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雑感や書評など

塩野七生「ローマ人の物語 (21)」

2005-10-15 08:59:47 | 書評
庶民の知恵?


いろいろと不満を述べつつも、「ローマ人の物語 (21)」を読みました。

暴君ネロが死んで、一年の間に三人もの皇帝が次々に入れ替わると異常事態となったローマ帝国。
引っ切り無しに内乱が勃発し、戦火はついに首都ローマにまで広がるのですが………、以下、引用。
 反対にこの地以外で行われた市街戦を、歴史家タキトゥスは次のように描写する。

――首都の民衆は、この日の市内での戦闘を、競技場で闘われる剣闘士試合でも見物しているかのように観戦した。敢闘する者には拍手と歓声を浴びせ、苦戦する者にはもっと気を入れて闘えとヤジをとばしながら。劣勢に陥った側が店や家の中に逃げこもうものなら、引き出して殺せと要求するのは民衆のほうだった。それでいて民衆は、兵士たちが闘いに熱中しているのをよいことに、彼らの権利である戦利品はちゃっかりと横取りしていたのである。
 首都の全域で、忌わしくも嘆かわしい光景がくり広げられていた。兵士たちが激突し、死者が横たわり、負傷者が苦痛のうめき声をあげている一方で、公衆浴場や居酒屋は人でいっぱいだった。死体が折り重なり流れた血が川を成しているそばでは、娼婦たちが客と交渉していた。一方では、平和を満喫しながらの快楽。そのすぐそばでは、無惨にも引き立てられて行く敗残兵。要するにローマ全体が、狂気と堕落の街と化したかのようであったのだ。
 首都内での市街戦は、ローマの歴史ではこれがはじめてではない。スッラが二度、キンナが一度決行している。だが、あのときと今とのちがいは、徹底した民衆の無関心にあった。首都の民衆は、内乱の行方になどは関心がなかった。市街戦という見世物に、関心があっただけなのだ。それゆえに、ちょうどサトゥルヌス祭の休暇と時期を合わせたように起こった市街戦だったこともあって、祭日に供される見世物を愉しむのと同じに愉しんだのである。この人々にとって、ヴィテリウス側が勝つかそれともヴェスパシアヌス側が勝つかなどは、どうでもよいことであった。こうして首都の庶民は、国家にとっての災難すらも快楽に変えてしまったのである。――

 愛国者タキトゥスの慨嘆はわかる。しかし私には、ローマ人同士の市街戦を、競技場で闘われる剣闘士試合でもあるかのように観戦した庶民の反応のほうが、事態を正確に把握していたと思えてならない。たしかに、紀元六九年末の首都内での戦闘は、ローマ帝国にとっては災難であった。だが、民衆は察知していたのだ。意識はしなかったにせよ、どちらが勝とうと変わるのは皇帝の首だけであることを、彼らは知っていたのである。それに、何度も変わればそのうちに、自然に淘汰された結果にしろ、少しはマシな「首」が皇帝の座を占めるようになるであろうことも、庶民の智恵でわかっていたにちがいない。
塩野七生「ローマ人の物語 (21)」197~199頁 新潮文庫
「庶民の智恵でわかっていたにちがいない」というのが、ちょっと良く解釈し過ぎに思えますが、まぁ、分からんでもないです。

かなり前(まだ五十五年体制だったころ?)、ビートたけしが、
「投票率が低い、投票率が低いと騒いでいるけど、投票率が高い国なんて、やばい状態なんだから、それでいいんだよ」
と言っておりました。

「投票率が低いと言うことは、民主主義の放棄だ」
というのは建前ですが、ビートたけしの言っていることも、なかなか正鵠を射ているのではないかと。

確かに、投票率がベラボーに高い国って、初めて選挙が実施された国か、独裁国家だったりするもんなぁ~。

まぁ、そんなことを思い出した一説でした。


これまでの感想。
塩野七生「ローマ人の物語 (17)」まぁ面白いんだけどさ
塩野七生「ローマ人の物語 (18)」男の夢
塩野七生「ローマ人の物語 (19)」努力が報われないタイプ
塩野七生「ローマ人の物語 (20)」石原慎太郎が「これからの日本は、まだまだ良くなる!」と言っている姿を、ちょくちょく拝見するが、その根拠はどこから来るんだろうと不思議に思いつつも、ああまで自信たっぷりに発言することが大事なんだろうなぁと感じたりします。


ローマ人の物語 (21)

新潮社

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