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492 誰一人としていなかった

《創られた賢治から愛される賢治に》
〝誰一人としていなかった〟ことの意味
 当時の宮澤一族は超大地主揃いで多くの小作人を抱えていたゆえ、自ずから小作人達は同一族に対して不利になるようなことや迷惑がかかりそうなこと等を口にすることを憚らざるを得なかったであろうし、それは他の自作農民等も同様であり、はたまた農民以外の人達にとってもほぼ同様であったであろう、ということがこれで言える。
 例えば、賢治が「アカ」と思われていたり「社会主義者」であると見らたりしていたことを口にすることをである。なぜならば、「アカ」とか「社会主義者」と目されることは当時はすこぶる大変なことであったからだ。周りから後ろ指を指されたり、排斥されたり、はては国賊扱いまでされたという。その時代結核患者は忌み嫌われたということだが、それと同様な扱い方を彼等はされたとも聞く。だから、もし賢治が実はそうであったと仮にするならば、地元の周りの人達はそのようなことに関しては皆口をつぐんでいたであろうことは理論上十分にあり得る。
 そしてそれは理論上のみならず、名須川が聞き取ったような「賢治と無産運動」関連の内容を公にした賢治周縁の人がそれまで実際誰一人としていなかった(私の管見ゆえの誤解かも知れないが)ことからも逆に言えるのではなかろうか。名須川の聞き取りに対して初めて答えた高橋慶吾を始めとして、宮澤清六、関登久也、森荘已池等の誰一人としてである。その他のことであれば幾多のこと(場合によってはあることないことまでさえも思われるものも含めて)を書き残している彼等にして、「賢治と無産運動」に関してはその時点まで公に語った人や記した人が〝誰一人としていなかった〟こと自体が、〝皆口をつぐんでいた〟という実態があったことを意味しているのだ。

 『賢治昭和三年の自宅蟄居』の仮「目次」
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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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