『TAO 第15章 顕徳』
春雷に呼び覚まされた愚仁の中の<新しい人>を思っていると、祥造さんのTAOの言葉が浮かんで、雪のように踊り始めました。仁もつられて、雪になり、雪と一緒に踊ってみました。雪のように小さくなって、雪の結晶さんたちの虹色の舞いを見ながら、自分も雪の結晶のように舞っているのでした。音楽や芸術と無縁に生きてきた愚仁ですが、なにやらコスミックなリズムを体感しているような気がします。
その後で、祥造さんのTAO第15章を読んでいたら、自ずから言葉さんたちが湧いてきて、踊るようにメッセージを発信しています。おもしろいんで、それを記述してみました。記述が追いつきませんでしたけれど、そのメッセージはもっとシンプルで、おっとなるほどと感心していたのですけれど、記述の段階で、愚仁の解説に変わってしまうようで、ちょっとがっかり、色あせてしまいましたが、紹介してみます。
昔からたくさんのTAOと友達になった人がいるけれど、
その人たちはちょっと風変わりで、人生の達人と呼んでもいいよ。
見た目は隣のおっちゃんだけど、
あるいは無邪気に山野で遊びまわっている子どものようだけど、
つき合ってみると、奥が深いんだ。
どこまで行っても先が見えないくらい大きいよ。
達人さんたちの世界は銀河のようなものだね。
そんな大きな人たちが昔も今もたくさんいるんだよ。
あんまり大きすぎて、あんまり深すぎて、つかみとることはできないけれど、
あえてこんな人だよとイメージできるように例えてみるようね。
TAOと友達な人を「TAOな人」と呼ぶことにしてみよう。
「TAOな人」はあなたの中にもちゃんといるんだ。
不器用で、ナイーブだけど、
空気のように気づかないことが多いけれどね・・・
TAOな人は、まず、目立ったことはしないね。
人の後ろからついて行くんだ。
だから、自分がどうすればいいかよく見えている。
要するに、慎重なんだ。いいかえれば、よく学ぶ人なんだ。
自分がどこにいるかよく知っているし、
自分の周りのことをよく知っているから、
危険な冬の川を渡ることだって、普通に、できるんだよ。
人と交わる時でも、世間とつき合う時でも、
いつも知らない森の中を歩く時のように、
一歩一歩、確かめながら、進んでいくんだよ。
トゲを踏んで怪我したり、毒虫に刺されて熱を出したり、
獣に襲われてひどい目に遭うのが恐いからね。
知ってるつもりにならないんだ。
信じているふりはしないんだ。
どんな立場の人とでも同じスタンスでつき合うんだよ。
お偉いさんに媚びたり、卑屈になったり、
弱い立場の人を蔑んだり、いじめたりしないんだ。
あるがまんまの自分のままで、
自分を大切にするように人を大切にするから、
心は乱れることもなく、心は驕ることもなく、
客人のように穏やかでいることができるんだ。
だからTAOな人とつき合っていると、
自分も、だんだん素直になって、
警戒心も緊張も、不安も欲も消えていくよ。
氷が溶けるように、
心のバリアが解けていくんだ。
拘りを消し去ってくれる人と時空を共にできると、
とてもハッピーになれるんだよ。
ほんと、TAOな人って素朴な人と呼び替えてもいいくらいだよ。
飾りっ気はなく、おしゃべりでもなく、
目立った才能をひけらかすわけでもない。
山から切り出した材木が、
荒削りのまま、無造作に放り出されている材木置き場の
材木の一つのようなものなんだ。
そんな材木あなたの中にあるでしょう。
荒削りの材木だから、何にでも創りだすことができるんだよ。
出会った人に合わせて、何にでもなるんだ。
そんな大きな心を持った人がTAOな人なんだ。
例えていえば、深い深い谷のようなものだ。
谷は宇宙の気の集まるところ、
地球の気の放射されるところ。
空即是色の人間劇場と呼んでもいいよ。
ともかくも、TAOの人には何でもありだね。
好きなものも嫌いなものも、美しいものも汚れたものも
ごったごったに自分の中にあるでしょう。
TAOな人は下流の濁った川の水のように、
流れ来るものは何でも受け入れる寛容な器なんだ。
何でも受け容れて、ごちゃごちゃ混沌としているけれど、
いつのまにかそれぞれが所を得て、清らかに澄んでいくのだ。
また、山河のように穏やかで、安定していて、
けれど自然の営みは休むことなく、
さまざまないのちを育み、天地を動かして調和を保つのだ。
そのようにTAOな人も穏やかに人の中にあって、
いのちとこころの深いところでつながっているから、
人と共に動き、人と共に苦しみ、人と共に喜び、
人と共に幸せを生みだしていくのだよ。
少しイメージできたかい?
TAOな人を自分の中に見つけることできたかい?
このようにTAOな人として生きていく人は
いつだって満足というものを求めようとしないものさ。
生々流転のエネルギーそのものだから、疲労さえ知らないんだよ。
いのちが新陳代謝するように、自分がボロボロに使い尽くされても、
そのボロボロのまんまでまた<新しい人>に生まれ変わっていけるんだよ。
春雷に呼び覚まされた愚仁の中の<新しい人>を思っていると、祥造さんのTAOの言葉が浮かんで、雪のように踊り始めました。仁もつられて、雪になり、雪と一緒に踊ってみました。雪のように小さくなって、雪の結晶さんたちの虹色の舞いを見ながら、自分も雪の結晶のように舞っているのでした。音楽や芸術と無縁に生きてきた愚仁ですが、なにやらコスミックなリズムを体感しているような気がします。
その後で、祥造さんのTAO第15章を読んでいたら、自ずから言葉さんたちが湧いてきて、踊るようにメッセージを発信しています。おもしろいんで、それを記述してみました。記述が追いつきませんでしたけれど、そのメッセージはもっとシンプルで、おっとなるほどと感心していたのですけれど、記述の段階で、愚仁の解説に変わってしまうようで、ちょっとがっかり、色あせてしまいましたが、紹介してみます。
昔からたくさんのTAOと友達になった人がいるけれど、
その人たちはちょっと風変わりで、人生の達人と呼んでもいいよ。
見た目は隣のおっちゃんだけど、
あるいは無邪気に山野で遊びまわっている子どものようだけど、
つき合ってみると、奥が深いんだ。
どこまで行っても先が見えないくらい大きいよ。
達人さんたちの世界は銀河のようなものだね。
そんな大きな人たちが昔も今もたくさんいるんだよ。
あんまり大きすぎて、あんまり深すぎて、つかみとることはできないけれど、
あえてこんな人だよとイメージできるように例えてみるようね。
TAOと友達な人を「TAOな人」と呼ぶことにしてみよう。
「TAOな人」はあなたの中にもちゃんといるんだ。
不器用で、ナイーブだけど、
空気のように気づかないことが多いけれどね・・・
TAOな人は、まず、目立ったことはしないね。
人の後ろからついて行くんだ。
だから、自分がどうすればいいかよく見えている。
要するに、慎重なんだ。いいかえれば、よく学ぶ人なんだ。
自分がどこにいるかよく知っているし、
自分の周りのことをよく知っているから、
危険な冬の川を渡ることだって、普通に、できるんだよ。
人と交わる時でも、世間とつき合う時でも、
いつも知らない森の中を歩く時のように、
一歩一歩、確かめながら、進んでいくんだよ。
トゲを踏んで怪我したり、毒虫に刺されて熱を出したり、
獣に襲われてひどい目に遭うのが恐いからね。
知ってるつもりにならないんだ。
信じているふりはしないんだ。
どんな立場の人とでも同じスタンスでつき合うんだよ。
お偉いさんに媚びたり、卑屈になったり、
弱い立場の人を蔑んだり、いじめたりしないんだ。
あるがまんまの自分のままで、
自分を大切にするように人を大切にするから、
心は乱れることもなく、心は驕ることもなく、
客人のように穏やかでいることができるんだ。
だからTAOな人とつき合っていると、
自分も、だんだん素直になって、
警戒心も緊張も、不安も欲も消えていくよ。
氷が溶けるように、
心のバリアが解けていくんだ。
拘りを消し去ってくれる人と時空を共にできると、
とてもハッピーになれるんだよ。
ほんと、TAOな人って素朴な人と呼び替えてもいいくらいだよ。
飾りっ気はなく、おしゃべりでもなく、
目立った才能をひけらかすわけでもない。
山から切り出した材木が、
荒削りのまま、無造作に放り出されている材木置き場の
材木の一つのようなものなんだ。
そんな材木あなたの中にあるでしょう。
荒削りの材木だから、何にでも創りだすことができるんだよ。
出会った人に合わせて、何にでもなるんだ。
そんな大きな心を持った人がTAOな人なんだ。
例えていえば、深い深い谷のようなものだ。
谷は宇宙の気の集まるところ、
地球の気の放射されるところ。
空即是色の人間劇場と呼んでもいいよ。
ともかくも、TAOの人には何でもありだね。
好きなものも嫌いなものも、美しいものも汚れたものも
ごったごったに自分の中にあるでしょう。
TAOな人は下流の濁った川の水のように、
流れ来るものは何でも受け入れる寛容な器なんだ。
何でも受け容れて、ごちゃごちゃ混沌としているけれど、
いつのまにかそれぞれが所を得て、清らかに澄んでいくのだ。
また、山河のように穏やかで、安定していて、
けれど自然の営みは休むことなく、
さまざまないのちを育み、天地を動かして調和を保つのだ。
そのようにTAOな人も穏やかに人の中にあって、
いのちとこころの深いところでつながっているから、
人と共に動き、人と共に苦しみ、人と共に喜び、
人と共に幸せを生みだしていくのだよ。
少しイメージできたかい?
TAOな人を自分の中に見つけることできたかい?
このようにTAOな人として生きていく人は
いつだって満足というものを求めようとしないものさ。
生々流転のエネルギーそのものだから、疲労さえ知らないんだよ。
いのちが新陳代謝するように、自分がボロボロに使い尽くされても、
そのボロボロのまんまでまた<新しい人>に生まれ変わっていけるんだよ。