水滸伝とは違います。
先月の11日から、連続して「水からの伝言」を使った小学校の道徳の授業について取り上げましたが、それに先立って、「小学校の時の理科の話」というのを10日に書きました。
これには、理由があって(そりゃあわざわざ書いたんだから理由はあるわな)、小学校2年生の時のその先生のことなのだ。
悪い人ではないと思うのだけど、ぼくはその先生にものすごい不満があって、それはあの理科のことではなく、生徒の表面しか見ようとしない、ということなのだ。
ちょっとあまり具体的には書きたくないのと、記憶も曖昧になっているので抽象的な話になるけれども。
生徒がだんだんおかしくなっていくときには兆候があるのだ。その原因はいろいろあるだろうし、家庭が原因である場合が多いと思うので、学校の先生がすぐさま解決するということは難しいだろうが、兆候は分かるはずだ。
その先生は産休の代理の先生で、その先生が来てからだと思うけど、ある二人の生徒が、だんだんおかしくなっていったのだ。
二人はあまりできのいいほうではなかったが、ど田舎の学校だから、それほどプレッシャーなんて無いはずなのだ。
でも2年生にして早くも悪くなりつつあったのである。
これは、もう傍目にも分かるような形で徐々に周りの迷惑になってきた。
まあ、小学2年生だから、たかが知れてるんだけどさ。
イタズラとか嫌がらせとかそんなもんだ。
ぼくなんかは1年生のときは彼らと遊んでいたけれども、変になってきたから、徐々に疎遠になっていった。他に遊び相手になる友達も一杯いたし。
わざわざ嫌がらせの好きなやつらと遊んだりするほど立派な人ではなかったということかも。
彼らは、明らかに授業なんかもきかなくなってきて、誰が見てもおかしいのに、その先生は注意しない。
あるとき、休み時間にぼくのものを盗って、そのまま授業中になり、ぼくから盗った物を教室の後ろのほうに捨てたので、ぼくは授業中にも関わらず怒ったことがあった。
当然、授業の妨げになるから、先生も何事かと授業を中断して、ぼくに話をきく。仕方なく説明したら、一応、彼らのことをしかったが、これがまったく表面だけ。
彼らは「もうしません」といいつつ顔はにやけていたのに、それで終わり。それどころか、ぼくはぼくで、「仲良くします」と言わされる始末。
なんでやねん。
ぼくが彼らと仲良くなくなった理由はきかないのか?彼らがあれでよくなるのか?
とにかくいつもその調子。所謂ことなかれ主義の典型を見た思いがした。
以降、ぼくは彼らと反目することになるし、本来の担任の先生が戻ってくるまで、彼らはなおらなかった。
「もうしません」という言葉があればそれでいいのか、ってことなのだ。
リンクした「水からの伝言」を使った授業のケースを見て、このときのことを思い出していた。
単語の意味だけで、ただきれいとかきたないとかいっても意味がないのだよ。
「水伝」を使った道徳の授業で、生徒に「ありがとう」といわせて、気持ちが入っていない場合は、もう一度言わせる、なんていうのが有ったが、感謝の気持ちもないのになんで心がこもるのだ。バカではないか。
朗読が上手になればいいのか?狡賢い処世術を身に付ける時間なのか?
そんなことしているから、いじめなんていうくだらない行為がなくならないのだ。
大切なのは日常だろう。感謝の気持ちが大切なら、感謝の気持ちを表すべき時にそれを表現するようにすればいいのだ。
そのために小学校では担任がずっとみるのではないのだろうか。
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