毎日新聞 1月20日(日)朝刊 11面 今週の本棚「好きなもの」より
言わずと知れた作家 林真理子氏の、新幹線の中で過ごす時間についてのコラム。
新幹線に限らず、乗り物での移動時間というものは非常に多様な側面を持つ。
ある人には居酒屋と化し、またある人にはベッドと化す。
そして活字フリークには、この上ない読書空間を提供してくれる。
知り合いと新幹線に乗ったりすると、会話を楽しむ余裕があるときはいいが、
今読みかけの本が佳境に入っていたりすると、じりじりと身悶えする様な
焦燥感に駆られる時もあることは、活字フリークなら誰しも経験したことが
あることであろう。
さて、作家である氏の新幹線の車中は、勿論? 読書部屋と化す。
更に、その読書部屋の友として氏が認定するものが、車内販売のコーヒーと
柿ピーナツである。
このコラムによると、氏の車中イニシエーションは、以下のとおりである。
(おそらく、下りの新幹線を念頭にしていると思われる)
① 新幹線に乗り込む。
② まず回ってきた車内販売でコーヒーを頼む。
③ 本を読みながら、しばしコーヒーを啜る。
④ 小田原辺りまで来たら、コーヒーのお変わりと柿ピーを頼む。
⑤ 柿ピーをぽちりぽちりと齧りながら、本の世界に埋没する。
⑥ たまに車窓に視線をやり、景色も楽しみながら、なおも読み続ける。
⑦ そうして、大阪までの3時間、至福の時を過ごす。
#うーん。
#柿ピーは(いや、柿ピーに限らず小物系は)、我慢できずについ手に受けて、
#口に流し込んでしまう僕には真似の出来ないパターンではある。
#やはり僕の友は、いきおいビールになってしまうなあ。帰路だけだけれど。
そうした3時間を持って、氏は時間というものが均質に流れていくものではなく、
個人の裁量によって如何程にもその姿を変えうるものだ、という結論を導き出す。
そして、その豊穣さをもたらしてくれる小道具である柿ピーの偉大さを讃えて、
コラムを締めくくる。
確かに、時間は誰にでも平等に流れるものである。
そのことは、どのような暦法の元にあろうと、変ることはない。
#相対性理論の下、ウラシマ効果とかが発現している状況まで含めての話では
無論ない。あくまで一般的に体感できる時間軸を想定しての話である。
だが時に、時間はひどくゆっくりと流れ、またある時は飛び去っていく。
それは、人の感覚がもたらす時の流れの相対化によるものである。
例えば、冒頭でも述べたような、読書が佳境に入っている人の時間感覚と、
為すことも無く漫然と車窓を眺めて3時間を過ごす人のそれは、全く異なるものと
なろう。
#勿論、無為に過ごす時間が必要なことも、時と場合により有りうるが。
では、どれだけ密度の濃い時間を人は過ごすことが出来るのか?
ある漫画家は、新幹線の3時間を使って、手持ちの漫画雑誌の一つのエピソードを
取り上げ、延々と話し続けることが出来たという。
#ずいぶん昔に読んだ話なので、かなりうろ覚えではあるが。
確かに、僕達が何気なく見ている漫画のページ一つを取っても、ストーリーテリング
上の切り口、描画力といった切り口、或いは漫画家の作風や師弟関係といった
切り口等、様々な観点から議論をすることが可能である。
確かに、この網掛けは登場人物の心理描写技法として本当に最も適切か とか、
このトーンはどこのメーカー製のもので、よく見るとこの辺りは重ね張りとかも
しているようだが、一体毎週の連載でどれ位トーンを使っているのだ? とか、
一こま毎に取り出して語りだすと、話すネタにはきりが無い、と思う。
ましてや専門知識を持つ漫画家であれば、尚更同業者の書いた作品に対して、
僕達一般人よりも遥かに深いレベルで語ることが可能であろう。
まあ、たまさか漫画を一例に取り上げたが、別に夢中になれるものであれば
漫画でも雑誌でも書籍でも何でもよいのだ。
その人それぞれの関心の赴くままに、熱意と関心の元、夢中になれるものは
それこそ人の数だけ、いやそれ以上に存在するであろう。
年間4千冊以上出版される雑誌、7万冊以上出る新刊書籍、それら全てを知りたいとも、
また知りえるとも思わないが、少なくとも世の中にはまだまだ自分の知らない
”ワクワク”が満ち満ちていると考えることは楽しいし、少しでもそうした世界と
出会うべく、今日も今日とて本屋通いをしている活字フリークもいるのだ。
そのように考えるとき、人生とはなんと短いものに感じてしまえるものか!
さて、明日の出張には、どの本を鞄に仕込んで行こう?
次なる”ワクワク”に向けて、また新たな1ページを繰り出そう。
言わずと知れた作家 林真理子氏の、新幹線の中で過ごす時間についてのコラム。
新幹線に限らず、乗り物での移動時間というものは非常に多様な側面を持つ。
ある人には居酒屋と化し、またある人にはベッドと化す。
そして活字フリークには、この上ない読書空間を提供してくれる。
知り合いと新幹線に乗ったりすると、会話を楽しむ余裕があるときはいいが、
今読みかけの本が佳境に入っていたりすると、じりじりと身悶えする様な
焦燥感に駆られる時もあることは、活字フリークなら誰しも経験したことが
あることであろう。
さて、作家である氏の新幹線の車中は、勿論? 読書部屋と化す。
更に、その読書部屋の友として氏が認定するものが、車内販売のコーヒーと
柿ピーナツである。
このコラムによると、氏の車中イニシエーションは、以下のとおりである。
(おそらく、下りの新幹線を念頭にしていると思われる)
① 新幹線に乗り込む。
② まず回ってきた車内販売でコーヒーを頼む。
③ 本を読みながら、しばしコーヒーを啜る。
④ 小田原辺りまで来たら、コーヒーのお変わりと柿ピーを頼む。
⑤ 柿ピーをぽちりぽちりと齧りながら、本の世界に埋没する。
⑥ たまに車窓に視線をやり、景色も楽しみながら、なおも読み続ける。
⑦ そうして、大阪までの3時間、至福の時を過ごす。
#うーん。
#柿ピーは(いや、柿ピーに限らず小物系は)、我慢できずについ手に受けて、
#口に流し込んでしまう僕には真似の出来ないパターンではある。
#やはり僕の友は、いきおいビールになってしまうなあ。帰路だけだけれど。
そうした3時間を持って、氏は時間というものが均質に流れていくものではなく、
個人の裁量によって如何程にもその姿を変えうるものだ、という結論を導き出す。
そして、その豊穣さをもたらしてくれる小道具である柿ピーの偉大さを讃えて、
コラムを締めくくる。
確かに、時間は誰にでも平等に流れるものである。
そのことは、どのような暦法の元にあろうと、変ることはない。
#相対性理論の下、ウラシマ効果とかが発現している状況まで含めての話では
無論ない。あくまで一般的に体感できる時間軸を想定しての話である。
だが時に、時間はひどくゆっくりと流れ、またある時は飛び去っていく。
それは、人の感覚がもたらす時の流れの相対化によるものである。
例えば、冒頭でも述べたような、読書が佳境に入っている人の時間感覚と、
為すことも無く漫然と車窓を眺めて3時間を過ごす人のそれは、全く異なるものと
なろう。
#勿論、無為に過ごす時間が必要なことも、時と場合により有りうるが。
では、どれだけ密度の濃い時間を人は過ごすことが出来るのか?
ある漫画家は、新幹線の3時間を使って、手持ちの漫画雑誌の一つのエピソードを
取り上げ、延々と話し続けることが出来たという。
#ずいぶん昔に読んだ話なので、かなりうろ覚えではあるが。
確かに、僕達が何気なく見ている漫画のページ一つを取っても、ストーリーテリング
上の切り口、描画力といった切り口、或いは漫画家の作風や師弟関係といった
切り口等、様々な観点から議論をすることが可能である。
確かに、この網掛けは登場人物の心理描写技法として本当に最も適切か とか、
このトーンはどこのメーカー製のもので、よく見るとこの辺りは重ね張りとかも
しているようだが、一体毎週の連載でどれ位トーンを使っているのだ? とか、
一こま毎に取り出して語りだすと、話すネタにはきりが無い、と思う。
ましてや専門知識を持つ漫画家であれば、尚更同業者の書いた作品に対して、
僕達一般人よりも遥かに深いレベルで語ることが可能であろう。
まあ、たまさか漫画を一例に取り上げたが、別に夢中になれるものであれば
漫画でも雑誌でも書籍でも何でもよいのだ。
その人それぞれの関心の赴くままに、熱意と関心の元、夢中になれるものは
それこそ人の数だけ、いやそれ以上に存在するであろう。
年間4千冊以上出版される雑誌、7万冊以上出る新刊書籍、それら全てを知りたいとも、
また知りえるとも思わないが、少なくとも世の中にはまだまだ自分の知らない
”ワクワク”が満ち満ちていると考えることは楽しいし、少しでもそうした世界と
出会うべく、今日も今日とて本屋通いをしている活字フリークもいるのだ。
そのように考えるとき、人生とはなんと短いものに感じてしまえるものか!
さて、明日の出張には、どの本を鞄に仕込んで行こう?
次なる”ワクワク”に向けて、また新たな1ページを繰り出そう。