中小企業診断士の独り言

中小企業や商店街を支援している中小企業診断士のブログ

浅草とスカイツリー

2015-06-12 05:44:11 | 日記
浅草とスカイツリー
東京都台東区のおよそ西半分を範囲とし、江戸・東京の下町を構成している地域のひとつで、下谷・本所・深川と並ぶ、東京下町の外郭をなしている。
 古くから浅草寺の門前町として栄え、また江戸湊や品川湊と並んで、武蔵国の代表的な港である浅草の港が、石浜(現橋場)や今津(現今戸町)にあったとされる。また、隅田川は江戸時代に境目が変更される以前は武蔵国と下総国の境目であった。
江戸時代に浅草が発展した要因は、浅草御蔵(蔵前)に米蔵が設置され札差(株仲間)が登場してきたためと言われている。蔵前では、日本全国から集められた侍や江戸庶民たちの食用米、城で働く武士たちの給料としての米などを保管していた。
明治には東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地区を近代的に公園化し、東京初の都市公園とされる浅草公園となった。浅草公園を6つの区に分けたことから、『浅草公園六区』と呼称され、浅草公園周辺の最も賑わいを見せた繁華街を第六区と呼称するようになった。
明治に12階建ての凌雲閣が建てられ、新たに演芸場や劇場等が建ち、東京の文化の発信地として知られた。関東大震災以降の興行界は松竹の進出が本格的となり戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。戦後は松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。
戦災により一時期の繁栄の勢いが失われたが、戦後は浅草寺周辺をはじめ、田原町、蔵前、合羽橋周辺の旧浅草区の道路インフラ整備が進み、拡幅された碁盤の目をもつ街並みとなった。 昭和初期には西浅草に森下仁丹が広告塔を建設し、仁丹塔の愛称で戦後も長らく親しまれたが1986年に解体された。
テレビの普及に因り昭和30年代後半から六区にあった映画館が次々と閉館し、昭和40年代に入るとめっきり人通りは減少した。しかし平成を迎え浅草サンバカーニバルや隅田川花火大会などの開催がテレビで取り上げられ徐々に活気を取り戻すようになる。加えて地方から観光バスが来るようになり、人力車などの観光ガイドなどが雷門周辺に現れた。
このような興行街を再生したいという、浅草地区の区民の長年の思いを痛感し、「浅草六区地区地区計画」を平成23年3月に都市計画決定した。








コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第28回 下町七夕まつりは | トップ | 山形県金山町(かねやままち) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事