人生の謎学

―― あるいは、瞑想と世界

ホラー小説《占ひ師》 -16

2008-06-11 00:04:56 | ホラー小説
■そろそろ第二章も終幕にちかづいてきました。そういうときになって、その部分の加筆を考えているのです。もともと57ページからの二十二節をもって、60ページで第二章は終了するはずだったのですが、その後に二十三節を追加すべきかどうか、迷いが出てきたのです。第三章以降での描出を考えていた、この章における主人公と〈あの人〉との関係性の決定的な「変質」、主人公にとっては生涯忘れることのできない圧倒的なオカルト体験を、ここに配置すべきかどうか。――それを配置しないでいたら、第二章には〈あの人〉がライブ的に登場する場面が少なすぎるので、物語として構成的な不満をおぼえるのです。このままそれに甘んじるならば、この章の章題は《運命と死神》ではいささか内容に反する感じもします。

本作を興味深く読んでいただいている少数の読者が存在すると仮定して、蛇足ながら明記しておきたいことは、本作はまったく個別的に創出された作品であり、映画やアニメをふくめて、先行する類似の作品を知らないということです。映画では《ステングマータ》とか《リーピング》とか、しばしば優れた作品がありますが、私はどうかんがえてもオタクではないので、その種の情熱のそそぎかたが――つまりオタク的に見識を広めて作品に反映させるようなやりかたが――理解できません。「勝負の世界」にたとえるなら、最初から自分が「負け」でぜんぜんかまわないし、本来その世界の成立の前提に「勝負」があるとしても、勝負すること自体を放棄したいとかんがえる立場です。奇妙ないいかたですが、人間であることを主張することがどこかで誰かを傷つけるのであるなら、あえて人間でなくてもいいと思います。おそらく漱石の小説の影響でしょうが、どれだけ深刻に悩んだとしても、悩んだ結果の結論に飛びつくのではなく、悩むことを常態として存在するということそれ自体を内省するわけです。したがって、私の作品の徹底した創作姿勢の基底にあるものは、経済効率の否定なのです。商業的に成立する完成度と、芸術的に痙攣する恣意性とが、両極端に位置するとするなら、なにがどうあろうと、商業的完成度だけはぜったいに目指したくないのです。こういう意味で私はハリポタを認めないとしても、マリオ・ジャコメッリの写真のおそるべき深淵性すらも、やがては商業資本に吸収されるだろうという辺見庸氏の指摘 (NHK『新日曜美術館』、5月25日) は、この問題の困難さを示唆しているように感じられます。

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――つづく
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