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慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

『山東京伝』『岡場所』『江戸生艶気樺焼』『洒落本』

2025年03月28日 | 有名人
🌸四方赤良(大田南畝)との出会い2

⛳山東京伝(洒落本界のトツプランナー)
 ☆吉原で、紀伊國屋文左衛門
 *毎晩のように豪遊し、吉原の大門を開めて、遊女を独占して遊んだ
 ☆深川には、「岡場所」と呼ばれる遊郭があった
 *江戸では、吉原以外での売春は非公認だったが
 *深川、品川、赤坂、内藤新宿など最盛期には
 *百数十力所もの半分公認の私娼地「岡場所」があった
 ☆「岡」というのは「傍ら」とか「はた」という意味
 *吉原のような高い格式や面倒なしきたりがなく
 *初会から床入りできたうえに安く遊べた
 *懐の寂しい男たちが客となって、これまた栄えた
 ☆深川はお城の辰巳(東南)にあったから
 *深川芸者のことを「辰巳芸者」とも呼んだ
 ☆深川に生まれ育った山東京伝
 *若い頃は長唄と三味線を学び、絵画は北尾重政に学んで
 *プロとして挿絵や錦絵を描き、大流行していた狂歌も詠んだ
 *蔦重と出会い、狂歌仲間の喜三二、赤良、飯盛などの
 *豪華な先輩方々のメンバーと一緒に吉原で遊んだ
 *蔦重は山東京伝の11歳年上だったものの妙に気が合った
 *兄弟の盃を交わして一緒に狂歌を詠み捨てていた

⛳京伝の代表作『江戸生艶気樺焼』
 ☆京伝は黄表紙も手掛けるようになる
 *恋川春町ばりに二刀流で活躍した
 ☆『江戸生艶気樺焼』の筋書き
 *百万長者仇気屋の一人息子の艶次郎好色好き
 *艶二郎、二十両を芸者に渡して「艶二郎にほれた」と家に駆け込ませ
 *さらに十両はずんで近所に聞こえるように大声で叫ばせた
 *ところがちっとも浮名は流れない
 *更に艶二郎は、お金を積んでその芸者とのことを瓦版にしたものの
 *「こんな瓦版、嘘八百に違いないわ」とバカにされる始末
 *艶二郎、金持ちで、みんな頼みを聞くんだという噂を聞いた艶二郎
 *親から勘当されて貧乏になりたいと願いでた
 *75日限りの勘当が認められたものの
 *その間も母親が、お金を送ってくれる
 *「狂言心中」して、吉原の遊女「浮名」を身請けして
 *お揃いの小袖に辞せの匂を染め抜き、吉原中に配らせた
 *狂言心中というそのときに強盗に道い
 *二人は丸はだかの道行となる
 *皮肉なことに、このへっぽ心中事件の噂は世間へと広がった
 *このときの強盗は、父親と番頭が変装し、全部が狂言だった
 *父親に説教された艶二郎は、やっと世の中のことがわかって反省し
 *一緒に狂言、心中した遊女「浮名」
 *艶二郎が醜男なのを我慢し、夫婦となり、その後はお店も繁盛した

⛳洒落本(吉原を舞台のリアリティー溢れる滑稽文学)
 ☆「洒落本」は、吉原遊郭を舞台にして当世風俗を描く文学
 *吉原は、日常と地続きにして非日常、男の夢、別天地
 *女房をだましてでも行きてえ場所で、オチがつく場所でもあった
 ☆四方赤良や朱楽菅江も洒落本を書くには書いた
 *山東京伝の登場で、洒落本というジャンルは完成の域に達した

まるでラップバトル!?「茄子のしん焼き」で狂歌合戦
 ☆狂歌仲間の寄合で酒のツマミに「茄子のしん焼き」が出た
 *薄く切った茄子を油で揚げたものに味噌を塗り
 *それに串を刺して食べるもの
 *形が鳥の鴨に似ていることから「茄子の鴨焼」と呼ばれ
 *江戸風の言い方で「茄子のしん焼き」となったものだ
 ☆赤良大先生がその「茄子のしん焼き」を見て、「閃いた!」と言って
  『小娘もはやこの頃は色気付き油つけたりくしをさしたり』と詠んだ
 ☆それに対して山東京伝も詠んだ
  『油つけ串をさしたはよけれども色が黒くて味噌をつけたり』
                         (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』




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『大田南畝』『寝惚先生文集』『虚言八百万八伝』

2025年03月27日 | 有名人
🌸蔦重、四方赤良(大田南畝)との出会い

蔦重次の標的は、文人墨客最大のネットワーカー四方赤良
 ☆狂名「四方赤良」 一般的には大田南畝や寝惚先生等である
 *赤良は下級武十であると同時に、狂歌師や戯作者、学者等で活躍し
 *マルチな才能を持つ江戸を代表する文化人でもあった
 ☆赤良は、昼は真面目な幕臣、夜は多くの狂歌仲間と戯れる粋な文化人
 *二つの顔を見事に使い分けた人物

⛳大田南畝は、幕府の能吏で江戸文化の中心にいた男
 ☆大田南畝は早熟の天才だった
 *赤良の名を一躍有名にしたのは、 狂詩集『寝惚先生文集』
 *そのとき赤良はまだ19歳
 ☆狂詩というのは漢詩のパロディー
 *狂歌が高雅な和歌のパロディーであった
 *高尚な漢詩を俗に落とし込んで笑いを生む手法
 *江戸っ子のツボにはまった

⛳蔦重『赤良の人脈」をありがたく活用した
 ☆赤良と蔦重の付き合いが始まった
 *文化人として名の高かった赤良は蔦重は知っていた
 ☆赤良は蔦重の一つ年上の先輩で
 *遊び友達で、経営する版元の首脳ともいえる重要な人物となった
 ☆赤良が催した五夜連続の観月会
 *70人余りもの文人墨客が訪れたという
 *蔦重はそんな赤良の周りにいた
 *当代一流の文人墨客たちと交流し、ネットワークを広げていった
 ☆赤良としても蔦重から
 *狂詩・狂歌集を出すだけでなく
 *洒落本、黄表紙、滑稽本、また黄表紙の評論家として
 *江戸文の全般にわたって活躍する場を提供された
 *まさにお互いウィンウィンの関係だった

⛳面白おかしい『虚言八百万八伝』を出版
 ☆黄表紙の出版業を本格化した蔦重
 *版元として赤良の『虚言八百万八伝』を出版した
 ☆『虚言八百万八伝』とは
 *千に二つしか本当のことを言わないウソつきを「十二つ」と呼ぶ
 *万のうち八つしか本当のことを言わぬ「万人」の話の本だ
 *万八が奥州の寒さを語るには、「寒さのせいで言葉が凍る」という
 *隣のばば様に、「ばば様、茶がへえったぞ」と声を掛けても
 *その声は凍りついて壁にへばり付いてしまい、ばば様には届かない
 *春になって暖かくなると、その声が壁から溶け出し
 *いっせいに「ばば様、茶がへえったぞ、茶がへえったぞ、茶が……」
 *作者は「四方屋本太郎」赤良の別名だ
                         (敬称略)
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『出版界の風雲児・蔦重』『恋川春町』

2025年03月26日 | 有名人
🌸「時代と寝る男」蔦重の大躍進2

出版界の風雲児・蔦重を取り囲む文人墨客ネツトワーク
 ☆当時の蔦重の周りを取り囲むメンパーは豪華絢爛
 ☆狂歌仲間
 *朋誠堂喜三二(手柄岡持)
 *宿屋飯盛(石川雅望)
 *四方赤良(大田南畝)
 ☆絵師
 *勝川春章(葛飾北斎の師匠)
 *北尾重政(北尾派の祖)
 *北尾政美(鍬形恵斎)重政の弟子
 *鳥居清長(鳥居派の絵師、八頭身の美人画を確立)
 *喜多川歌麿(美人大首絵の元祖)
 ☆二刀流
 *恋川春町(酒上不埒)
 *酒井抱一(尻焼猿人)
 *山東京伝(北尾政演)
 ☆次世代を担う若者
 *十返舎一九(蔦重の家に寄宿し東海道中膝栗毛の作者)
 *曲亭(滝沢)馬琴、読本の第一人者
 *葛飾北斎(世界的な浮世絵師として有名)

⛳蔦重の成功に欠かせなかった男―恋川春町
 ☆蔦重が出版界の風雲児となるために、欠かせない人物が何人かいた
 *その一人が恋川春町だった、喜三二とお神酒徳利の春町
 ☆春町は駿河の小島藩に仕える武士で、留守居役として江戸に住んでいた
 *春町は、狂名「酒上不埒」を名乗って狂歌もよくした

⛳一春町&喜三二の強カコンビで耕書堂は絶好調
 ☆江戸留守居役の春町は、吉原通いをしているうちに
 *吉原に日参している喜三二と知り合って兄弟の盃を交わす仲になった
 ☆蔦重が吉原大門前に書店を構えた3年後
 *春町はメガトン級の作品を世に問うた
 *それが自画自作の「金々先生栄花夢』だ
 ☆「金々先生」とは当時の流行り言葉で
 *身なりのいい当世風の伊達男を指すと同時に
 *自己満足の成金趣味を椰楡する意味も含まれていた
 ☆天明年間に入ると、鱗形屋が経営破綻しちまった
 *喜三二は仲良しだった蔦重のところに版元を代えた
 *お神酒徳利の春町も蔦重の耕書堂から黄表紙を出すようになる
 *蔦重が吉原でさんざん二人を「おもてなし」したのはトーゼン
 *この強カコンテンツコンビを手に入れたおかげで
 *耕書堂の経営は順風満帆となった
 ☆二人の作風は少し違っていた
 *年下の春町のほうが大胆で独創的
 *喜三二は年上の滑稽味温れるゆったりとした印象だった
 *喜三二の書いた約20の黄表紙の約半分に、春町は挿絵を描いている
 ☆本当に仲良しの2人
 *蔦重の耕書堂に移ってからも、ベストセラーを出し続けた
 ☆当時、狂歌や戯作は遊びとみなされていて
 *本を出すのは基本的に「自弁」自費出版が多かった
 *当然、印税なんてものはあるはずもない
 *2人にとり、蔦重におもてなししてもらえるだけでも儲けもの
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『万載狂歌集』『日本橋耕書堂』『大田南畝』

2025年03月25日 | 有名人
🌸「時代と寝る男」蔦重の大躍進1

⛳狂歌界の二大巨頭が激突
 ☆世の中はバブルに踊り、享楽的なムードが漂っていた
 *世の中は、狂歌ブームが頂点を迎えた
 *唐衣橘洲撰『狂歌若葉集』と、四方赤良撰『万載狂歌集』が刊行された

 *狂歌界の2大巨頭が激しくぶつかったこの2冊の本によって
 *狂歌は爆発的流行を見た
 ☆狂歌三大家が、二つに分かれての大喧嘩
 *狂歌界の主導権争いが勃発し、この戦いに江戸っ子は大注目
 ☆江戸っ子も2つに分かれて大喧暉だ
 *勝負は、本の売れ行きではっきりとついた
 *赤良側が完全勝利、橘洲側は落ちぶれていった
 ☆橘洲も赤良も先輩として尊敬していた蔦重
 *仲間割れみたいで、やるせないが
 *蔦重はこの天明の狂歌ブームに商売のチャンスを見出していた

⛳『万載狂歌集』の爆発的ヒットに商機を見た蔦重

 ☆大ヒットした赤良の『万載狂歌集』の版元は須原屋
 *須原屋は江戸時代初期からの江戸の版元
 *須原屋は丸の内地域に居住していた武士を対象に
 *旗本・大名の名鑑である「武鑑」の出版を一手に引き受けていた
 *仏書・儒書・医書など公的な書物を多く手掛ける硬派の版元で
 *須原屋は、狂歌など遊びの文芸にはあまり興味を示さなかった
 ☆蔦車にとってこれはチャンスだった
 *蔦重の周りには、第一級の才能を持つ文人墨客が多数いた
 *吉原という磁場が多くの才能を引き寄せていた
 *その発生の場の中心に蔦重はいた、ラッキーな男だった
 「吉原は重三(蔦童)、茂兵衛は丸の内」にいわれるようになる

⛳花の日本橋に「耕書堂」が進出

 ☆蔦重が目を付けたのが
 *吉原で「おもてなし」をしていた文人墨客とのネットワークだった
 *やがて葛飾北斎と並び称される北尾政美
 *同じく弟子の北尾政演、のちに江戸琳派の祖となる酒井抱一
 *美人画で大ヒットを飛ばす喜多川歌麿、そうそうたる絵師たち
 ☆蔦重にとって大きかったのは
 *狂歌界最大のネットワーカー四方赤良(大田南畝)との出会い
 *赤良、菅江、恋川春町、蔦重の総勢四人で吉原の大文字屋で遊んでる
 ☆星の如き才能を目の前にして蔦重は思った
 *吉原で構築した文人墨客たちとのネットワークを生かして
 *狂歌絵本や戯作、浮世絵の出版へとつなげることがオレの使命だと
 ☆蔦重は、流版元が軒を連ねる日本橋の通油町の地本問屋の店舗を
 *買い取り、そこに新たに「耕書堂」をオープンした
 * 『花のお江戸に耕書堂あり』と高らかに宣言した
 ☆田沼時代のど真ん中、蔦重も24歳、バリバリの男盛りだ
 *「時代と寝る男、蔦重」の真価を発揮するときが、いよいよやって来た
                         (敬称略)
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『平賀源内』『源内の獄中死』『源内男色家』

2025年03月24日 | 有名人
🌸蔦重が版元へと出世6

⛳源内「不遇」天才(鬱憤を創作で晴らす)
 ☆源内の天才ぶりは世間の耳目を集めていた
 *あり余る才能を持ちながら
 *山師扱いされて仕官はかなわず、不遇に甘んじていた
 *源内は仕官先も無く鬱憤が溜まっていた
 *戯作者としては「風来山人」と名乗った源内
 *その鬱憤を晴らすかのように
 *社会や世相を批判する本をいくつも書いた
 ☆源内、「謎の水死事件」を題材にして書いている
 *実際起きた事件の女形の歌舞伎役者、二代目荻野八重桐を題材に
 *一つ間違えば幕府に呪まれて「御用」ってところだ

⛳「平賀ぶり」ブラックな笑いがさく裂
 ☆「八重桐水死の真相やいかに」
 *話はフアンタジーを通り越して奇想天外
 *神話や昔話を下敷きに、鬼や河童はもちろん
 *天照大神や竜宮城の龍Iまで登場するオールスターの豪華メンバー
 *興味津々で読み進むと、話は出鱈目、全編ギャグの大嵐
 ☆源内の真の目的
 *封建的な幕藩体制に対する批判と
 *囚習に縛られた社会への風刺と罵倒
 *地獄の閣魔様や竜宮城の龍王はあくまでカモフラージュだった
 ☆本を読んだ江戸っ子や武士階級の一部
 *源内の本の意図を感じ取り
 *その痛快さに腹をよじって笑った
 ☆源内が幕府の権威や封建社会を
 *手当たり次第にコケにしていく様は
 *痛快極まりないものがあった
 *「平賀ぶり」がさく裂するのを
 *心待ちにしていた読者は多かった

「マルチな活躍」があだに(源内、獄中で死す)
 ☆源内と『解体新書』の関係
 *解剖図を描いた画家の直武と知り合ったのは
 *源内が鉱山開発の技術指導のために角館を訪れたとき
 *若き直武の画才を見込んだ源内
 *直武に西洋絵画の技法を教えた
 *それが『解体新書』の解剖図の表現に生かされた
 ☆マルチに活躍していた源内
 *大名屋敷の修理中に大工の棟梁2人を殺した
 *大切な修理計画書を盗まれたと思った源内
 *怒りに任せて2人の男を殺してしまった
 *実は源内が酔っぱらっていたために起きた勘違いだった
 ☆源内は殺人罪で投獄され
 *その一カ月後に獄中で破傷風にやられて死んだ
 *早すぎるその死を多くの人が惜しんだ

⛳源内先生は男色家
 ☆孤高の天才平賀源内の死は老中田沼意次の耳にも届いていた
 *意次は源内のことを高く評価していて
 *長崎の出鳥に遊学させたこともあった
 ☆源内は男色家で生涯妻帯せず、子供もいなかった
 *当時、男色(衆道)は武士のたしなみであり
 *それほど珍しいことではなかった
 *源内は数人の男性と同居していた
 ☆源内は男色関連の著作を著している
 *源内は「吉原細見」の男娼バージョンを書いたた
 *男色者には歌舞伎役者の卵も多かった
 *「役者買い」と呼ばれたが
 *彼らは若くて美男子なうえに
 *贔眉の客を作るためという切実な理由もあった
 ☆源内は「若侍百人と御殿女中百人同時に交わる」話の好色本等
 *書名から想像するだけでもヒワイな本も書き残している
 *源内は、天才は奇人・変人の見本のような人だった
                         (敬称略)
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『青楼美人合姿鏡』『北尾重政』『一目千本』『平賀源内』『解体新書』

2025年03月23日 | 有名人
🌸蔦重が版元へと出世5

『青楼美人合姿鏡』(江戸っ子のハートをわしづかみ)
 ☆蔦重が本を作るにあたって頼りにした北尾重政

 *重政は絵の才能を発揮したが師に付かず独学で絵を学んだ
 *重政,「北尾派」を創始する
 ☆蔦重が版元で初めて出した作品「一目千本」
 *挿絵を担当したのが重政だった
 *遊女を花に喩えて描いたもので
 *趣向を凝らした花器に美しい花が生けられている絵
 *満載の豪華な造りだった
 ☆蔦重が出版界に本格的に乗り出した際も
 *重政は勝川春章との合作『青楼美人合姿鏡』を刊行して
 *江戸っ子のハートをわしづかみにした
 *息をのむほどの美しさの絵だった

⛳北尾重政と門弟が続々と蔦重ファミリーに
 ☆『青楼美人合姿鏡
 *各妓楼自慢の遊女たちが着物姿のの艶やかな様子
 *手の込んだ多色摺で仕上げた
 *驚くべきは、巻末に彼女たちの作による発句が掲載されていた
 *遊女は美しさ、豊かな教養を備えていることがわかる本になっていた
 *これこそが、蔦重が最も世に訴えたかったことだった

 ☆蔦重、この本によって江戸の出版界の寵児として躍り出た
 *重政・春章コンビの力に負うところが大きかった
.
万能の天才平賀源内と蔦重の交歓
 ☆吉原大門前に書店「耕書堂」を構えた蔦重
 *「吉原細見」で確実に稼ぐ
 *恋川春町と朋誠堂喜三二、北尾重政らの助けを借り
 *版元として歩み出していた
 ☆世は「田沼時代」に入り
 *貨幣経済が発達して大都市江戸がバブリーな様相を呈し始める
 ☆文化的にも田沼時代を象徴する出来事がいくつかあった
 ☆『解体新書』日本語に翻訳した本

 *翻訳したのは蘭方医だった杉田玄白や前野良沢らだった
 *翻訳作業は終わったが、解剖図を写し描くのにいい画家がいない
 *助け船を出したのが玄白の友人平賀源内
 *小田野直武(久保田藩角館の藩士で画家)を紹介した
 *源内の紹介で「解体新書」の図版の原画を描くことになった直武
 *半年という短期間で見事な解剖図を描いている
 *「解体新書』は日本橋の版元・須原屋市兵衛のもとで刊行された
 ☆『解体新書』は幕府の禁忌に触れる可能性があったが
 *世は「田沼時代」.蘭学にも寛容だった意次
 *「解体新書」という画期的な書を咎めることはなかった

⛳宣伝効果抜群(平賀源内に蔦重「吉原細見」の序文を依頼)
 ☆平賀源内という男はとんでもない天才だった
 *活躍した分野、本草学、地質学、蘭学、医学4の分野を制覇
 *さらに、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家
 *最後に「源内といえば、火洗布やエレキテルの発明」
 *土用の丑の日に鰻を食べる風習を流行させたのも源内
 *さらに歯磨き粉のCMソングの作詞作曲を手掛けたり
 *有名店の餅の広告コピーまで手掛けたりしている
 ☆源内は蔦重より20歳以上も年上だったが
 *蔦重、改訂を頼まれた鱗形屋版の「吉原細見」の序文を源内に頼んだ
 *頼まれればなんでも引き受けるのが源内
 *蔦重のために見事な序文を書いてくれた
 *「時の人、天才平賀源内先生の序文付」は宣伝効果は高く
 *様々な工夫を凝らしたこともあり
 *初めて蔦重が編集に関わった「吉原細見」の売り上げは絶好調だった
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『鱗形屋廃業』『喜三二・春町・蔦重コンビ』『桃太郎後日晰』

2025年03月22日 | 有名人
🌸蔦重が版元へと出世4

⛳「江戸留守居役」の2人吉原通い(情報収集と称し)
 ☆喜三二は、武士としての顔である江戸留守居役
 *参勤交代で秋田からの殿さま一行をお迎えする際
 *「おもてなし」をすることが重要な仕事
 *「おもてなし」のなかに吉原などの花街の案内も含まれていた
 ☆喜三二は仕事の一環として
 *毎日吉原通いをして情報を収集していた
 *吉原で知らぬ人はない通人喜三二
 *喜三二は、恋川春町というこれまた通人と出会った
 ☆春町は駿河の小島藩(静岡市周辺)に仕える武士
 *喜三二同様、江戸留守居役をし吉原通いをしていた
 *境遇が似ていたこともあって二人は意気投合した

⛳「二人三脚スタイル」で大儲け
 ☆春町は絵も文もよくする二月流、喜三二は文のみの一刀流
 *喜三二が書いた文章に春町が絵を描く二人三脚のスタイル
 *春町はすでに「金々先生栄花夢』という名作を出していた
 ☆喜三二は、桃太郎の後日譚(たん)『桃太郎後日晰』、『鼻峯高慢男』等
 *鱗形屋から出し絵は春町が担当した
 ☆「鼻峯高慢男」は、生まれつき鼻の低かった男
 *高慢ちきになると鼻が高くなり、慢心を改めると低くなり
 *最後には獅子鼻になるというオチで締めくくられている
 ☆喜三二と春町のお神酒徳利コンビは売れっ子だったが
 *この段階での版元はすべて鱗形屋だった

⛳鱗形屋孫兵衛が廃業(蔦重は「出版界の寵児」へ)
 ☆喜三二は商才ある若き蔦重に肩入れし
 *蔦屋版「吉原細見」の序文や遊女評判記などを書いていた
 ☆重板事件をきっかけにして経営不振に陥った鱗形屋
 *やがて版元を廃業してしまう
 *江戸の有力地本問屋として、黄表紙という新ジャンル
 *切り拓くという画期的な活動をしていた鱗形屋
 *百年以上の歴史に幕を下ろした
 ☆鱗形屋孫兵衛
 *蔦重の商売上の父親代わりともいえる存在だった
 *心に穴があいたような気持ちになった蔦重だったが
 *鱗形屋に代わり、今度は蔦重が江戸の出版界をリードした
 ☆蔦重は黄表紙を出版し始めた
 *鱗形屋から喜三二と春町という二枚看板をそのまま得て
 *二人の黄表紙作品を連発し、ベストセラーを重ねていく
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『金々先生栄花夢』『鱗形屋重板事件』『朋誠堂喜三二』

2025年03月21日 | 有名人
🌸蔦重が版元へと出世3

⛳黄表紙(「大人の読み物」滑稽のうちに社会を風刺した書物)
 ☆「金々先生栄花夢』
 *子供のための読み物だった草双紙
 *「金々先生栄花夢』の登場によって、大人が楽しむものになった
 *「金々先生栄花夢」の作品は、社会や世間という表面をうがち
 *隠された真実や弱点を暴露する本だった
 ☆『黄表紙』
 *封建社会の厳しい現実のなかで、自由空間だった吉原遊郭の様子をうがち
 *現実生活や世相の裏にある実相を鋭くうがった『金々先生栄花夢』
 *大人のための読み物として「黄表紙」と呼ばれるようになった

⛳出版界に激震!重板事件で鱗形屋が大打撃
 ☆春町の人ヒット作『金々先生栄花夢』を刊行した鱗形屋ウハウハ
 *しかし、鱗形屋の手代徳兵衛が、大坂の版元の本を勝手に改題して
 *鱗形屋の本として売り出すという罪を犯してしまった
 ☆「重板」と呼ばれる犯罪行為だった
 *この違反行為は見つかり、張本人の徳兵衛は財産没収のうえ
 *江戸十里四方追放という厳しい処罰を受けた
 *鱗形屋孫兵衛も責任を問われ、罰金二十貫文を科せられた
 ☆鱗形屋は、社会的信用を失ったことが商売に大きく響き
 *鱗形屋はその年の秋の「吉原細見」の刊行を見送る
 *このチャンスを逃す蔦重ではなかった
 ☆蔦重は、蔦屋版「吉原細見」(『離の花』)を出版した
 *蔦屋版の「吉原細見」は鱗形屋版と違う工夫がされていた
 *鱗形屋版は1ページに、1軒の遊女屋が載っていたが
 *蔦屋版は大型で、 1ページに上下にらみ合いの形式で妓楼を掲載した
 *読者は見やすくなり、一方の版元も半分ですんだ
 *遊女のランクがひと目でわかるように印を付けた
 *揚代(遊び代)を明確にし、遊女の動向をいち早く入手して反映させた
 *蔦屋版には吉原の芸者一覧といったオマケまで掲載されていた
 ☆翌年の春には鱗形屋版も復活した
 *安いうえに最新情報が満載だった蔦屋版が売り上げを伸ばし
 *鱗形屋版を駆逐し、「吉原細見」の出版は蔦屋版が独占する

⛳売れっ子お神酒徳利コンビ(朋誠堂喜三二と恋川春町)
 ☆吉原に日参する手柄岡持という狂名を持つ武士がいた
 *本名を平沢常富といい、江戸留守居役をしていた人物だった
 *常富、武士以外の顔をいくつも持っていた
 *戯作者としては朋誠堂喜三二の名で知られ、狂名は手柄岡持
 ☆才能温れる男と蔦重は知り合って昵懇の仲になり
 *さらに一緒に仕事をすることになる
 ☆平沢常富は数かすの名前を持っていた
 *朋誠堂喜三二、手柄岡持、亀山人、道陀楼麻阿、雨後庵月成、平角等
 *基本的には一番メジャーな「喜三二」の名で通す
                         (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』





『金々先生栄花夢』『鱗形屋重板事件』『朋誠堂喜三二』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』記事他より画像引用)
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『耕書堂』『一目千本』『雛形若菜の初模様』『富本節稽古本』

2025年03月19日 | 有名人
🌸蔦重が版元へと出世1

版元デビユー(たくましい商魂!「遊女評判記」で蔦重)
 ☆蔦重は吉原遊郭唯一の出入り口である「大門」の前に
 *店舗「耕書堂」を構えた
 *吉原を訪れる遊客は必ずこの店の前ので、商売繁盛間違いなしの場所
 ☆鱗形屋から毎年二回発行される「吉原細見」を扱った蔦重
 *順調に売り上げを伸ばした
 ☆蔦重、1年で版元の仲間入りを果たした
 *蔦重『一目千本』『急戯花乃名寄』を刊行する
 ☆『一目千本』『急戯花乃名寄』
 *吉原遊郭に実在する遊女を挿花に見立てて紹介する「遊女評判記」
 *この本、妓楼や遊女がお得意先などに配る販促物
 *翌年刊行の一「急戯花乃名寄』も同様だった
 *蔦重は、妓楼や遊女からあらかじめ出資を募って、本を制作した
 *売らずとも儲けが出る仕組みだった
 ☆蔦重の背後には鱗形屋がいた
 *鱗形屋のバックアップがあったからこそ、版元になれた

蔦重「遊女たちのフアッション誌」を西村屋与八と共同出版
 ☆先輩地本問屋の西村屋与八と組んで作品を世に出した
 *蔦重は『一目千本』を出した次の年
 *与八との共同出版を企画した
 *与八の得意分野は美人画
 ☆アイデアマンの蔦重
 *判型を従来の中判から大判へと変えた
 *百枚超えの揃物とすることでインパクト抜群の本とした
 ☆『雛形若菜の初模様』と銘打たれたそのシリーズ
 *吉原の花魁や遊女たちを描いたもので
 *絵師・儀田湖龍斎にとり代表的な作品群となった
 ☆タイトルの「若菜の初模様」
 *この本のコンセプトは、吉原の遊女たちをモデルにした
 *春に流行する着物や髪形などを描いた最新カタログだった
 *発売にあたり、呉服屋とタイアツプしていたので
 *蔦重は、「さきに広告費をもらっておき必ず元を取る作戦」の本
 ☆『雛形若菜の初模様』を手にした読者
 *吉原を代表する遊女たちのファッションショーを見ている気分になれた
 *この本は、大好評を博すとともに
 *それまでの美人画の判型を中判から大判へと変える
 *記念碑的な作品でもあった
 *途中からは西村屋の単独刊行となった
 *のちに二代目を継いだ西村屋与八と蔦重とはライバル関係となる
 *江戸の出版界を盛り上げていくことになる

⛳蔦重江戸浄瑠璃「富本節」に目を付けて大成功
 ☆「吉原細見」は春と秋、年二回の定期刊行物
 *「吉原細見」の卸と小売りだけでは一本足打法だ
 *もう二、三本利益の柱がほしい
 *蔦重は、流行していた富本節に目を付けた
 ☆三味線の音に乗せて歌い語る江戸浄瑠璃
 *「〇〇節」と呼ばれる流派がいくつか出てきた
 ☆富本豊前縁が創始したのが「富本節」
 *富本豊前太人は、馬面ながら美声の持ち主で
 *人気を博し、全盛期を迎えていた
 *蔦重はその人気に目を付け、 富本節の正本と稽占本の出版を手掛けた
 ☆人気のある富本節の本を出せるようになった方法
 *蔦重は、富本節の稽古本出版の株を持っていた、伊賀屋の娘と結婚した
 ☆富本門弟の師匠が増えて稽古所が増えるなか
 *稽吉本の需要は飛躍的に増加し、 飛ぶように売れた
                       (敬称略)
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『遊女の身請け』『誰袖』『苦界十年』『切見世』

2025年03月18日 | 有名人
🌸遊女の「身請け」費用

⛳お気に入りの遊女を「身請け」したいとき
 ☆花魁や遊女たちの多く、貧しい農村から遊郭に売られてくる者が多い
 *売られてきた際の「身の代金」は遊女たちの借金になっていた
 *又、自分持ちの衣装代や借金の利子が高額なので
 *働いても働いても借金が減らないシステムだった
 *十年を目途に設定されていた年季明けで
 *借金を返し終わる遊女、ほとんどいなかった
 ☆遊郭のお客さんである男性が、気に入った遊女を指名して
 *仕事を辞めさせることを「身請け」と呼んだ
 ☆身請けされる遊女はとても幸せな女性ともいえたが
 *妓楼側としてはまだ借金の残っている遊女だけに
 *身請け金はそれなりの値段を吹っかけた
 ☆身請け金額
 *遊郭のなかで一番下位の遊女でも身請け金は50両(500万円)
 *「高尾大夫」太夫のなかでも筆頭格。二千五百両(約二億五千万円)
 *更に、祝儀等含めて、六千両(約六億円)もの金額を使ったという
 ☆榊原家の豪遊が幕府に知られないワケがない
 *質素倹約政策を進めていた吉宗の怒りを買い
 *お咎めを受ける事態になった
 *榊原家は改易こそ免れたものの
 *姫路から越後高田へ移封となる

⛳売れっ子遊女「誰袖」をめぐる横領事件
 ☆高尾ほどの大名跡ではないが
 *吉原大文字屋の遊女「誰袖」が
 *土山宗次郎に見初められて身請けされた
 *宗次郎という男は、田沼意次の懐刀でもあった
 ☆誰袖は売れっ子遊女で、身請け金はなんと千二百両
 *意次が失脚するに及んで宗次郎の横領が発覚した
 *宗次郎はその追及を逃れるために、あろうことか逐電した
 *見つかって身請けから三年後斬首に処された

⛳「苦界十年」の竜味
 ☆遊女のほとんどは、実家に渡した前借金の返済に縛られた
 *完済するまでは自分の意志でやめることはできなかった
 *十代後半から働かされていた遊女たちの年季明けは
 *十年後の二十年代後半のはずだった
 ☆遊女たちの平均寿命は二十三歳にも満たなかった
 *劣悪な環境のもとで働かされていた彼女ら
 *体を壊したり、また梅毒などの病気に罹ったりして若くして亡くなった
 *年季明けまで務められる遊女自体、それほど多くなかったと
 *大半の遊女たちの寿命は、年季明けの前に尽きていた
 ☆遊郭で亡くなった遊女たちの遺体
 *「投げ込み寺」の境内に持ち込まれ、小銭を添えて放置された
 *身内が遺体を引き取って弔うというケースは稀だった
 ☆吉原からの脱走
 *吉原の出入り口は扉のない「大門」のみ
 *男が入る分には問題なかったが
 *女が大門をくぐって外に出るためには
 *「切手」と呼ばれた通行手形を提示する必要があった
 *女が吉原を出ることは簡単なことじゃなかった
 ☆吉原での暮らしが辛くなって逃亡しようとする遊女もいた
 *ほとんどが「お歯黒どぶ」に阻まれて失敗した
 ☆「切見世」は、最底辺の遊女屋
 *「お歯黒どぶ」に沿って東西の河岸に「河岸見世」エリア
 *遊女たちは、ふすまで仕切られた二畳ほどの部屋の中で
 *お客の相手をしていた
 *揚代も安く、花魁のようにお客を選ぶこともできない
                         (敬称略)
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『明暦の大火』『遊郭吉原人形町⇒千束』『吉原の文化』

2025年03月15日 | 有名人
🌸幕府公認の遊郭吉原

⛳治安維持のため日本橋人形町で「集中管理」
 ☆江戸の街、肉体労働をしたあとに入る風呂屋ができると
 *そこにはサービスする女性(湯女)が登場する
 *男たちの夜の欲望を満たすべく
 *江戸市中に小さな女郎屋ができる
 ☆犯罪や事件が多発するのも当然
 *幕府は治安維持のため
 *日本橋に遊郭を設置することを公認した
 *公娼制度のもとで女郎屋を集中させ
 * 一括管理したほうが効率がいいので、吉原遊郭が誕生した
 ☆「吉原」という名前の由来
 *未開発だったこの地域に葦(吉)が生い茂っていたが
 *縁起をかついで「吉」を当て字として使用した

明暦の大火で「元吉原」が全焼、浅草「新吉原」ヘ
 ☆草深い湿地帯にすぎなかった吉原の地
 *数十年も経たないうちに市街化が進む
 *武家や大名らの遊興の場としては、職住遊接近
 *これじゃあオチオチ遊んじゃいられない
 ☆明暦の大火が起きて吉原遊廓も全焼してしまった
 *浅草寺の裏手にあたる千束村へと吉原は移転した
 *規模は1.5倍に拡大し、昼夜を問わず営業が許可された
 *ライバルだった湯女を抱える風呂屋を廃止させる
 *吉原は幕府公認の遊郭として独占的に営業できるようになった
 ☆「江戸三大大火」
 *明暦の大火、明和の大火、文化の大火
 *「明暦の大火」別名「振袖火事」とも呼ばれる
 *明暦の大火は延焼面積、死老ともに江戸時代最大の大火
 *江戸城天守や大名屋敷をはじめ、市街地の大半を焼失した
 *死老数については定かではないが、最低で3万人が亡くなったのでは

⛳吉原に育った「独自の文化」
 ☆十八世紀前半の吉原の総人口は八千人強
 *男性約二千人に対して、女性は約五千人(内遊女は二千人強)
 *吉原は発展を続け、田沼時代に隆盛を極めた
 *そのタイミングで活躍したのが、蔦屋重二郎
 ☆「江戸の華」ともてはやされた吉原
 *たんに遊女を集めた遊郭街という性格のものじゃなかった
 *幕府や各藩の有力武家たち、豪商たちの
 *社交や情報交換・接待場所としての性格も持つようになった
 *文人粋人たちの集うサロンとしても機能した
 ☆「日干両(一日千両の金が動く)」と言われた場所
 *朝に日本橋の魚河岸、昼に浅草の歌舞伎
 *夜に遊女数千人を抱える超一流の遊郭「吉原」
 ☆吉原は景気の波に左右されやすいうえに火事も多かった
 *吉原は、山あり谷ありと時代に翻弄されながらも
 *激動の幕末や明治維新後も存続した
 *「売春防止法」が施行され、政府公認の売春制度は廃止され
 *吉原も幕を閉じることになった
 ☆今の時代の感覚からすると、信じられないが
 *幕府(政府)公認の売春街があった
 ☆その為、 三百年以上続いた吉原には独自の文化が育った
                        (敬称略)
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(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』記事他より画像引用)
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『蔦屋重三郎(蔦唐丸)』『狂歌・狂名』『江戸っ子』

2025年03月10日 | 有名人
🌸蔦屋重三郎、吉原に誕生す2

蔦屋重三郎、狂名「蔦唐丸」を名乗り「吉原連」に仲間入り
 ☆狂歌三大家たちの作る狂歌に触れ、江戸っ子たちは思った
 *西行レベルの和歌は詠めないが
 *この程度の狂歌ならオレだつて詠めるぜと思った
 *狂歌は「大喜利」に近く、同好の士たちが集まって楽しむものだった
 ☆クチコミで輪を広げていき、 一大狂歌ブームが巻き起こった
 *バブリーな田沼時代の雰囲気にもマッチして
 *江戸中に広まり、猫も杓子も毎日毎日狂歌三昧の日々だ
 ☆著名な狂歌師たちが「連」と呼ばれるグループを作った
 *「連」とは、仲良し連中が集まって狂歌を詠み合い
 *そのあとはドンチヤンやるという楽しい会のことだ
 ☆酒好き狂歌好きが集まりドンチャンやる場所
 *男衆にとって一石二鳥の遊び場、「吉原遊郭」になる
 ☆吉原をホームグラウンドにしていたのが、蔦重だった
 *二十歳そこそこの若者なのに
 *すでに吉原に精通していた蔦重は
 *狂名「蔦唐丸」を名乗って「吉原連」に参加していた

「かばちゃ」に「さる」ふざけた狂名はご愛敬
 ☆江戸の有名な狂歌連の有名どころ
 *唐衣橘洲の「四谷連」、四方赤良の「四方連(山手連)」
 *朱楽菅江の「朱楽連」など、武士中心の連のほか
 *歌舞伎の五代目市川国十郎とその取り巻きが作った「堺町連」
 *吉原を中心とした「吉原連」もあった
 ☆蔦重の属した吉原連のメンバー
 *加保茶元成(かぼちゃのもとなり)、猿万里太夫(さるまでだゆう)
 *我らが蔦重他

 *「かばちや」と名乗った妓楼主人、大文字屋市兵衛は二代目
 ☆当時、妓楼主
 *人としての八つの徳目「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」を
 *忘れた人という意味で「忘八」と呼ばれ、蔑まれていた
 *初代市兵衛はそのダーティーなイメージを逆手に取った
 *自虐的に「かばちゃ」と名乗り、ひょうきんに踊る自分の姿を
 *滑稽な肖像画にして売り出し
 *商売繁盛につなげたなかなかタフな商売人だった

江戸っ子の「洒落っ気」と「反骨精神」
 ☆京や大坂などの上方文化に対して
 *江戸も負けてねえ一 というところを見せたい
 *伝統ある和歌をパロって笑いを誘う
 *これらはすべて、江戸っ子の洒落っ気と反骨精神の表れだ
 ☆江戸っ子の特徴としてよくいわれるのは
 *「粋で鯔背(いなせ)」「金離れがいい」「人情家で涙もろい」と
 *ここまでは嬉しいプラスの評価だ
 *一方で「見栄っ張り」「向こう見ずの意地っ張り」と
 *あまり嬉しくない評価もいただくことがある
 *さらに「短気で喧嘩っ早い」「金はないけど威勢はいい」
 *「駄洒落ばかりで底が浅い」となってくると、言い返す言葉もない
 ☆「宵越しの金は持たねえ」っていう有名なセリフ
 *ただイキがっているだけじゃねぇ
 *町人の半分以上が職人だったから生活費が足りなくなれば働き
 *日銭を稼いだらパーツと使うのが粋で、こんな川柳がある
  『江戸っ子の生まれそこない金を貯め』
 ☆町人は、当時貯金するにも銀行なんてないし、保険もない
 *物欲を満たそうにも四畳半一間の裏長屋に何も置けない
 *仲間が今月ピンチとなれば
 *無利子・無担保、返済期限なしで貸し与えるのが人情家
 *粋な江戸っ子の心意気、金は天下の回り物ってこと
                         (敬称略)
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(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』他より画像引用)
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黒柳徹子の作家との「熱愛」

2024年01月03日 | 有名人
🌸「トット」ちゃんもテレビも伝えない「熱愛」

 ☆黒柳徹子が、告白する仏ピアニストとの恋
 *「秘めた愛」を隠すカムフラージュだともいわれている
 ☆黒柳徹子の作家との「熱愛」

テレビの裏話は存分に喋った
 ☆「テレビの女王」といわれる黒柳徹子(90歳)
 *自伝的物語『窓ぎわのトットちゃん」の続編
 *42年ぶりに刊行され、注目されている
 ☆黒柳の父・守綱はクラシックのヴァイオリン奏者.
 *満州に出征し、シベリアに抑留された
 *帰国後はそのことをあまり語りたがらなかった
 *抑留中ソ連軍高官から
 *「日本人収容所を慰問して演奏」言われた事も書かれている
 *寒さと栄養失調で倒れていく日本人を前に
 *ヴァイオリンを弾いた父親の気持ち
 *幼い娘・黒柳に、強烈な反戦の思いとして伝わったはず

黒柳は「40年にわたる恋」を語った
 ☆今回の彼女の告白によると
 *『フランス人ピアニストと40年間、交際を続けた』と
 (彼と知り合ったのはニューヨーク時代)
 *黒柳は38歳.のちにニューヨーク出産説も出たこともある
 *彼には、3人の子どもがいたことも明らかになっている
 *彼との「40年間の恋愛」があったのかは疑問だ
 ☆黒柳を知る関係者は述べる
 *彼女には年上の男性の存在があり、フランス人ピアニスとの交際
 *それを隠すためのカムフラージュではないか

黒柳と劇作家が”深夜デート”
 ☆黒柳の熱愛のお相手、NHKに入るきっかけになった劇作家の飯沢匡
 *黒柳と飯沢との出会い
 *NHKの『ヤン坊ニン坊トン坊』のオーディションに遡る
 *飯沢脚本のラジオドラマに起用されるなど
 *黒柳にとっては”最大の恩人″であり、”特別な関係”だった
 *24歳差の師弟関係は40年以上も続いた.
 ☆ある出版社幹部は語る
 *黒柳と飯沢が深夜デートを写真雑誌に撮られたことがある
 *黒柳は自ら運転する愛車で飯沢を市ヶ谷の飯沢邸に送り届けた
 *彼女は、飯沢と一緒に旅行したり、秘書的な役割もこなしていた
 *黒柳は作詞家で放送作家の永六輔と仲が良かった
 ☆「トットちゃん」ではわからない「大人の世界」がそこにあった
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⛳出典、『THEMIS12月号』



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『THEMIS12月号』記事ネットより画像引用)
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素晴らしい・偉大・凄い大谷選手

2023年12月12日 | 有名人
🌸素晴らしい・偉大・凄い大谷選手

 ☆余りの期待が重荷にならなければ良いが
 ☆同県人(岩手県)として、気分良く野球をプレイして欲しいです



素晴らしい・偉大・凄い大谷選手
(ネット・テレビより画像引用)
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ジャニーズ10代前半の少年への性犯罪

2023年07月27日 | 有名人
🌸ジャニーズ問題「大新聞・テレビ」は「女帝」に屈した

⛳4万超ファンが署名を提出

 ☆ジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏の少年たちへの性加害
 *国会でも取り上げられる大問題に発展した
 ☆事務所の現社長・藤島ジュリー景子氏(藤島社長)
 *被害者に謝罪する動画と文書を発表した
 *「遅すぎた」などの批判が殺到した
 *大新聞や在京キー局も事務所とジャニー氏の性加害を報じた
 ☆後手後手だと批判された事務所
 *外部専門家による「再発防止特別チーム」を結成した
 ☆波紋は企業にも及ぶ
 *所属タレントをCMなどに起用している企業にとり
 *関連したタレント起用は、自社のイメージに傷がつく
 ☆ファンの有志団体が、4万筆超の署名を集め
 *「事件の検証と事実認定」を求めた要求を事務所へ送った

⛳メリー氏は、弟を守り切れると思っていた
 ☆SMAPの香取慎吾氏ら3人が退所した後
 *彼らは民放テレビに出演できなかった
 *公正取引委員会が事務所の不当行為を指摘した後
 *メリー氏の圧力の前に、NHK以外のテレビ局は姿勢を改めなかった

 ☆SMAPの初期のメンバーだった森氏
 *オートレーサーに転身した後
 *テレビはグループのダンス画面などから彼を不自然に消していた
 ☆メリー氏は、NHK等の放送局と
 *テレビキー局と密接な関係にある大新聞社を完全に沈黙させてきた
 *これからもできるという奇妙な自信と驕りに溢れていた
 *内心では弟の異常な性癖に苦しんではいたのだろう
 ☆メリー氏は所属人気タレントを″切り札′にする一方
 *メディア幹部やテレビ局の現場幹部に舞台への招待などの
 *アメを惜しみなく提供して懐柔していたフシもある

ジャニーズ事務所は、謝罪と物心両面での補償せよ
 ☆藤島社長の父親だった藤島泰輔氏
 *メリー氏の行動を制御することはできなかった
 *彼は、入り婿みたいな存在だった
 *女帝に事務所のことなどで注意なんかできないと友人語る
 ☆ジャニー氏やメリー氏がすでに亡くなった
 *藤島社長が事務所の経営を続けられるかどうか
 *今後の展開を注視しているのが現状だ
 ☆ジャニーズ所属タレントたちの熱狂的なファン
 *ネットなどで攻撃し始めている
 ☆メディアのいままでの報道姿勢をも厳しく糾弾すべきである
 *藤島社長は特命チームの調査結果を待つ必要はない
 *事実を素直に認め、性被害を訴えた元タレントたちに
 *謝罪と物心両面の補償を実行することである
 ☆そのうえで、退所するタレントは送り出し
 *残ったスタッフとタレントで再出発するしかない
                     (敬称略)
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⛳出典、『THEMIS7月号』



               (国連?)
10代前半の少年への性犯罪
(ネットより画像引用)
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