Do you really dream of jumping sheep?
(ども 火星人です。レイシストお断り)
Martian Official Weblog



地球に来て困ること。

それは、セレーネからの攻撃です。正確には私に対しての攻撃と言うよりは、捕獲活動ですが。

セレーネは美少年エンディミオンを自分のものにするために、永遠の眠りにつかせてしまったわけですが、エンディミオンはうんともすんともいわないから、もの足りなくなったのわけですね。

そこで、火星からやってきたばかりの私に白羽の矢が・・・。(めそめそ)
美貌が仇となるという例です。

セレーネはどのように捕獲使用とするのかと言うと、月の一部が雫のように落ちて、というかのびてくるわけです。
まあ、カメレオンの舌みたいなもんですね。
実は、あの月、柔らかいんですよ。(これ、qfwfq が言ってました)

それで、ビトッと捕まえようと来るわけです。

まず、これが面白きもい。じゃなくてストレートにきもい。

それで、セレーネは嫌じゃないんだけど、なんといっても永遠の眠りは勘弁して欲しいのだ。
私は眠ったまま、永遠の美少年になってしまうのだろうか。(美中年だろw)

いや、やはりここは、交渉次第だ。
私は、幸い火星人だから、地球人よりも歳をとるのが遅いのだ。まず、これを強調。
それから、ただ眠っているより、動くほうが楽しい。(いや、別にそういう意味では・・)




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さて本題です。

立派な皇帝のあとに、自分のことを書くとは我ながらいい度胸だ。(わら

これは旧ブログの初回の続きというか、その後なのです。
その時に言ったことを簡単にまとめると、

「死」というのは、別れ(あるいは挫折っぽいことでもいいけど)というようなものの総体で、昔はこれがとても怖かったけれども、最近は慣れてきて、それほど怖いとも思わなくなってきた。

というようなことです。
しかし、ごく最近気がついたのです。嘘でした。気のせいでした。

なぜ怖くなかったかというと、別れを怖がるような「対象」がなかっただけなのだ。
ではなぜなかったのかというと、それは、たまたまではなく、そのように生きていたからなのです。
例えば、自分でやりたいことというのははっきりしていて、だから、そのためにそれなりに(まさに「それなりに」)やってきたわけです。

友人はいるけど、たまに会う程度。愛人はいない。(笑)
結婚なんかは、まあ相手がいないと出来ないけれども、基本的にうまくいかないと思っているから、したいとかしようとか思わない。そもそも相手を探すという努力をする気がない。
もしすることになるとしても、たまたま、それもかなり薄い可能性でのたまたまでしかあり得ない。

それから、ネットだと、多くの人とたびたび関わりますが、で、結構あちこちに仲のいい人、しばしば(あるいは時々)対話する人はいますが、大抵は顔も知らないし、本名も知らない。
まあ、それでも対話が成り立つのがネットのいいところだし、利害とか打算とかそういったものが(大抵は)関係なく対話できるのがネットだし、年齢であるとか(会社などでの)立場やだとか住んでいる場所とかも越えて対話できるのがネットなのだ。

ついでにいうとオフ会なんかもしたことがない。

要するに人間関係が希薄なのだ。
それはつまり特別な感情を持たずに済むということなのだ。
誰かを憎んだり憎まれたり、ひどく嫌いになったり嫌われたり、あるいはとても好きになったりすることがない。
ここで関わる人というのは、自分にとっては、大抵の場合、普通に好きな人であり、一部は、ちょっと嫌だなという人という程度なのだ。
普通はネットなら喧嘩したって知れたもの。

なぜそうしているかというとそれは簡単。

(1)傷つくのが怖いから。
大失恋なんてしたら下手をすれば何年も立ち直れない。(爆)
まあ、大失敗も同様です。

(2) これも(1)と大差ないけれども、激しい嫌悪感だとか感情的な対立などは酷く疲弊します。それを避けるため。


それでこれらの人たちとの「別れ」というのはどうか。
ネットの場合だと、時々は(ネット上で)「会える」(対話できる)わけです。

会えなくなってしまっても、薄い関わりならば「別れ」もそれほどにはつらいものではないでしょう。
こういう場合、「終わり」についてもさほど深刻に考えなくていい。

だから特別怖くない。そういうことだったのです。

しかし、もし深く関わるとするとどうなるか。
細かなことは省略しますが(この期に及んで・・)、私の場合、ある時期に「別れ」を予感してしまうのです。
本当は予感でもなんでもなく(というよりも最初から予感という表現は変だけど)、単に自分の性質に過ぎないのかもしれないけれども、分かりやすくするために、例えば恋愛の場合で言えば、普通はとてもうまくいっている時期があって、何かのすれ違いがあった時点から終わりが始まるわけですが、私の場合、多くはまだまだこれからじゃん、という時点から、頭の中でお別れシミュレーションが何通りもコンプリートできちゃっているわけです。
よく出来ましたシミュレーションは、完成しない。

上記は、恋愛の話ですが、
どうも最近、いろいろと(?)お別れシミュレーションが脳内で出来つつあるのです。
これはあることに深く感情移入してしまったということです。
(恋愛というようなものではないが、具体的には書かないというかちょっと書けません。)
感情移入していく段階ではいろいろとモチベーションも上がっていいことなのだけれども、残念ながら脳内はお別れシミュレーションモードにすでに入っていて、気分はさがりっぱなし。

これ、もともとは面倒な事を回避したがる性質によるもので、(だから希薄な関係の世界で生きていたわけだ)、これが始まるとまったく関係ないことまで回避したくなる。
ちょっと頑張って大人になるしかないんだよなあ。(やる気が起こらなくてもやることはやる)



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まずは前振り。

「終わりの始まり」というタイトルで書こうと思ったところで、すこし検索してみました。

そうしたら、最初に、「ローマ人の物語〈11〉―終わりの始まり」(塩野七生氏著)なんていう本が出てきた。
よく見えないけれども表紙に石像の写真が二人(というか二つ)あり、これはどう見てもローマの皇帝の話だろうとまあ、思ったわけです。

私の考える(といっても自分の感覚とはちがうんだけれども)「終わりの始まり」と同じようなものならば、おそらくはマルクス・アウレリウスのあたりであろうとまず思った。

で、解説をみるとはやはりだった。


こちら


言うまでもないかもしれないけれども、ローマがもっとも繁栄した五賢帝の時代の最後の皇帝です。

ついでに五賢帝の簡単な説明をしておくと、
時期は西暦96~180年。

ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人のローマ皇帝のことです。
ネルウァが皇帝になる時は、ローマが混乱していたときで、人望のあるネルウァが皇帝になったことで、落ち着いたわけですが、2年しか在位期間がなかったので表向きは、たいしたことはしていない。
なのになぜ彼から「五賢帝」といわれるのかというと、ネルウァがあとの4代の皇帝の繁栄の基礎を作ったからなのです。
それは、次期皇帝の選びかた。世襲制ではなく、最も(って、難しいけど)有能な人物を用紙にして自分が死んだら(あるいは退位したら)そのままその養子が次の皇帝になると言うものです。十分な貢献です。
その次の、トラヤヌスはローマの版図を最大に拡大し、ハドリアヌスは守りを固めインフラの整備をし、アントニヌス・ピウスは、その在位25年間をまったく平和に過ごした。(ついでに剣闘士のあれも廃止)
まあ、アントニヌス・ピウスの時代がピークなのでしょう。ということは終わりが始まるわけです。

で、マルクス・アウレリウスはというと、なんだろう。
ローマの滅亡を400年遅らせた、なんていわれているけれども、アントニヌス・ピウスの時代が平和すぎたせいか、その反動で彼が皇帝になったとたんあっちこっちから攻めてきた。それで彼はあっちこっちで戦争する羽目になった。
在位期間中ほとんど戦争をしていた。もともと彼は哲学をやりたかったのだ。とても戦争に明け暮れるようなタイプではない。でも皇帝になっちゃったからしょうがない。
「自省録」という彼の書いたものは、未だに売れ続けていて(といっても、昔はそんなの売っていたわけがないけど)、たぶん脅威的な出版部数でしょう。
内容は、独り言。まあ、今ならブログになりそうだ。(笑)薄い本なので、気楽に読めます。
哲人皇帝とも呼ばれています。
でまあ、彼の後に賢帝がなぜ続かなかったかというと彼が息子(っていうか馬鹿息子)を後釜に据えてしまったからでした。(本当に滅亡を400年遅らせたといえるだろうか)
ちなみに映画「グラディエイター」では、最初に出てきて死んだ老人です。(またリドリー・スコット!)

アウレリウスあたり、詳しくはいずれHPにアップするかもしれません。(しないかも・・・)
要するに、「終わりの始まり」とは当然、ピークがきた時に始まるはずなのだ。(普通はそうだよ)
(上記の本だとちょっとずれてるけどね)



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