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§23. 高村光太郎の随筆集『獨居自炊』

 当初は「独居自炊」というキャッチフレーズで修辞されることのなかった賢治の「下根子桜時代」だったが、いまではどんな本でも賢治の「下根子桜時代」は決まって「独居自炊」と修辞されていると言っていいだろう。
 実際、『宮沢賢治全集 十一』(筑摩書房、昭和32年版)の年譜では
 四月、花巻町下根子櫻に自炊生活を始め、附近開墾し畑を耕作した。
のように〝自炊〟だけであったのが、時代が下って『新校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、平成13年版)の年譜になると例に漏れず
 四月一日(木) 豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊生活に入る。
となっていて、いつのまにか決まり文句の〝独居自炊〟に書き替えられているのである。

 さて前にも触れたように
 少なくとも昭和28年より前には〝独居自炊〟という修辞は使われておらず、多くは〝自炊〟という修辞が多い。この変化の切っ掛けは一体何だったのだろうか。そこには何かがあるはずだ。
という疑問を私は抱いた。一方、一般に「自炊独居」が話題になる詩人や作家といえば、私は宮澤賢治そして高村光太郎の2人でありこの2人しか知らない。そこで、光太郎の周辺を探ればそのヒントがあるかもしれないと直感したので彷徨いてみたならば、光太郎のある著書が目に留まった。それはずばり高村光太郎の随筆集『獨居自炊』である。そしてその発行は昭和26年6月であった。昭和26年といえば、昭和20年花巻(太田村山口)に「自己流謫」してから7年目となるから、花巻に疎開していたときの出版となる。
 因みにこの随筆集の巻頭を飾るのが次の随筆で、それこそ題が「獨居自炊」であり、
    獨居自炊
 ほめられるやうなことはまだ為ない。
 そんなおぼえは毛頭ない。
 父なく母なく妻なく子なく、
 木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
 草の葉をむしつて鍋に入れ
 配給の米を餘してくふ。
 私の臺所で利休は火を焚き、
 私の書齋で臨濟は打坐し、
 私の仕事場で造花の營みは遅々漫々。
 六十年は夢にあらず事象にあらず、
 手に觸るるに隨って歳月は離れ、
 あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
 一二三四五六と或る僧はいふ。
             ―昭和一七・四・一三―

     <『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)より>
というものであった。
 この随筆集の発行は昭和26年だから、この随筆「獨居自炊」も太田村山口に疎開している頃に書かれたものかと最初は思った。ところが、実はこれは昭和17年4月13日にしたためたもののようだから光太郎は早い時点から自分の生活を「独居自炊」と規定していたということになる。実際調べてみるとたしかに光太郎は昭和14年からアトリエで既に独居自炊生活を送っていたのだった。

 もちろん花巻に疎開してからも光太郎は太田村山口でまさしく「独居自炊」生活をしたいたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』というタイトルの随筆集を出版するのは至極自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。そこで私は推理した、
 この昭和26年の高村光太郎の随筆集『獨居自炊』がこの変化の切っ掛だったのではなかろうか。
と。出版の時期昭和26年というタイミングも、そのタイトルもちょうどピッタシであるからである。
 当初は賢治の「下根子桜時代」の修辞としては使われていなかった〝独居自炊〟であったが、昭和26年発行の光太郎の随筆『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、このときを境にして賢治の「下根子桜時代」に対しても〝独居自炊〟というキャッチフレーズが冠されるようになったのではないかと推測した。他ならぬ高村光太郎なればなおさら…。

 そして、その先鞭をつけたのが『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)であり、小倉豊文が初めて次のように使い始めたのではなかろうか。
 大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。
          <『昭和文学全集第14巻宮澤賢治』の小倉豐文「解説」より>
 ただししばらくはこのキャッチフレーズは定着しなかった。ところがいつの間にか、おそらく昭和50年代に入った頃からは次第に定着していったのではなかろうか、と推理してみたのだが…。

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