは、ユダヤ人にとって王であるという知識は、ユダヤ人の間に広まっていた。
しかし、それにもかかわらず、メシヤであるイエス様が実際いらっしゃった時、ユダヤ人たちは拒絶した。
本来真っ先に歓迎するはずのユダヤ教の指導者たち(ここで言う祭司長たち)は、単に拒むだけではなく、自らの手で殺してしまうという失態をさらす。
指導者たちばかりでなく、エルサレム入城の際に歓迎ムードだった民衆たちまでなりを潜め、ある者たちは指導者たちに加担して「十字架につけろ!」と叫ぶ始末。
そこまでして認めたくないの?とも思う。

これらの様子が聖書に収められているのはどうしてだろう?
私たちの内には、「神様を認めたくないと」いう意識があるのでは?
近づこうとする神様を押しのけて、自分が中心、自分が王様、自分の思い通りにしたいという性質があるのだろう。
「あなたには用はないから、私の好きにさせて。」という心境だろうか。

イエス様の十字架の死は、私たちに対する神様の愛を示しているとともに、実は私たちのエゴも明らかにしている。
十字架の場面を読むたびに、自らの自己中心とそれに優る神様の深い愛を覚える。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする