すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」

2005-10-16 08:40:10 | 雑感
人間万事塞翁が馬


「未亡人の一年」を読み終わりました。………と言っても、けっこう前に終わっていました。
が、感想を、どうまとめればいいのだろう? と考えているうちに、時間ばかり過ぎていく。
そして、時間が過ぎると、内容を忘れてしまう…………。

ちなみに、こちらが上巻の感想。
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(上)」しかし、この表紙はハーレクインロマンスみたいだ………


とりあえず、タイトルの由来から考えてみることにしました。
「未亡人の一年」。現代は「A WIDOW FOR ONE YEAR」だから、ほとんど直訳なのかな?

これが何を指しているかと言いますと、もちろん、ルースが最初の旦那アランを亡くしてから、ハリーに出会うまでの期間。

ルースは、その一年をこんなふうに表現しています。
 アランが死んでからまる一年経ったいま、自分が小説に書いた未亡人とまったく同じように、ルースが「いわゆる記憶の洪水に押し流されがちなのは、朝起きて隣で夫が死んでいたときと変わらなかった」。
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」377~378頁 新潮文庫
この「記憶の洪水に押し流されがち」というのは、ルースのことを指しつつも、この物語のもう一人の女性主人公である彼女の母親マリアンの状態にも通じます。

マリアンが、二人の息子を事故で亡くしたことを思い出すと「石」になってしまうことが、まさしく「記憶の洪水に押し流され」た状態でしょう。


で、なぜ、娘のルースが一年で立ち直ることができたのに対して、母親が四十年もの間、そのことを引きずらなくてはいけなかったのか?

二人を対比している箇所として、こんな文章があります。ルースが、母親の小説に対して抱いた感想です。
 エディがマリアンの心理状態――または『マクダーミッド、引退する』を読んで想像できる心理状態――についてくよくよ考えていたとしたら、ルースのほうは母親の四作目にはがまんならず、軽蔑を感じていた(この作品では、哀しみが自己陶酔になってしまっているとルースは思った)。
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」359頁 新潮文庫
単純な対比となってしまいますが、
  ・ルースは、過去を自己陶酔の対象とはしなかった。
  ・マリアンは、過去を自己陶酔の対象としてしまった。
ということになります。(少なくともルースは、そう考えたのではないでしょうか?)


が、悲しみの深さが違うのですから、自己陶酔の対象とすることで、その悲しみを乗り越えようとしていることを非難するのは、ちょっとかわいそうな気がします。

ルースの旦那は病死です。
それ比べて、マリアンは、二人の息子を惨たらしい事故で、一度に亡くしてしまいます。しかも、その事故は自分の見ている前で起こったことなのです。

悲しみから抜け出せなくなっても、仕方ないのでしょうが…………。


作者のジョン・アーヴィングは、悲しみ囚われた女性を、もう一人登場させています。怒れる未亡人です。彼女は、その当時、結婚すらしていなかったルースに、以下のような手紙を送っています。
「中絶や出産や養子縁組のことを書いておられますが、あなたは妊娠さえしたことがない。離婚した女や未亡人のことを書いておられますが、あなたは結婚さえしたことがない。いつ未亡人が世の中にもどったらいいか書いておられますが、一年だけの未亡人なんていません。わたしは死ぬまでずっと未亡人です!」
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」81~82頁 新潮文庫
「一年だけの未亡人なんていません」と書いていますが、ルースは、一年だけの未亡人でしたし、この怒れる未亡人ですら「わたしは死ぬまでずっと未亡人です!」と断言していましたが、物語の終盤になって彼女も再婚して、幸せをつかんでいます。

「一年だけの未亡人」と「死ぬまでずっと未亡人」を分けたものは、なんだったか? これは、この未亡人自身が、手紙の中で書いています。
「ホラス・ウォルポールは書いています。『世界は考える者にとって喜劇であり、感じる者にとって悲劇である』でも、考えそして感じる者にとって、現実の世界は悲劇です。喜劇なのは幸運な人にとってだけです」
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」82頁 新潮文庫
むごい話ですが、この「幸運」というものでしたか、人間の人生は、期待できないのかもしれません。

それは、後にハリーという理想的な再婚相手を見つけたルースも、感じています。
 ルースは自分が幸運だとわかっていた。つぎの本は運について書こうと考えた。幸運と不運が、すべての人に平等に分配されるわけではないということを書こう。生まれつきではないにしても、自分ではどうにもできない環境のなかで、そして、規則などないかのようにぶつかりあう出来事――どんな人にいつ出会い、そしてその大切な人がまた、いつほかの人に出会ったりするのか、あるいはしないのか――のなかで、幸運と不運はそれぞれの人にまちまちに振り分けられていく。
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」470頁 新潮文庫
では、マリアンには、この幸運がなかったのだろうか? と考えると、それはエディなのかなぁ~?

三十七年ぶりの再会で、彼女はエディに向かって、こう言っています。
「そうね、あなたになら手伝ってもらえるわね。こんなに長いあいだ、あなたに助けてもらいたいと思ってたんだから」
ジョン・アーヴィング「未亡人の一年(下)」494頁 新潮文庫
じゃ、なんで、彼女は、もっと前に会いに行こうとしなかったのだろう? いや、それ以前に、なんで、彼女の人生の最後のときに、エディと再会しようとしたんだろう?

「そりゃ、小説なんだから、最後に再会させなきゃ!」

まぁ、そうなんだろうけど。それは、置いといて。

それでも、一応、理由を探そうとすると、マリアンはエディを試していた? エディが本当に自分がお婆さんになるまで自分を愛してくれるのだろうか? と。

で、なければ、自分の悲しみを分け合える男に成長するまで、待っていた?

はたまた、彼女が自分の悲しみを乗り越えるまで四十年必要だった?(「悲しみは伝染るのよ、エディ」(同書494頁)と言ってるしなぁ。この伝染を防ぐために、悲しみが癒えるまで敢えて距離を置いた?)

そんなとこかな? なんか釈然としないけど。


というか、ハリーの登場も、ちょっとご都合なんだよな。
性格的には立派な男なのに、どうして、五十を過ぎるまで独り者だったんだ? なんか、これも釈然としないんだよなぁ~。


まぁそんなこんなを差し置いても、おいしい小説であることは間違いないですけど。

映画も見たいのだが(ネットを見たところ、まぁまぁ好評だね)、こんな片田舎ではDVDになるのを待たないといけないようです。


未亡人の一年 (下)

新潮社

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