マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

感謝とともに

2009-12-31 18:55:41 | 教会の風景
今日は妻と二人で教会内の掃除と片付けをしました。
その後、ベストライフのM先生を訪問しました。

さて、今年もいろいろなことがありました。
年頭に掲げた聖書のことばと標語を実感した一年でした。
先日の今年最後の礼拝では、もう一度同じ聖書箇所を取り上げました。
教会のみなさんと今年一年の神の恵みと御業を覚えて感謝しました

「神の恵みによって生きる」
コリント12:9,10
「しかし、主は『わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

2月28日に与えられた聖書箇所も私の支えとなりました。
神のみことばに従って行動しようとしている人々に対しては、私もその困難を共有する者でありたいと願って行動しました。
ピリピ4:14
「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」

与えられた務めと使命ゆえの悩み、深い悲しみもありましたが・・・
それ以上の慰めと励ましがありました
そして、新しい年、将来に向けての確かな希望があります

感謝とともに新年を迎えます。
明日は東京教会で合同の新年礼拝です。

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クリスマスを振り返って

2009-12-30 17:55:17 | 教会の風景
クリスマスが過ぎて、今年も残りわずかです。
特に今月は、本当にあっという間に過ぎてしまいました

クリスマス礼拝(20日)の様子です。
賛美・聖書朗読・説教をもって御子イエスさまの降誕を記念し、お祝いしました。







礼拝後は昼食会
行事に定期的に参加してくださるご家族からは・・・
「来るたびごとに明るくなってますね」というコメント。
教会に集まる方々の元気な姿は一つの証しです


今年はベストライフからクリスマス会(23日)の中での賛美の依頼を頂きました。


トーンチャイムで「きよしこの夜」の演奏をしていると、入所者の方々の間から自然にハミングが生まれてきました。
みなさんに喜んで頂けたようで良かったです。
入所しているM先生の励ましにという、施設長さんの計らいに感謝致しました。





その夜は、チャペルコンサートでした。
コンサート前に教会正面通路でキャロリング

ご近所さんだけでなく、通りがかりの方々もしばらく足を止めて聞いてくださいました。

東村山教会のみなさんとYouthの協力も頂いてのコンサートでした
 

 
この夜も、初めてこの教会を訪ねてくださった方々がいました。
いっしょに演奏や歌声に耳を傾けて、救い主の訪れの知らせに思いを巡らしました。
コンサート後はティータイムでした。
今年のクリスマスも良い時間を過ごすことができました


そして、私事ですが・・・
この日、34歳になりました。
ケーキの差し入れもありました


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問題点

2009-12-16 14:36:36 | 最近の読書
「Making Peace」を訳しながら読んでいます。
ペースはゆっくりですが、少しずつでも先に進もうと時間を作っています。

前回の続きです。

文化的問題点

*文化混合主義
異質の、しばしば正反対の信条や実践を無批判のうちにつなぎ合わせてしまう。
たとえば、欧米文化の個人主義・自己実現と聖書的な共同体における他者への愛と奉仕は質的な違いがある。

*消費者中心主義
個人のニーズに焦点を絞り、それを満たすことで成り立つ関係。
「お客様は常に正しい」というマーケティングの視点。

↑確かに、これを牧会の方針に取り入れていたら、教会は混乱しますね
たとえ一時的に表面上の人数は増えても、本来の教会の姿とはかけ離れています

以下、本文(私訳)から抜粋。
教会は、神がご自分の民を形成する霊的な「場所」である。
私たちは、キリストに似た者へと変えられていく民として選ばれている。
私たちはあまりに個人主義的な思考と行動に慣れてしまっているので、対立や危機が起こるまで自分たちの自己中心や不敬虔に気付いて認めることがないが、それは問題である。
神は私たちを自己中心的な必要や鈍感な親密さや安易な受入よりも、はるかに優れた御国に召し入れてくださったのである。
聖書は、自分のことばかりに没頭する世の中の自己陶酔的で自律的な考え方に対して、全く立場を異にする。
神は、私たちの必要を満たす前に、その必要を作り直し、贖うことを望んでおられる。
神は私たちを十字架によって形成された文化へと招いているのである。


構造的問題点

私たちの決断や対立の状況に作用する内外の力の相互関係、システム、構造を理解する必要がある。

その上で、変革には従事する時間とプロセスへの服従が必要となる。
そのプロセスとは・・・  
* 過去の過失を調査し、検証し告白する。
* 根本的な必要、原因、性格や振舞いや考え方の欠点を検証する。
* くり返して行われていた消極的な習慣を忘れる。
* 振舞いと考えの新しい習慣を学び直す。
* 個々の性格と教会文化を再構成する。


やっぱり、本質的な改善のためには時間と労苦が伴うものです。
そして、共に見直そうという意識がなければ、進まないものです
また、その教会のリーダーシップも多大な影響を与えます。

以下、本文(私訳)から抜粋。
もしそのリーダーが教師であるなら、講壇を中心に教会が建てあげられていく。
ひとり芝居は一つの主要なコミュニケーションの手段である。
人々は、詳しく説明する牧師の周りに座って、受身的に聞いているのである。
もしその牧師が伝道者ならば、教会は未信者をひきつけ救いへと導くことで建てあげられていく。
他の多くの場合、相互依存的なチームが形成される代わりに、リーダーはしばしば、たったひとりで働いている。
牧師がチームの形成に抵抗していることさえある。
なぜなら、ある分野で自分より秀でた他者によって脅威を感じてしまうからである。
こうした牧師たちがチームを集めると、牧師に何の脅威もない人々から成るものとする。
つまり、その人々は、みな似たような考えをし、牧師より才能のない者である。
だから、私たちの諸教会は、ひとりの人間の強さと弱さに直接比例して、成長もし、苦しみもするのである。
これらのリーダーは、自治体を作っているとしても、共同体を作っているのではない。
その教会は、容易に対立や個人崇拝に陥るようになる。


任された教会やグループを牧することの重大さを考えさせられます。
この本は、私にとって、教会や牧会について考えるための助けとなっています

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翻訳

2009-12-14 17:59:58 | 教会の風景
先週の祈祷会の後で、出席した方々としばらく雑談しました。
その話の中で聖書の翻訳の話になりました。
普段当たり前のように日本語で聖書を読んでいますが・・・
こうした恩恵の陰には、歴史上の多くの人たちの聖書に対する取り組みがあります。

ちなみに、有力な写本の一つ、シナイ写本ネット上で閲覧できるようになっています。
こちらです⇒ Codex Sinaiticus
そのサイトのSEE THE MANUSCRIPTというところをクリックすると見られます。
興味のある方は一度ご覧になってはいかがでしょう?
単なる文字の羅列のようで・・・単語や文と文の切れ目もよく分かりませんね
もともとは、このような状態、もしくはもっと分かりづらい状態の写本の数々の断片から・・・
今の私たちが手にしている聖書までというプロセスを想像すると、その重みを感じますね。

聖書翻訳の取り組みは常に続いています。
私たちの使っている言葉は時代とともに変化していくからです。
また、聖書に関する様々な分野の研究も常に深められていくからです。
この聖書翻訳も真理を伝えていくための非常に大切な営みです。
そうした働きを担っている方々の存在を覚えて、その働きのために祈りたいと思います。
そして、聖書を丁寧に読む者でありたいです。

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落ち葉

2009-12-03 14:44:34 | 神学校・講座
昨日は、組織神学(キリスト論)の講義のため学校へ行きました。
自分にとって意義深い学びでした。
聖書を学ぶ中で、改めて自分の信仰について思い巡らしています。
今までの二十年近い信仰生活を振り返りながら、自分の「聖書信仰」の在り方を見直しています。

神が本来私たちに伝えたいとしておられる意味で、聖書を受けとめてきたのだろうかという問いが絶えず私の内にあります。
神学校の学びは、私にとって神のことばへの取り組みの点検の場になっています。


さて、いつもどおり昼食と片付けのお手伝いを終えての帰り道。
通い慣れた道ですが、この光景にふと懐かしさを感じました。

 

特別な風景ではありませんが・・・
私の実家には、これと同じ種類の大木が生えています。
少年の頃、祖母や母とこの落ち葉を集めて、小さな炉で燃やしていました。
時には、その火で焼き芋もしました。
今の私の一部を成す原体験なのでしょうか。
ふと、しみじみとした気持ちになりました。


前期の牧会学(カウンセリング)のクラスで提出したレポートも掲載してみようと思います。
まだまだ全然荒削りなのですが、神さまから与えられた恵みの中で、自分なりに取り組んでみたものです。
いつも覚えてお祈りしてくださっている方々への感謝と報告も兼ねて、載せておきます。
お時間のある方はご覧ください



「牧会の現場における 『家族』 という視点」

 現在、私は牧会との関連において「家族」について関心を持っている。牧会の現場において直面する様々な場面の中で、この「家族」という視点を考慮にいれることは、ケアをする人々を理解する上での有効な助けになると考えている。少なくとも、私が見聞きし経験してきた牧会の諸事例において、この点を視野に入れるならばより効果的に対応できたのではないかというケースもある。このレポートで、現在私自身の中で散在している考えをを整理することができればと考えている。


【 家族の子どもに対する影響 】
 心理学の見地から 
 人間観において個人的存在と社会的存在という点で見解は異なるが、フロイトもアドラーも幼児期における環境から受ける人格的な影響の大きさを指摘している。その後の成長の過程で、より多くの人々との関わりから影響を受けるのも確かであるが、基本的な人格形成は幼児期になされると考えられている。セルフイメージの形成に関しては6歳までが痕跡期間と呼ばれて、性格の80~85%、脳の90%がその時期までに完成してしまう*1 という主張もある。 また、人との関わりに影響するバウンドリーの形成も、親との関わりでその基礎が築かれると言われている。その場合、子供への年齢相応の接し方が親に期待される。年齢に不相応な子供への関わりが、その子の人生における対人関係に大きな歪みを生じさせてしまうというのである。その一方で、適切なバウンドリーを形成された子供は、その後の人生において健全な人間関係を築いていく土台を手に入れていることになる。
*1 「セルフイメージの心理学」 丸屋真也 著 ライフプランニングセンター


 聖書に見られる事例より 
 聖書には様々な人物が登場しており、その人物の信仰や生き方から私たちが学ぶことも多い。ここでは、テーマである「家族の影響」という視点で、ひとりの人物を例証として取り上げたい。使徒パウロが伝道旅行に同行させたテモテについて、聖書はこう伝えている。


* 「そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシャ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。」 (使徒16:1,2)
* 「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」 (Ⅱテモテ1:5)
* 「けれどもあなたは学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。」 (Ⅱテモテ3:14,15) 


 非常に限られた情報ではあるものの、テモテの幼少期に関する環境(祖母・母の純粋な信仰/聖書による教育)と人物評が伝えられている。ルステラとイコニオムの地域の教会に属する人々からの信頼やパウロからの信頼から、テモテ自身の日頃の言動に一定の安定感があったことが想像される。そして、パウロのテモテに対する言及では、明らかにテモテの幼少期の環境と関連付けられている。これらのことから、彼の幼い頃の環境も、使徒の同労者として働く資質に影響したと考えられる。彼の場合は、恵まれた環境が好影響を与えたという例である。また、その逆の事例も聖書の中に見出されるであろう。例に挙げるにとどめるが、族長ヤコブの家族関係は典型的であろう。神の一方的な選びという点においては他に比べられない恩恵を受けた一家であるが、複雑な家族関係という点では多くの痛みと悲しみを経験したのであった。


【 家族療法 】 
 さて、ここで私が注目しておきたい一つの療法に進みたい。それは家族療法である。基本的な概念として家族を一つのシステムとして考える。そして、家族の構成員が自分の立場にふさわしい役割を果たして、家族が調和していくように援助する技法。当然のことであるが、家族というものの完全な模範解答や健全と不健全の明確な境界線はない。しかし、一つのシステムとして、より健全で機能的であることを目指すことができるはずである。その結果として、家族の構成員が互いに幸いな人生送るための好影響を受けるようになるだろう。そして、それは聖書の示す家族観とも矛盾しないと思う。


 聖書の示す家族観 
 新約聖書の書簡において、使徒は家族のあり方について主への信仰と関連づけて教えている。

* 「妻たちよ。あなたがた、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)
* 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(5:25)
* 「子供たちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」 (6:1)
* 「父たちよ。あなたがたも子どもを怒らせてはいけません。かえって主の教育と訓戒によって育てなさい。」 (6:4)


 これらの命令から、家族の各自が家族としての責任を互いに負っていることが分かる。福音に基づく信仰は、本来家族との関わりに直接的に反映されてしかるべきものである。そして、互いがここで命じられているスタンスで生きるなら、家族の関係も聖書の真理に方向付けられた一つのシステムとして調和していくはずである。その場合、家族の各人の単なる自律的な意志によって調和を目指しているのではなく、信者である家族はみことばと御霊の働きを仰ぎつつ取り組んでいくことが前提である。


 奉仕者の健全な家族観 
 さらに加えて、聖書では監督や執事の条件(資質)としても家族に関する事項が掲げられている。援助者としての牧会者に家庭を治める能力(健全な家庭を築く資質・人格)が期待されるのはもっともなことである。


* 「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。-自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができましょう。」 (Ⅰテモテ3:4,5)
* 「執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」 (Ⅰテモテ3:12)
* 「それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。」 (テトス1:6)


 教会において人々の援助をするのに、援助者自身の認識や感覚が歪んでいては適切な援助は困難だろう。先の項目で扱った家族の影響という点も考慮するならば、援助者が幼少期に経験した家庭環境も問われることになるだろう。ただし、ここで誤解してはならないのは、不遇な家庭環境で育ったということで援助者の資格を失うということではない。援助者は、自らの生育環境をも理解し、自らのうちにある不健全な家族観や認識の歪みの修正に取り組む必要があるということである。ある程度の認識と感情の修正が伴わないのならば、不用意に他者の援助に向かうことは注意が必要であろう。援助を志す者がまず自分自身を観察し修正していくことは、非常に大変な作業であることは間違いないだろう。しかし、この過程を疎かにしてしまうことは、その後の援助で関わる多くの人々の回復を逃してしまうことになるだろう。


【 まとめ 】
 家庭の崩壊が叫ばれているこの時代、深刻な問題を抱えている家庭も少なくないだろう。残念ながら、それは未信者の家庭だからということだけではないのが現状である。いわゆるクリスチャンホームと呼ばれる信者の家庭でも家族関係の歪みから来る問題が見受けられる。それに適切な対応をするためにも、聖書の示す家族観の確認作業をする必要を感じている。それは牧会の現場でのカウンセリングという場面ばかりでなく、説教や教会行事の方針などにも反映されていくべきであると感じている。また、それと同時に、援助に携わる自分自身の認識や感覚の見直しもしていくべきだろうと考えている。その点では牧師を対象としたカウンセリングを利用することも有益だろう。自らが与えられた使命をふさわしく果たしていくため、また任された人々に最善に仕えていくためには、そうした手段をさえ有効利用していくべきだと思っている。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました

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