平成20年6月12日(木) 毎日新聞 夕刊 7P 文化・芸能欄より
記:中村 一成
副題:「合法的な殺人」の実態 認識を
冒頭から、筆者は死刑をこう定義する。
「国家権力が行う殺人の代表的形態は、戦争と死刑だ。」
この認識は、間違ってはいない。
だが、何を言いたいのかが、今一よく分からない。
死刑は、戦争に匹敵する程の悪だ、という主張が、その裏面に透けて見える
ようだが、戦争は外交上の手段として、死刑は社会秩序の維持のための手段
として、それぞれ位置付けられたものである。
日本においては、戦争は憲法第9条において交戦権を放棄として認められて
いないが、少なくともG8参加諸国で同様の条文を持つ国は存在しない。
フィリピンのみが、唯一日本と同様に憲法で戦争放棄を謳っている。
フィリピン共和国憲法 第2条第2節
フィリピン国民は、征服を目的とする、いかなる戦争を企てることをも放棄し、
かつ、いかなる人民の自由に対して武力を決して行使しない。
~柳 四郎の対論 より~
まあここで9条論議をすることが主目的ではないので、これ以上の言及は避けるが、
筆者の主張としては、日本人がかつて捨て去った戦争という国家による犯罪的手段
に匹敵することが死刑の本質である、ということなのだろう。
あまり色眼鏡で見ることは、勿論好ましい姿勢とはいえない。
もとより僕も、ここまでのほんの数行から、上記のような見解を筆者に対して
持った訳ではない。
この後、筆者は門井肇監督の「休暇」を紹介する。
その他、死刑を題材にした作品として紹介されたのは、以下の三作品である。
<映画>
「接吻」 万田邦敏監督
「ブレス」 キム・ギドク監督(韓国映画)
<ラジオ>
「死刑執行」 ラジオ大阪(6月14日(土)午後8時~)
この記事の殆どは、上記の作品の紹介に徹しており、筆者の主張は出てこない。
が、最後の締めくくりで、その思いは凝縮され、読者の前に投げ出される。
「映画、放送を通して、合法的に人を殺害する制度があることをまずはしっかりと
認識したい。」
確かにこの一文からだけでは、筆者の主張がどのベクトルを目指しているのかは
分かりにくい。
が、敢えて合法的殺害という表現を用いたことからも、筆者の死刑に対する姿勢は
読み取ることが出来るのではないか。
もとより、死刑というシステムそのものが内包する問題もある。
映画「休暇」で取り上げられた、絞首刑となった死刑囚の体を支える役目を
負わされた(もっとも、この作品の場合はある理由から志願したのだが)
刑務官の心の葛藤もあろう。
もっと直截的には、如何に職責とはいえ、自らが他者に死を与える営みを行使
することに対する刑務官の心の負荷の軽減といった点も、考えていく必要が
あるだろう。
ちなみに、日本の場合、絞首刑の際の床板を外すボタンは、三人の刑務官に
より押されるらしい。三人のうち、どのボタンが実際に機能するかは当事者
には伏せられているとのことである。
#これについては、5人、いや1人と、様々な説がある。
つまりは、自分はボタンを押しはしたが、直接に死には加担したかどうかは
分からない、ということで、刑務官の心のケアをしているとのことである。
この仕組みは、例えばアメリカのある週では更にエスカレーションしており、
二十数人の刑務官が一斉にボタンを押すようになっているという話も聞いた
ことがある。
だが、敢えて誤解を恐れずに言えば、こうした点は枝葉に過ぎない。
刑務官という職業を選んだ時点で、そうした職務につく可能性は当然予見
出来る訳であるし、どうしてもそれが自分の信条と合わないようであれば、
橋本知事ではないが職を辞する選択肢も刑務官にはあるのである。
無論、ボタン押しの行為に苦痛が無い等と言う気はない。
むしろ、その苦痛を軽減するために、死刑囚自らがボタンを押すような
仕組みに変えた方がよいと考えているくらいだ。
かつて、その刑の対象となる行為で他者本人に死を、その周囲にいるものに
絶望や悲しみをもたらした死刑囚が、その死に当たっても更に他者(この
場合は刑務官)に無用の心理的苦痛を与えることは、許されるべきではない。
であれば、自らの命の幕引きを、誰にも迷惑をかけずに自分ですることが、
もっとも正しい責任の帰結の一つの姿だと思うのだが。
そこまでの苦しみを死刑囚に与えてどうするのだ。という意見があることは
承知している。
死刑そのものに犯罪抑止力は無く、そもそも人間に他者の死を判じ、行使する
権利など無いとする死刑廃止論者から見れば、とんでもない暴論だろう。
ただ、そうした死刑廃止論者に対しては、逆に質問させていただきたい。
(これも言い古されたことではあるが)そもそも、その死刑囚は、そこに至る
に足る十分な理由(=犯罪行為)を持って、死刑に処せられるのではないのか。
決して無辜の民などではない。
人が人を判ずる以上、冤罪の可能性も否定は出来ないが、その恐れがあるから
こそ、あそこまでの再審を含めた法制度が整備され、疑わしきは罰せずの基本
精神もあるのではないのか。
その上で、死刑と決まったものに対して、そこまで考える必要性が、僕には
分からない。
更に、アメリカのような終身刑という制度の導入にも、僕は反対である。
終身刑の導入により、それでなくとも逼迫している刑務所の住環境は、更なる
悪化を遂げるだろう。
それは、取りも直さず囚人に対する人権侵害でもあり、国家財政に対する無用の
侵害でもある。
犯罪加害者に対する法制度の甘さ(例えば、更正と称して、どれほどの国費が
費やされているのか?それは、本当に費やすだけの価値がある国費なのか?)
とも合わせて、裁判員制度導入を目前にした日本人が、一度直面して考えないと
いけないテーマだ、という点については、僕は筆者と同意見である。
記:中村 一成
副題:「合法的な殺人」の実態 認識を
冒頭から、筆者は死刑をこう定義する。
「国家権力が行う殺人の代表的形態は、戦争と死刑だ。」
この認識は、間違ってはいない。
だが、何を言いたいのかが、今一よく分からない。
死刑は、戦争に匹敵する程の悪だ、という主張が、その裏面に透けて見える
ようだが、戦争は外交上の手段として、死刑は社会秩序の維持のための手段
として、それぞれ位置付けられたものである。
日本においては、戦争は憲法第9条において交戦権を放棄として認められて
いないが、少なくともG8参加諸国で同様の条文を持つ国は存在しない。
フィリピンのみが、唯一日本と同様に憲法で戦争放棄を謳っている。
フィリピン共和国憲法 第2条第2節
フィリピン国民は、征服を目的とする、いかなる戦争を企てることをも放棄し、
かつ、いかなる人民の自由に対して武力を決して行使しない。
~柳 四郎の対論 より~
まあここで9条論議をすることが主目的ではないので、これ以上の言及は避けるが、
筆者の主張としては、日本人がかつて捨て去った戦争という国家による犯罪的手段
に匹敵することが死刑の本質である、ということなのだろう。
あまり色眼鏡で見ることは、勿論好ましい姿勢とはいえない。
もとより僕も、ここまでのほんの数行から、上記のような見解を筆者に対して
持った訳ではない。
この後、筆者は門井肇監督の「休暇」を紹介する。
その他、死刑を題材にした作品として紹介されたのは、以下の三作品である。
<映画>
「接吻」 万田邦敏監督
「ブレス」 キム・ギドク監督(韓国映画)
<ラジオ>
「死刑執行」 ラジオ大阪(6月14日(土)午後8時~)
この記事の殆どは、上記の作品の紹介に徹しており、筆者の主張は出てこない。
が、最後の締めくくりで、その思いは凝縮され、読者の前に投げ出される。
「映画、放送を通して、合法的に人を殺害する制度があることをまずはしっかりと
認識したい。」
確かにこの一文からだけでは、筆者の主張がどのベクトルを目指しているのかは
分かりにくい。
が、敢えて合法的殺害という表現を用いたことからも、筆者の死刑に対する姿勢は
読み取ることが出来るのではないか。
もとより、死刑というシステムそのものが内包する問題もある。
映画「休暇」で取り上げられた、絞首刑となった死刑囚の体を支える役目を
負わされた(もっとも、この作品の場合はある理由から志願したのだが)
刑務官の心の葛藤もあろう。
もっと直截的には、如何に職責とはいえ、自らが他者に死を与える営みを行使
することに対する刑務官の心の負荷の軽減といった点も、考えていく必要が
あるだろう。
ちなみに、日本の場合、絞首刑の際の床板を外すボタンは、三人の刑務官に
より押されるらしい。三人のうち、どのボタンが実際に機能するかは当事者
には伏せられているとのことである。
#これについては、5人、いや1人と、様々な説がある。
つまりは、自分はボタンを押しはしたが、直接に死には加担したかどうかは
分からない、ということで、刑務官の心のケアをしているとのことである。
この仕組みは、例えばアメリカのある週では更にエスカレーションしており、
二十数人の刑務官が一斉にボタンを押すようになっているという話も聞いた
ことがある。
だが、敢えて誤解を恐れずに言えば、こうした点は枝葉に過ぎない。
刑務官という職業を選んだ時点で、そうした職務につく可能性は当然予見
出来る訳であるし、どうしてもそれが自分の信条と合わないようであれば、
橋本知事ではないが職を辞する選択肢も刑務官にはあるのである。
無論、ボタン押しの行為に苦痛が無い等と言う気はない。
むしろ、その苦痛を軽減するために、死刑囚自らがボタンを押すような
仕組みに変えた方がよいと考えているくらいだ。
かつて、その刑の対象となる行為で他者本人に死を、その周囲にいるものに
絶望や悲しみをもたらした死刑囚が、その死に当たっても更に他者(この
場合は刑務官)に無用の心理的苦痛を与えることは、許されるべきではない。
であれば、自らの命の幕引きを、誰にも迷惑をかけずに自分ですることが、
もっとも正しい責任の帰結の一つの姿だと思うのだが。
そこまでの苦しみを死刑囚に与えてどうするのだ。という意見があることは
承知している。
死刑そのものに犯罪抑止力は無く、そもそも人間に他者の死を判じ、行使する
権利など無いとする死刑廃止論者から見れば、とんでもない暴論だろう。
ただ、そうした死刑廃止論者に対しては、逆に質問させていただきたい。
(これも言い古されたことではあるが)そもそも、その死刑囚は、そこに至る
に足る十分な理由(=犯罪行為)を持って、死刑に処せられるのではないのか。
決して無辜の民などではない。
人が人を判ずる以上、冤罪の可能性も否定は出来ないが、その恐れがあるから
こそ、あそこまでの再審を含めた法制度が整備され、疑わしきは罰せずの基本
精神もあるのではないのか。
その上で、死刑と決まったものに対して、そこまで考える必要性が、僕には
分からない。
更に、アメリカのような終身刑という制度の導入にも、僕は反対である。
終身刑の導入により、それでなくとも逼迫している刑務所の住環境は、更なる
悪化を遂げるだろう。
それは、取りも直さず囚人に対する人権侵害でもあり、国家財政に対する無用の
侵害でもある。
犯罪加害者に対する法制度の甘さ(例えば、更正と称して、どれほどの国費が
費やされているのか?それは、本当に費やすだけの価値がある国費なのか?)
とも合わせて、裁判員制度導入を目前にした日本人が、一度直面して考えないと
いけないテーマだ、という点については、僕は筆者と同意見である。